アナログ派の愉しみ/映画◎山田洋次 監督『男はつらいよ 寅次郎恋歌』

「不要不急」と「必要火急」は
表裏をなしている


「男はつらいよ」シリーズの第8作『寅次郎恋歌』(1971年)のなかに、こんなエピソードが描かれている。寅次郎(渥美清)の妹・さくら(倍賞千恵子)にとって義父にあたる元大学教授の老人(志村喬)が突然、葛飾柴又の「とらや」へやってきた。主人のおいちゃん(森川信)は茶の間に迎え入れたものの、口をへの字にした相手とのあいだでしどろもどろのやりとりが交わされる。

 
「大学ではその、何がご専門で?」
「インドの古代哲学です」
「インドの……、はあ、なるほど。インドですか、大学でございますねえ」

 
気まずい沈黙。そこへ寅さんが賑やかに帰ってきたとたん、いっぺんに空気が和んで、ざっくばらんなおしゃべりがはじまるといった寸法だ。わたしは初めてこの場面を観たとき、いかにも場違いなインド古代哲学の弁に大笑いしながら、東大法学部卒の山田洋次監督ならではのアイロニーに舌を巻いたものだ。ところが、最近、いささか見解を改めたのは、こちらの年齢がその元大学教授に近づいたことだけが理由ではない。

 
新型コロナ禍のもとでしきりと「不要不急」の外出自粛が求められて以来、いつの間にか、高温や大雨などの天気予報でも当たり前のように「不要不急」を避けるよう指示されるようになり、いまや「不要不急」はまるで社会悪と同義語かのようにはなはだ旗色が悪い。なんでも対義語は「必要火急」だそうで、ひところはその四文字をあえてTシャツにあしらって闊歩する若者たちも出現したとか。それはともかく、われわれ庶民にとって「必要火急」とは、日々額に汗して働きながらまずは家内安全の生活を営むことに外ならず、つまりは「とらや」のおいちゃんが暑い日も寒い日もせっせと草だんごをこしらえて一家円満に暮らしていくのが「必要火急」であって、それからすればインド古代哲学の研究なんぞ「不要不急」以外のなにものでもないだろう。

 
元大学教授だけではない。風の向くまま気の向くままの浮き草稼業をなりわいとするフーテンの寅さんもまた「不要不急」の住人であって、だからこそ両者はごく自然体で交感しあうことができたわけだ。その意味では、俗世間の「必要火急」の外部には、赤子のようにのびのびとした無垢な境地が広がっているとも言えるだろう。

 
「そこに果報があるあいだとどまったのち、彼らは来たときと同じ道を再び虚空へともどり、虚空から風におもむく。彼らは風となり、そして煙となる。煙となったのち霧となる。霧となったのち雲となり、雲となったのち雨となって降る。彼らは米、麦、草、木、胡麻、豆としてこの世に生まれる。ここからは、まことに、脱却するのがむずかしい。なぜならば、だれかが食物(として彼ら)を食べ、精子を射出するときに、それ(精子)となることがようやくにしてあるからである。さて、この世においてその素行の好ましい人は、好ましい母胎に……(以下略)」(服部正明訳)

 
これは、インド古代哲学の集大成『ウパニシャッド』の一節だ。いまから2500年以上も前に成立したとされるこの個所では、わたしたちにも馴染みのある「輪廻転生(生まれ変わり)」の原理を解き明かしている。なるほど、こうしたビジョンは悠久のインドの大地においてえんえんと思索を積み重ねなければ生まれてこないたぐいのもので、まさしく「不要不急」の神髄と見なすべきだろう。

 
やがて、この精神風土からお釈迦さまの仏教が興り、日本にも伝わって、「とらや」の愛おしい面々をはじめ、われわれ庶民の日常生活の根底にある人生観を織りなしてきたことに思いを致せば、実のところ「不要不急」は「必要火急」とぴったり表裏をなしているはずだ。とするなら、今日に至ってことあるごとにそれをないがしろにするのは、あたかも天に唾する態度のように思えるのだが、どうだろうか?

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