アナログ派の愉しみ/本◎三浦英之 著『牙』

アフリカゾウを絶滅に追い込むのは
日本人の「無知」なのだ


この三浦英之著『牙』(2019年)を教えてくれたのは、当時、大学2年だった知りあいの男子学生である。著者は朝日新聞記者で、2014年から17年にかけて南アフリカ駐在の特派員をつとめ、その間にアフリカゾウの密猟の実態を追った取材活動のルポルタージュで、小学館ノンフィクション大賞を受けている。衝撃を受けた! と、学生は興奮の口ぶりで伝えてきたが、わたし自身、ケニアで大量の象牙が焼かれるニュース映像を見た覚えはあるものの、およそ無知なだけに驚くべき内容だった。

1940年代に約500万頭いたとされる野生のアフリカゾウは、象牙目当ての密猟のせいで2010年代には約50万頭まで減少して、環境保護団体によれば、このままではあと1世代で絶滅するという。こうした事態を招いたものは、現地のカラシニコフ銃を手にした貧困にあえぐ人びとであり、賄賂によって見て見ぬふりをする警察やレンジャーであり、かれらの頬を札びらで叩く中国の国家ぐるみの密猟組織であり、その資金をテロ活動に流し込むイスラム過激派であり、そして、いまだに印鑑の材料に象牙を用いるわれわれ日本人であり……。著者は関係者に当たりながら、欲望と流血でがんじがらめになった構図を丹念に浮かび上がらせていく。

2016年9月、南アフリカのヨハネスブルクで開催されたワシントン条約締結国会議において、アメリカとアフリカ29か国から象牙の国内市場閉鎖が提案される。最大当事国の中国も賛同して、ついに世界全体の象牙の流通を途絶させる期待が高まったとき、これに異を唱えたのが日本だ。象牙製品を求める人々のニーズを満たし、これまで日本が培ってきた象牙に関する伝統文化を後世へと継承し、その収益によって南部アフリカの国々はゾウの保全を安定的に続けていくことができる、と訴えて、自国の国内市場の存続のため修正案につぐ修正案で対抗したのだった。

そうした日本政府の対応は、わたしに言わせれば、先年の国際捕鯨委員会(IWC)からの脱退などにも通じるところがあるのではないか。もちろん、自国の言い分を主張するのは大切だが、そのあまり、いつまでも偏狭な島国根性から抜け出せないとしたら国際世論のなかで孤立していくことが案じられよう。

結局、なんら事態打開の方途を見出せないまま、特派員の任期を終えてアフリカを去るにあたって、終章にはこのような感懐が書き留められる。

「中国も日本も関係ない。ワシントン条約の問題でさえない。アフリカゾウを絶滅に追い込んでいる最大の要因――。それは象牙を消費する側が抱えている『無知』、もっと踏み込んで言えば、我々先進国で暮らす人間の、アフリカに対する『無関心』ではなかったか。私自身、三年前までその『対岸』にいたのでよくわかる」

そう、読み手のわたしもまた痛烈に指弾されているのだった。

著者の三浦英之は1974年生まれ。2011年3月の東日本大震災の直後には、被災地の宮城県南三陸町の駐在記者となり、1年間にわたって朝日新聞紙上に『南三陸日記』として現地の人々の悲しみと復興へ立ち向かう姿を連載して反響を呼び、のちに一冊の本にまとめられた。

人間とゾウを同列に置くのは憚られるかもしれないが、しかし、みずからの目の前で生と死のせめぎあいに直面している「いのち」に対して、著者が向ける眼差しの温かさと厳しさには共通するものがあるように思う。もうひとつ、双方のルポルタージュに共通するのは、どちらにも多くの取材対象者が登場して、なかには非常にデリケートな関係も含まれながら、すべて実名の記述で通していることだ。例外的に匿名の場合は理由が明記されて、メディアで当たり前になっている虚実不明な仮名扱いは一切ない。やはり著者の真摯な態度を示すものだろう。

さて、わたしにこの本を教えてくれた男子学生である。かれはその後、みずからもジャーナリズムの仕事を志して朝日新聞社に入社し、現在は関西の拠点でエネルギッシュに取材活動に邁進している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?