アナログ派の愉しみ/本◎山崎豊子 著『不毛地帯』

もはや神話となった
経済超大国日本のオデュッセイア


これは架空の物語であって、過去・現在において実在する人物や出来事と類似していても偶然に過ぎない――と巻頭に明記されている。だが、近畿商事副社長・壹岐正がイランのサルベスタン鉱区で難航する石油開発をめぐって、政府の支援を得るため裏工作を行う場面には、明らかに田中角栄がモデルの総理大臣が登場する。

 
早朝にその豪壮な私邸を訪れると、書生に応接間へ案内され、窓の向こうに広がる庭では放し飼いの孔雀たちが遊んでいる。やがて「よう、よう」と大股でやってきた総理に向かって、このプロジェクトにはすでに約200億円を投じたと報告したところ、相手は「派手に使いも使ったものだな」と応じてから「わかった、わかった」と話を遮った。壹岐は一礼して立ち上がり、庭に目を向けてこのように口にする。

 
「実に見事な孔雀でございますね、以前、総理手ずから餌をやっておられるお姿を拝見しましたので、孔雀がことのほか好むと聞いた配合飼料をお持ちしました」

 
そして、厚さ5センチほどの箱をふたつ取り出してテーブルにのせる。なかには1000万円の現金が入っていた……。山崎豊子が『不毛地帯』(1978年)の大団円に迫るこの場面を『サンデー毎日』に掲載したのは、ときあたかもロッキード事件が発生して田中が世論の指弾を浴びる一方、政界では空前の権力を掌握していた時期だったことを考えると、いくらフィクションと断ったとはいえ、あえてこうした描写をやってのけた作家魂の凄味に打たれずにはいられない。

 
主人公の壹岐は、太平洋戦争中に大本営参謀として作戦立案に携わったのち、満洲の関東軍のもとへ終戦処理の伝達に赴き、そのまま現地でソ連軍に拘置される。以後11年間にわたるシベリア抑留生活を送って、帰国。やがて関西の中堅商社・近畿商事に転身してからは、航空自衛隊の次期戦闘機選定、日米の自動車メーカー提携、イラン・サルベスタン鉱区の石油開発……と、必要に応じて政治家や官僚を籠絡しながら、つぎつぎに大型プロジェクトを実現していく。極寒のシベリアの雪原から、炎熱のイランの砂漠までの「不毛地帯」を辿った壹岐の苛烈な道行きは、もはや神話となりかけている経済超大国日本の英雄のオデュッセイアでもあったから、今日まで多くの人々に読み継がれているのだろう。

 
その壹岐のモデルは、かねて瀬島隆三といわれてきた。終戦時は関東軍参謀の立場にあって、11年間のシベリア抑留生活を体験したあとに、伊藤忠商事に転じて会長職までつとめたが、一般には1980年代に第二臨調(臨時行政調査会)、第一・第二行革審(臨時行政改革推進委員会)のメンバーとして広く知られた。著者の山崎はあくまで小説の参考にした複数の人物のひとりと断り、当の瀬島はとくにコメントを残していないようだが、むしろかれのほうが国鉄分割民営化をはじめ行財政改革の大ナタをふるっていくうえで、壹岐のイメージを利用した気配がある。その意味では瀬島の存在自体、あの時代が生んだフィクションだったのかもしれない。

 
ところで、文庫本にしてざっと3000ページにおよぶこの長篇小説のなかで、最も鮮烈な印象を受けたのはつぎの場面だ。4月になっても寒風の吹きすさぶシベリアで日本人戦犯らがつぎの監獄へと移送されていく途次、中継地の収容所にはかれらの他にも多種多様な囚人が集められていた。そのうち女囚用のバラックのまわりでは、軒下や物置の陰にぼろ布をまとった女たちが大勢折り重なって、そこに霜が降り積もって白い小山のようになっている。壹岐が驚いて「どうしたんだ、死んでいるのか」と隣の男に聞くと、こんな答えが返ってきた。

 
「バラックへ入りきれないで、あぶれた奴だ、女というのは、男より残忍さ、男なら詰め込んでも入れてやるのにさ」

 
わたしはひとしきり言葉を失ったものだ。男にはおいそれと書けない、女性作家ならではの冷徹な筆力ではないだろうか。
 

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