アナログ派の愉しみ/映画◎勅使河原宏 監督『砂の女』

「引きこもり」体験が
世界をまるごと変貌させて


まさしく今日の状況に刃を突きつける映画ではないか。安部公房がみずからの小説をもとに脚本を書き、のちに草月流3代目家元となる勅使河原宏が監督した『砂の女』(1964年)だ。

 
昆虫採集を趣味とする教師の男(岡田英次)が海辺の砂丘へやってくる。新種のハンミョウを探してさまよううちに日が暮れ、通りすがりの村人の案内により近辺で泊まることにする。そのあばら家は砂地を擂り鉢状にえぐった地形の底にあり、縄梯子にすがって下りていくと、ひとりの女(岸田今日子)がもてなしてくれた。翌朝、男が出立しようとしたところ縄梯子が消え失せていて、必死に這い上がろうとしたものの砂の壁面はもろくも崩れるばかりで地上まで辿りつけない。女を問いつめると、つねに降ってくる砂を毎日かき出さなければならない、それにはどうしても男手が必要なのだ、との答え。男は村の連中に謀られて蟻地獄に落ちたことを知った。

 
われわれはふだん、網の目のように張り巡らされた社会秩序のもとで、とくに足元を気に留めることもなく安住している。だが、ひとたび網の目に綻びが生じてドロップアウトしてしまうと、そこにはいまも荒涼とした風土が広がっているのかもしれない。

 
地の底で男の日常生活がはじまる。宵闇の訪れとともに、女といっしょに砂かきにいそしむ。その代償として、村から水や食料、酒、煙草が支給される。夜通しの作業が終われば、ふたりは砂にかぶれないよう素っ裸になって横たわり、おたがいの肉体をまさぐりあい啜りあう。勅使河原監督の感性が捉えた砂の諸相はあまりにも美しく、その砂を汗だくの肌にまとわりつかせたふたつの肉体の運動もまた妖しく美しい。

 
およそ3カ月が経過したころ、男は思い立って、砂地に木桶を埋めると新聞紙で覆って煮干しを設置した。女に向かって「希望だ」と告げる。カラスを捕まえるための罠で、もし成功したら、その脚に救助を求める手紙をつけて空に放つのだという。だが、希望はカラスではなく、古びた木桶のほうにあった。数日後、男はそこに真水が溜まっているのを見出し、砂地の毛細管現象によるものと考え、ひそかに溜水装置の研究をはじめる。そんなある日、女が突如、激しい腹痛に苦しみだす。子宮外妊娠らしい。村人たちがやってきて慌ただしく女を医者のもとへ運び去ったあとには、縄梯子が取り残されていて、男はそれを伝って久しぶりに陸上へ上がる。あたりに人影はない。だが、砂丘のつらなりやその向こうの海の波濤をひとわたり見渡すと、男はふたたび縄梯子をつかんで地の底へ降りていく……。

 
映画は暴きだすのだ、かつて男の目に映っていた世界と、いま目の前に広がる世界とはすっかり顔つきが変わったと。ドロップアウトのあいだ、社会秩序から解き放たれていた体験が男にとっての世界をまるごと変貌させてしまったのだ。

 
昨年(2023年)の内閣府調査によると、新型コロナの流行の影響を受けて、現在、生産年齢(15~64歳)人口の約2%、推計146万人の男女が世間から断絶した「引きこもり」状態にあるという。すなわち、いまや日本列島じゅうにおびただしい蟻地獄が出現したわけだが、ドロップアウトしたかれらはふたたび社会秩序のもとへ復帰の一歩を踏み出すのだろうか。それとも、『砂の女』の男と同じように小さな希望にしがみついて蟻地獄に留まろうとするのだろうか。ラストシーンで男が口にする独白は実のところ、わたしの耳にも甘美に響くのである。

 
 べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ。私の往復切符には、行先も、戻る場所も、本人の自由に書きこめる余白になって空いている。おまけに、私の心は、溜水装置のことを誰かに話したいという欲望で、はちきれそうになっていた。話すとすれば、ここの部落のもの以上の聞き手は、まずありえまい。今日でなければ、たぶん明日、私は誰かに打ち明けてしまっていることだろう。
 逃げるてだては、またその翌日にでも考えればいいことである。
 

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