アナログ派の愉しみ/音楽◎早坂文雄 作曲『左方の舞と右方の舞』

日本人はいまや
平面運動の舞をやめてしまったのか


日本の伝統音楽とは何だろう? 『左方の舞と右方の舞』を聴くと、そう問わないではいられない。

 
汎東洋主義を標榜した作曲家・早坂文雄の代表作のひとつだ。三管編成の管弦楽にチェレスタ、ハープ、ティンパニのほか、大太鼓・小太鼓・シンバル・ウッドブロック・タムタムなどの打楽器が加わったオーケストラによって、日本古来の舞楽をいまによみがえらせようとするもの。そのうち、左方の舞(左舞)は西アジア・中央アジアをルーツとして、リズムを曖昧にぼかして旋律を中空に滲ませ、また、右方の舞(右舞)は東アジアをルーツとして、リズムをきわだたせて素朴な響きが持ち味といわれ、双方を組み合わせることによって時空を超えた音楽が立ち現れる。

 
あたかも平安朝の光源氏がそれに合わせて舞うのがふさわしいような、こうした音楽が27歳の作曲家の手によって1941年(昭和16年)8月に完成し、翌年3月に初演されたのは、少なからず意外の念を誘うのではないだろうか。というのも、その間には連合艦隊のハワイ真珠湾攻撃によって太平洋戦争の火蓋が切って落とされ、帝国陸海軍の快進撃に国じゅうが沸き返っているさなかのことだったのだから。つまりは早坂にとって、この雅やかなオーケストラ作品も西洋音楽の手法を用いての日本の国威発揚と、さらにはアジア全体をひとつにする大東亜共栄圏の気分を反映したものだったのであろう。

 
大野晋編『古典基礎語辞典』はこう解説している。

 
ま・ふ【舞ふ】
マハル(回る)と同根か。平面上を旋回する意。特に、音楽に合わせて平面上を旋回し、手足・体を動かすことをいう。類義語ヲドル(踊る)は、はねあがる、とびはねるのが原義で、舞踏をする意を表すのは中世以降。

 
すなわち、もともと舞とはたんに平面上の旋回運動を差し示すのであって、その意味では舞楽も、昔日の貴族が美を競いあうためのものだけでなく、およそ美とは正反対の小は身内のケンカから大は国家間の戦闘行為まで、人間どもの旋回運動をともなう振る舞いにはおしなべて伴奏の役割を果たすものなのだろう。手元にある芥川也寸志の指揮で新交響楽団が演奏したライヴ録音(1987年)のCDを耳にすると、約15分をかけて典雅な音響の大絵巻が繰り広げられ、そこには確かに多種多様な旋回運動を支える強靭さも聞き取れるのだ。

 
よく知られているとおり、早坂は戦前から映画音楽の分野でも活躍し、戦後にはとりわけ黒澤明監督とのパートナーシップで名声を博した。たとえば、『羅生門』(1950年)では、多襄丸(三船敏郎)と金沢武弘(森雅之)・真砂(京マチ子)の三つ巴の愛憎劇が、能の舞のような妖しさをまとい、『七人の侍』(1954年)では、島田勘兵衛(志村喬)以下の武士・農民と野盗集団とのあいだの殲滅戦が、まるで祭りの群舞かのようにわくわくと胸躍らせる。黒澤監督が時代劇に導入したハリウッド流のリアリズムとの相乗効果により、早坂の音楽がもたらす舞の息づかいがいっそう精彩を放って世界じゅうを唸らせたのだろう。

 
そうした舞という平面運動のあり方は、今日のわれわれにはすっかり縁遠いものとなってしまったようだ。芸能のシーンをジャニーズやらAKB48やらが席巻するばかりでなく、文科省が音頭を取ってダンスを義務教育の必修としたおかげで、全国津々浦々、猫も杓子も垂直運動の「ヲドル」に汲々としているのが現状ではないか。

 
若年より結核を患っていた早坂は、黒澤監督の『生きものの記録』(1955年)の仕事中に41歳で急逝する。こんなメッセージを残して。「日本的な特性とは、余白を重んじ簡潔を尊ぶ単純性、はじめと終わりのはっきりしない無限性、構成やリズムやテンポの非合理性、ひとつの主題を発展させ積み上げるのではなく相異なる要素を並べてゆく平面性、淡白さをよしとする植物的感性の5点に集約できる。(中略)西洋文化が存在に基礎づけられるとするならば、東洋文化は無に基礎づけられる。私の音楽の究極目的は、無を表現することだ」――。


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