論85.声で自由な表現をめざすために~ラップ、即興、アレンジ、フェイクのためのトレーニング(6763字)

〇日本語ラップの可能性
 
1980年代は、日本語ラップが始められてきましたが、ヒップホップの創世記です。
ヒップホップは、言葉で動かしていくので、メロディの制約から自由になるということでは、その両立に苦しんできた日本人のポピュラーの歌唱には、特に洋楽風のメロディに日本語をつける人たちには、福音だったと思われます。
やたらと高い声を出したり、シャウトしたりしなくてもよいので、そういうのが、苦手な日本人にも。ストレートに歌詞が織り込めるからです。
 
日本人には、話す声である話声域からみて、半オクターブが自然に出せるところであり、歌の長さとしても30秒から1分くらいが身の丈、私の持論ですが、ということで、所ジョージさんを例にあげたことさえ、ありました。
日本の、ただ自作品を詠みあげる詩人たちよりは、朗読を音楽と融合させた「叫ぶ詩人の会」のドリアン助川さん、あるいは、福島泰樹さんなどと接した私は、そこに大きな可能性を見出していました。
2000年代に入り、ラップは、一翼を担うかに見えました。スタジオに著名なラッパーの方々がいらしていた頃です。
 
しかし、結局のところ、日本人の場合は、そのスタイルや振り付け、ファッションなどに憧れて入っていくわけですから、声と言葉自体に力がないとことと、どうも即興性に欠けている。
日本語のリズムでなく、向こうのリズムに日本語を置くという点では、案外同じ、声も深くないということで、中途半端となり、違う方向に、その後の日本のラップは、動きます。それなりのアーティストを出していきました。
 
当時から、楽器等の演奏でなく、ダブということで、レコーディングエンジニアが、アレンジを加えて別のものに使い、変えていきました。
プロのプレイヤーが入らないことでは、これも、新しい世界を切り分ける可能性がありました。
日本の場合は、エアギターにエアドラム、エアバンドというような形で、あるいは、ヴォーカロイドということで、どんどんと専門職がいなくなるのですが、もともとそれほど高いレベルの専門職でないので、置き替えられるのです。
ハード技術力は、国際的にハイレベルなので、こうして音響的な技術や見せ方でしのいでいくというのです。それは、カラオケ機器の開発で見られるように定番なのです。
ともに、ミュージシャンではないところで支えて楽しめる音楽ということでは、型破りだったわけです。
 
音楽も歌もわからなくても、ラップならできるというようなことで、入っていた人がたくさんいたと思います。
ラップも、ジャズと同じく、ある程度、決まったリズムで進み、コードのようなものがありますから、全くの自由ではないのです。
 
評価したいのは、ことばでの即興ということです。そこは今も続いている要因で、また日本人ラッパーの才能です。ラッパーというよりは、即興詩人ですが。
ただ音楽のメロディフレーズがない、リズムものっかるだけです。音楽での即興でなく、言葉ですから、日本人らしい、ゆえに、その枠からでられたのではないでしょう。
ともかくも即興に苦手な日本人が、それなりに対応していったことでは、評価できるでしょう。
「詩のボクシング」が一時、人気が出たのに、やはり後継人材不足で力尽き、ポプコンやイカ天などと同じようになってしまったわけです。そういうことでは、グループサウンズなども同じです。
さらにそれ以前のお笑いと融合した音楽バンド、クレージーキャッツからドリフターズに近いのかもしれませんし、今のお笑い芸人で歌やリズムネタを即興でできる人、モノマネ歌芸人などにも関係します。
 
●DJとしてのグループレッスン  
 
私の行っていた実験的なスタジオでは、私がCDをかけて、聞かせ、それを聞いた通りに、あるいは自分で自由に変えて、そこにフレーズをつける。それを即時、声に出して返していきます。
課題フレーズからの創作です。10人から20人くらいで、同じものを使って、それぞれに作っていくのです。
時間を与えない、聞いたところまで、聞き取れたところまで、あとは自分のもので補っていきます。自分に何があるのかも問われます。
 
順番で最初に歌った人たちのも真似ることになります。本来は、課題、原曲からストレート、耳コピーしたいものですが、言語が違うとどうしてもできる人のを参考にせざるをえないのです。
自分のものをしっかりと持ってないと、その影響を受けて、モノマネになります。自分だけを出すとせっかくの優れたサンプルから学べません。常にこの両極で学ぶのがベストと思ったのです。
どんどんと伝言でゲームのように、回していくと狂っていくわけです。まるで、連歌の座だと思った記憶があります。連歌は書き残すので、乱れていくことにはなりませんが、音声では、参加者次第でどんどん劣化します。参加者が優秀なら、どんどんと回すなかでバージョンアップする、後ろほどいいものが出そうですが、配列は本人たちが自分で決めるので、そうはなりにくいです。課題をストレートにとれる優秀で慣れた人ほど前に来るからです。自動的に先輩から後輩への指導がなされるようなものですから、私のレッスンとしてかなり長く確立していたのです。
 
その目的は、優れた歌い手の、感覚をどんどんと自分に入れていこうということでした。聞いてみても歌ってみたら、全くコピーできないということで入っていないことはわかったら、何度でも聞き続けることです。
そして、でたらめでも何でもいいから、声に出してフィールドバックし続けることです。
 
多分、ラジオで、英語の歌を覚えたり、その言葉を勉強したという人は同じようなことをやっていたわけです。私たちが赤ん坊のとき、まわりの人の話す日本語を聞いて、やがて自分から日本語を話すようなプロセスも、この通りなわけです。
 
それを、凝縮してやっていたわけです。親や学校の先生よりも、一流のミュージシャンであるヴォーカリストを使うことによって、ハイレベルなものに、対応できる能力をつけていくということです。つまり、生身のまま、外国に行って、たくさんの夢を聞いている間に話せるようになるようなプロセスを試みたわけです。
 
それとともに、ともかくもそこで一通りの作品にしなくてはならないので、基本から応用までを瞬時に通すことになります。
心身の感度が極端に磨かれます。
 
一人ずつ回すということは、たとえ5秒でも、それがステージなわけです。
別に月1回は、前に立たせて、1曲を発表する場を与えるわけですが、1曲も聞く価値のない状況であれば、1フレーズが2フレーズで充分です。それを何十回も繰り返す方が、基本としては有効です。
そこでの差が見えないうちは、わからないうちは、まだまだ出せるものもないということです。
 
何よりもよいのは、他の人たちの学ぶプロセスが見えるということです。また、それまで聞いてきた経験によって、それぞれに得意不得意があるということもわかります。
つまり、個人差ということと、経験による習得されたもの、さらに、新しいものに対する対応力というのが見えてくるわけです。目的とギャップが見えると、それを埋める方法も、具体的に試すことができます。
 
私自身がもっとも学ぶことになりました。
これを対象の違うグループに対して、同じような形で、6つも7つも何グループもやると、その中の違い、その中のプロセス、それぞれの習得具合というのが、はっきりするわけです。
こちらの課題の与え方や使い方によって、自分が思った通りとか、全く違うようになります。レッスンそのものが即興です。うまくいかなかったり、うまくいきすぎたりすることによって、メニュや材料に対して、それなりに練れてくるわけです。
 
●音声表現の場の成り立ち
 
ともかくも、生徒、参加者、あるいは、ある意味で、私の観客が、私のディレクションでプレイをするのです。参加者にとっては、それぞれが主役であり、また観客であり、お互いに切磋琢磨できるプレイヤー、チームメイトであり、ライバルであり、材料であるわけです。
 
もちろん、ほとんどが、駄作しか出ないでワークショップのような形で終わります。だからこそ、たまにすごいものが出たらわかるのです。
少なくとも自分よりもできる人がどのレベルでできるかがはっきりとわかります。
 
最初にやっても表現できる人もいれば、そういったものを全て聞いた最後にやっても、全くできない人もいます。そこでの実力差がはっきりとします。
また、正確にコピーできる人もいれば、組み替えてオリジナルに、その人独自の表現を出せる人もいます。
何より大切なのは、そこに、実際、リアルに参加している人たちのどう働きかけるか、その場にいて、どう感じるかということです。私に返そうとして行なっていても、その場で問われるのです。
指導する立場で判断するのでなく、場にいて場が変わったのか、そこを基準にする、つまり、レッスンが成り立ったかどうか、それは参加者の出した声のフレーズが働きかける力にかかっているのです。
 
そこはライブの醍醐味と同じだと思います。私にとって、思いが伝わったというようなときには、とても気持ちよく感じますし、逆のときには落ち込みます。私の与えた課題に対して、彼らが期待以上のものを返したり、その場を支配し、周りに感動を与えたときには、彼らと同じように、こちらも感じるものがあるわけです。これが、私の最も幸福と思う時間であり、空間であり、レッスンの意味だったわけです。
 
つまり、クリエイティブな能力の試行錯誤とその作品、そのフィードバック、つまり、ここで、場を自分のものとするために、日ごろレッスンをし、トレーニングをし、その成果をここに持ってくるということです。
それと、同時に、この場自体が、レッスンであり、トレーニングであり、成長の場であるということです。
 
●ワークショップでの操る実感
 
ワークショップでは、これだけの高い緊張感と創出力を与えることがなかなか難しいです。参加者の質がそこまで高くないことと場の成立の価値観の共有に時間が足らないことが多いのです。歌のフレーズは高度すぎて、実際には、なかなかうまくいきません。
参加者の体験では、その満足度、達成感を味あわせて、それなりに盛り上げて終わらせることが目的になりがちだからです。
つまり、課題を発声か共鳴くらいに制限して、レベルを下げて、全員が体感でき、満足するような設定にします。ハモらせて一体感を出すのが、簡単です。セリフなら、滑舌、早口言葉がお手軽な割に効果の高いメニュです。
 
 
私がよく行ったのは、自称「天の声、地の声」というワークショップです。呼吸を深め、地声の振動から頭声にもっていくシミュレーションです。
 
長期的なレッスンの場においては、何十回、何ヶ月も失敗を繰り返したところで、それが大切な準備期間になります。試みが失敗するのは、参加者がそれだけの感覚と作品を出せないからです。
逆にいうと、この試みが成功するのは、参加者がすでに、舞台に立って、プロ以上の表現力を出していたときなのです。つまり、できたらジ・エンド、もうどこでも通じるのですから、そんな簡単にうまくいくはずがありません。
 
自分以外にそうした存在を知り、そうした場で生でリアルに感じることによって、歌の可能性を、あるいは、そこで求められてくるギャップをしっかりと把握することが、明日のために必要なのです。
 
何よりも自分と向き合い、自分を否定したり疑ったりしつつ、絶対的な自信を持てるように、やり続けなければいけないからです。
こうした試行錯誤は、実験的な場所ではよく行われていると思います。
舞台や歌やドラマ番組などの収録、リハーサル、本番などでも試行錯誤して起きていることだと思います。
 
〇生でリアルな声と音の力
 
海外などに行くと、勝手に別の演奏者のプレイに、歌でも、あるいは声でも歌というよりは楽器の音のように適当に入れると、そういうところから、心地よいものが生まれることがあります。
曲のアレンジ、フェイクなどをするのも、そういうプロセスを踏んでいるのです。
 
芸能や芸術が生まれるのは、こういったでたらめから出てくるのです。
浄瑠璃なども、言葉を喋っていたり、がなっていたり、適当に口を使って作っていたりすると、その中でよいというが出てきて、皆が真似たり、流行っていたりしているものに違いありません。
 
私もレッスンの場で、よく「歌を歌わないように」とか、「歌いあげている、歌をこなしている、メロディに載せているだけ」みたいな批判をすることがあります。
合唱団の歌で、本当にたまにですが、声がきれいだとか、ハーモニーなどに感動することがあります。
でも、歌い上げるところから、もうついていけない、何か向こうの方で延々と声を出して頑張っているなぁというようなことを感じた人がいたら、似たようなことだと思います。
合唱コンクールとか卒業式とか、限られた場で通じるのは、受け取る側での許容範囲がセットされているからです。それは、私の認めるアートではありません。儀式の作業です。
私が共感するには、そこに関係ない人まで思わず引き込まれ魅了されてしまう、最低限で、その場を自ら創出する力がいるのです。
 
〇型破りか形だけか
 
楽器を弾けない人と同じように、声を使えない人もいるわけです。自分の声が生でよくないからと、ダグをかけて違うものにすると、そうなると非音楽的どころか、非人間的になるわけです。ジョン・ケージが無音音楽を創造したように、メロディのリズムから自由になるようなもの、音楽といえるかどうかわからないものでも、表現活動としてあってもよいでしょう。
 
日本語から自由になるために、シンガーソングライターでも、メロディが先の人が多いわけです。英語で歌詞をつけたりします。それは、古来の日本の歌作りとは明らかに異なるわけです。
日本語を大切にしていた演歌、歌謡曲と違い、ニューミュージックあたりからは、曲が先行していきます。ともかく、洋楽に、英語でどう近づけているかということになります。子音を強調した歌唱をするのもそのせいです。
 
日本語のラップというのは、脚韻を踏んでいくわけです。「ヨー」とつけていけばいいみたいな。
日本語は、母音が5つしかなくて、ほとんどの言葉に母音がついているのですから、脚韻を踏むのは、とても簡単なのです。ダジャレおじさんの才能となります。
 
アナウンサーや声優、朗読家が読むと、作家が自分で読む時よりも、うさん臭くなります。プロゆえに、作られてしまうわけです。その演出の具合が、プロであるのがよいのか、プロという形が見えない方がよいのか難しい問題だと思います。
棒読みのように読むのが可能性があるのではありません。ジブリの宮崎駿監督は、声優の読み方が嫌いで、作品には、素人を多用しました。
 
〇生命力
 
ことばとは別に歌の力があるわけです。
素人は、マイクで自分の声を全く変えるところで、カラオケで他の人に聞かせられるレベルになります。驚異的な創造をしているともいえるのです。
 
ひらがなとローマ字、どちらがよいというわけでもないわけです。
物語の場合は、なぜそうなったかとか、どうなったかが問われることがあります。
歌の場合は、情景だけでいいのです。内容や意味が違ってくるよさよりも、音そのものが気持ちがよいという伝え方があるわけです。
 
文字は、言葉から身体性を奪ったものともいえます。音楽では、それが取り戻せます。それが歌であれば、さらに、元の通りになるわけです。
 
ゆっくりというのは、大切なキーワードです。日本の長唄や浄瑠璃、歌舞伎、その他もゆっくりです。それは間のところに想像力が働くからです。
 
時代とともに、内容や意味については、理解されなくなってくるのは仕方ありません。そうしたときの歴史観や時代感覚や価値観がわからないと、泣くに泣けない、笑うに笑えないということになるのです。
 
この時代では、忍耐力が弱まっています。
とてもひどいことの中に、感情や人間性というのがあるのですが、また、それが美しいものであったり、純粋なものだったりするのですが、タブー視されつつあります。
よいところ取りをして作られたものは、触り心地がよいだけで、本当の意味では力強さはありません。でも、その方が好まれて受ける場合は、そちらに行ってしまうわけです。
残酷なもの、ひどいもの、そういったものの中にあるひとかけらの優しさのようなものを失わないように気をつけることです。
信じなくては、いざ、ひどいことが降りかかってきたときに、生きていく力が出てこなくなるのでないかと心配します。
今が鈍くなっているだけ平和で、人間の生きてきた時代は、こんなものではなかったからです。

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