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初期アドルノにおける「哲学の課題」と「唯物論」――解釈、星座、弁証法


はじめに

本稿は、テオドール・アドルノの初期思想における、「哲学の課題」と「唯物論」について検討することを目的とする。アドルノは1931年5月、フランクフルト大学への就任時に「哲学のアクチュアリティ」と題された講演を行っている。この講演でアドルノは、それまでの「観念論」を中心とする西洋哲学が志向していた、「存在」をめぐる問いに対する批判と、「唯物論」の哲学的な位置付けを示すことを試みている。ここでの哲学と「唯物論」の関係をめぐる議論は、翻って「唯物論」を前提とした運動の可能性を考える上でも示唆に富むものであると考える。
以下、この点についてみていく。

「存在」をめぐる問いの失効

アドルノは、講演「哲学のアクチュアリティ」の冒頭で、西洋における「存在論」の哲学史的な整理をおこなっている(アドルノ1931、2−3頁)。西洋思想の伝統、とりわけ「観念論」において、かつては「思考」が「現実の総体」の「存在」に適合しているとの理解が示されてきた。つまり「存在」は、理性的に「思考」することによって把握が可能であり、そのことによって、「現実の総体」の把握もまた可能となる。しかしアドルノは、「こんにち哲学研究を職業として選択する者」は、「思考の力によって現実の総体を把握することができるという幻想」を放棄しなければならないと述べている(同上、2頁)。どういうことか。
アドルノは、「観念論」的な「存在論」の方法は、「現実が正しく公正だと言い立てる哲学」であり、「まさしく現実を隠蔽し、その現状を永遠化することに奉仕」しているという(同上、2頁)。この点について、当時の「存在論」を代表する哲学者として引かれている、マルティン・ハイデガーへのアドルノによる批判を検討する。アドルノは、ハイデガーがその思考の前提として、ゼーレン・キルケゴールの実存主義哲学に立脚している点に注目する。「主観の内部を休みなく動きまわる」キルケゴールの思考は、最後にはその深奥たる絶望の深みへと至り、主観の崩壊を帰結する(同上、10頁)。キルケゴールにおいて、この絶望から主観が自身を救うには、「超越への飛躍」を行う必要がある。しかしこの「飛躍」は、「それ自体主観的行為」による「主観的精神」の「自己犠牲」にすぎず、決して「超越」ではありえない。なおかつ、この「犠牲」の代償として手に入れられるものといえば「信仰」、それも「もっぱら聖書の言葉に由来する」程度の「信仰」にすぎない(同上、11頁)。
ハイデガーにおいて、このようなキルケゴールの帰結を回避することは課題であった。ハイデガーの解答は、「超越」ではなく、手元にある「現実」の「存在」への志向であった(同上:11)。アドルノはこの点において、ハイデガーの思考の「非弁証法性」を指摘している。つまり、「現実」の「存在」への志向は、「現実が正しく公正」であるとする理解に依ったものである。そのような思考法によって哲学は、正しく公正でない「現実」を隠蔽し、「その現状を永遠化することに奉仕」することとなる。アドルノの哲学においては、「現実」からの「超越」ではなく、かつ「現実」の「存在」への志向でもない、「現実」を異なる可能性に開き「解釈」する「弁証法」こそが求められるのである。
「こんにち哲学研究を職業として選択する者」は、「思考の力によって現実の総体を把握することができるという幻想」を放棄しなければならないとは、このような理由による。しかし、「観念論」的な「存在論」の試みが失効したのであれば、いかなる試みが今日可能であるというのだろうか。アドルノの言うところの「弁証法」的思考は、いかなる仕方で実践可能なのだろうか。そのような試み、仕方、実践を可能にする方法こそが、次節で見る「唯物論」である。

「哲学の課題」と「唯物論」

アドルノは今日、かつての哲学における「存在論」的な問いが失効する一方で、いま一つの思考法もまた、「思考の力によって現実の総体を把握することができるという幻想」を放棄する必要があるという。それは、科学である(同上、5頁)。しかし今日の科学においては、かなりの程度意識的に「現実の構成という観念論の根本的な問いは最初から放棄されている」という(同上、15頁)。そのような仕方で、「現実の総体」の「存在論」的な把握を回避した科学の方法が「個別科学」である。ここにおいてアドルノは、今日における科学と哲学との峻別を試みている。そこで述べるところの、科学の担う課題は「研究」であり、哲学の担う課題は「解釈」である。

哲学の課題とは、現実のもっている、隠れた形ですでに存在している意図を探求することではなく、意図なき現実を解釈することです。哲学はこの解釈を、現実のばらばらの諸要素を形象や図像へと構成することによって果たします。

同上、21頁

科学が担う「研究」とは、いわば現実のうちに「隠れた形で既に存在している意図を探求すること」である。ここにおいて、もはや「現実の総体」の把握は放棄されている。他方で哲学に求められるのは、「現実のばらばらの諸要素を形象や図像へと構成すること」によって、「意図なき現実」を「解釈」することであるという。ここでアドルノが「形象や図像へと構成すること」と述べる際に、ヴァルター・ベンヤミンの「星座」についての議論を参照している点が重要である。
ベンヤミンはその多くの著作の中でさまざまなモチーフによって自らの思想を表現したが、なかでも「星座」は、『ドイツ悲劇の根源』や「歴史哲学テーゼ」など多くの著作で用いられている。ここではアドルノが参照する『ドイツ悲劇の根源』における「星座」について確認する。ベンヤミンはまず、世界を構成する諸事物は、「概念」の働きによって、さまざまな「構成要素」へと分割・解体されていると述べる(ベンヤミン1928、30−1頁)。
その上でベンヤミンは、そのように分割された構成要素のある編成、組み合わせ、布置に読み込まれるものを「理念」と呼ぶ。この「理念」と構成要素との関係は、ある別の関係に置き換えが可能である。それこそが、「星座と星の関係」であるという。

理念が担っている意味は、ひとつの比喩によって言い表せるだろう。つまり、理念と事物〔事象〕の関係は、星座と星の関係に等しい、と。この比喩が何よりもまず語っているのは、理念とは事物の関係でもなければ事物の法則でもない、ということである。それぞれの理念は諸現象の認識に仕えるものではなく、諸現象は理念の存立にとっての判断基準では断じてありえない。理念に対して諸現象が担っている意味は、むしろ、それらの断念的な〔分割により〕諸構成要素〔へと解体されるということ〕に尽きるのである。

同上、32−3頁

アドルノは「哲学の課題としての解釈」について述べた箇所で、ベンヤミンの上述の箇所を参照している。引用関係から見て、「哲学の課題としての解釈」とは、「星座的布置に理念を読み込むこと」とも言い換えられるだろう。その上でアドルノは、「哲学の課題としての解釈」と親和性の高い議論として、「唯物論」をあげている。ここでいう「唯物論」とは、「現実の総体」を「存在論」的に把握する「観念論」と対応し、「分析をつうじてばらばらにされた諸要素を組み合わせることで意図を欠いたものを解釈すること、そして、そのような解釈によって現実を照らし出すこと」をいう(アドルノ1931、22頁)。
このことを星座との関係から確認しておこう。私たちが夜空に見出す星座を構成するものは、それぞれが何億光年と隔たった位置にある無数の星々である。これらの星々は、科学的な「研究」の成果によって固有に名づけられ、それ自体「意図」や「意味」を与えられている。しかし、それらの星々の構成や配置が、ふいにそれらの「意図」や「意味」に還元されない「何か」に見える瞬間がある。このように意図せず知覚する「現実」こそが「星座」であり、これを読み取り「解釈」することが、「哲学の課題」および「唯物論」なのである。

判じ絵遊びの弁証法

アドルノはまた、「意図なき現実の解釈」について語る際に、判じ絵の例を用いている。判じ絵とは、たとえば雨の降る町角が描かれていて「犯人はどこに隠れているか?」というキャプションが添えられているが、よく見直すとその絵全体が顔である、といったたぐいの謎絵のことをいう(同上、38頁)。つまり判じ絵の答えは、その判じ絵の内容それ自体に、意図として現象しているわけではないのである。アドルノはここで、判じ絵(雨の降る町角)とその答え(犯人の顔)との関係は、テーゼとアンチテーゼの関係にあるという(同上、26頁)。そして「唯物論」は、この判じ絵遊びで行われていることを「真剣に行う」のである。
ではここで「真剣に」というのは、いかなる意味においてか。判じ絵遊びはあくまでも認識の次元で行われる遊びである。他方で「唯物論」において、判じ絵遊びの中で生じるような認識の変容は、実践のなかで経験されるという。つまり「唯物論において、眼前の現実の解釈とその止揚はたがいに結びついている」のである(同上、26頁)。
しかし判じ絵を単に遊びであるとして切り捨てる態度は、その潜在的な可能性を奪うものでもある。たしかに判じ絵は遊びであるのだが、「現実の形象が作り上げられるなら、つねにそこからすぐさま現実を実際に変革しようとする要請が生じ」うるのだとアドルノは言う(同上、26頁)。このような、判じ絵遊びがもつ変革の要請への志向性こそが、「唯物論」の議論において「弁証法」と呼ばれるのである(同上、27頁)。
かつてカール・マルクスは「フォイエルバッハにかんするテーゼ」において、「哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである」とし、「肝要なのはそれを変えることである」と述べた(マルクス1845、5頁)。アドルノはこの主張について、政治的実践という観点だけでなく、哲学的視点からみても正当なものであると述べる。判じ絵の例で述べたように、「問いの解消は実践を引き寄せる」可能性を持つのである(アドルノ1931、27頁)。

おわりに

ここまで、「哲学のアクチュアリティ」における「哲学の課題」と「唯物論」の関係について見てきた。アドルノにおける「哲学の課題としての唯物論」とは、「現実の総体」をいわば所与ものとして把握する「存在論」の試みとは異なり、観察者の「意図なき解釈」によって照らし出される「現実」の可能性に着目するものである。このような「唯物論」の理解は、のちの弁証法的唯物論あるいは史的唯物論の発想とは異なるものであるといえるだろう。前衛的知識人の存在を前提とした「党」による、プロレタリアートへの階級意識の外部注入といった運動観には、アドルノ(=ベンヤミン)における「形象や図像」あるいは「星座」の比喩のような偶然性の余地はどの程度ありうるのだろうか。むしろそれは「観念論」的あるいは「存在論」的な、あらかじめその中に「意図」や「意味」が見出された「現実」のみが存在可能な仕方の思考なのではないだろうか。
その意味で、アドルノの「唯物論」理解は、前衛党批判をその起点とする新左翼運動とも部分的に接触しうると考える。たとえば、戦後日本の革新勢力における植民地主義に対する批判の不徹底さを指摘した津村喬は、「アジア」を一方的な解放の対象としてしか見ない日本人活動家こそが、戦後という時空間において、むしろ「アジア民衆」から眼差し返されていると捉える必要があると論じている(津村1970、82頁)。このように、観察者の意図せざる「現実」を「解釈」によっていかに照らし出し、批判的に把握できるかが、アドルノにおける「哲学の課題」であり、「唯物論」的な思考である。いまなお「哲学のアクチュアリティ」とは、この点に存するのではないだろうか。

参考文献

テオドール・アドルノ(2011[1931])細見和之訳『哲学のアクチュアリティ : 初期論集』みすず書房
津村喬(1970)「第三世界へのイメージ」『現代の眼』第11巻第5号
ヴァルター・ベンヤミン(1999[1928])浅井健二郎訳『ドイツ悲劇の根源』ちくま学芸文庫
カール・マルクス(1963[1845])真下信一訳「フォイエルバッハにかんするテーゼ」『マルクス=エンゲルス全集』第3巻、大月書店

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