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東国の玄奘塔

さいたま市岩槻区にある「玄奘塔」
東国の緑豊かなこの場所に
それはひっそり聳えています。

玄奘三蔵を知った子供の頃
人間の「思い」とはこんなにも
凄まじいものなのか
とその人生に圧倒されました。

そして骨になっても玄奘三蔵は
(これは本人の意向ではないけれど)
旅を続けた事にも驚きました。

玄奘の遺骨は中国、インド・台湾・日本等
13か所に保存されていると言われており
そのうちの1つが
埼玉県慈恩寺の飛び地境内の「玄奘塔」
基礎部分に納骨されています。

664年に長安で亡くなった玄奘三蔵の遺骨は
幾度かの戦乱や混乱によって彷徨いました。

1942年南京に侵出した日本軍が
兵器工場の裏手に稲荷神社を建設しようと
整地している際
頭骨を納めた石棺を偶然に発見されました。

石棺の蓋に書かれた銘文によって
玄奘の遺骨であることが判明します。
その頭骨の一部が
日本にもたらされる事になります。

日本へ渡った頭骨の一部も、当初芝増上寺に
安置されるものの、当時東京は空襲の被害が
広がったいたため破砕を怖れ
埼玉県蕨市の三学院に移されました。
さらに三蔵法師の建立した大慈恩寺に
ちなんで命名された慈恩寺に疎開する事に
なります。
後に奈良の薬師寺にも分骨されます。

653年遣唐使の一員として
定恵(中臣鎌足の長男)らと共に入唐し
長安で玄奘三蔵に師事した道昭。
玄奘の自室に招き入れられ法相教学を
学び660年に帰朝します。

道昭と玄奘三蔵の幾つかのエピソード
のお蔭で少しだけ近くに
玄奘三蔵を感じます。

ちなみに
この道昭の父は船 恵尺(ふね の えさか)
645年蘇我蝦夷らは殺される前に全ての
天皇記・国記・珍宝を焼いたのだが
その時焼かれる国記を取り出して後の天智天皇に
献上したと日本書紀に記載のある人物。
蘇我氏の下で「国記」等の編纂に
関わっていたのではとの説がある。

「どんな人でした?晩年の玄奘は?」
「蘇我氏は実際は悪人ではなかった
 のでは??」
「国記の行方は?」
インタビューしてみたい父子です。

この静かな場所で激動の時代を生きた
人々に思いを寄せながら
聳える塔の前で線香を手向けました。

玄奘三蔵はここで何を
思ってるのでしょうか。



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