美しき伽藍堂

これは今から20年前、2002年4月21日に書いたものだ。

 文芸誌「すばる」を書肆で手にするときいつも感じるのは、デザインが美しいということだ。扉を開き、文字に目を通す段になっても同じ思いは持続する。洗練された現代アートの感性が横溢すると感じる。ホームページを訪れても同じ思いが湧く。同じ人物の、同じ感性が構築した「作品」だと実感できる。込み入ったjavascriptの技術を駆使し、数多あるサイトのなかで最も優れたデザイン性を醸し出そうする意志の痕跡が、ソースを開くと明らかになる。日本文学が目指してきたものが何か、ということがここに収斂されているように私は思う。洗練された、アーティスティックな言葉の美である。その旗手として文芸誌「すばる」は異彩を放っている。

 名前は日本近代文学の系譜に名を残す伝統的な「昴」だが、一度は廃刊になった。戦前から消えずに継がれてきた看板を守る他の文芸誌は、この国の思想と文化を牽引していた時代の文学者たちへの義理のようなもののために伝統の踏襲と発展という二つの使命とともあらねばならなかったから運命的に妥協的保守的にならざるをえない。廃刊した文芸誌を、故中上健次氏の強い意志を受けて再構築した経緯があるらしい「すばる」には名前に伝統護持のしがらみがない。ゆえに独立自尊、自由自在に文学の方向性を自ら押し進めることが可能だったのであろう。その行着く先がここだったかと思いながらホームページに掲載された最新号の要約文を読む。

「すばる」2002年4月号、「今月のみどころ」。
 イスラームとキリスト教、同じ一神教の二つの文明圏における、今日の「衝突」が意味するものは──。

 同じ一神教とされるイスラムとキリスト教。その違いは、唯一神への絶対帰依と三位一体であるという。「増殖」を忌み嫌うか祝うかの違いが資本主義を否定するか肯定するかの違いを生むという。実に明解で洗練された解説ではないか。玲瓏たる旋律に乗せて語られるオペラのような美しさだ。
 巧みである。「一神教と多神教」「タウヒードと三位一体」という図式を提示し、貨幣論、資本主義という普遍性を敷きつつ、ラマダン、クリスマスで読者の記憶から既知の情報を引き出させ、「増殖」という記号によって整合する。
 心地よさがある。酔う。陶酔とはこのような美がもたらす精神的効能なのであろう。それが本当か嘘かは別にして。

 これを書いた人物は、真実を解明するためではなく、いかに美しく言葉を構築するかという欲求に従って書いている。基準は美である。真実ではない。真実は時として人に不愉快を与える。不快感を与えてはならない。苦痛が生じるようなものであってはならない。最大多数の人々に幸福と愉悦を与えねばならない。それが美というものの使命である。

 イスラムはラマダンによって自らに苦痛と我慢を強いる。欧米型の繁栄に嫉妬している。ゆえにテロリズムが生まれる。イスラムはテロリズムである。テロリズムは悪であって、必ず負ける。快楽は繁栄であり、禁欲は貧困と衰退をもたらす。イスラムはキリスト教に勝つことができない。事実、戦いに敗れたではないか。
 この物語を軸に少し斜に構えた視点から、記号を組み合わせ、表現の技法を駆使して、作り上げたのだ。これが「すばる」の追求してきた文学的の美意識にとって頗る快かった。ゆえに洗練されたデザインの誌面にこの言葉はよくフィットしているのだ。
 美に真実は必要ではない。美は美であって、現実とは何の関係もない。快楽と感情とを満たすことのみが美を構築する目的なのだ。美のための美を徹底的に求めれば真実など枝葉末節であり、最終的には殺ぎ落とされて消えてゆく。真実を消し去れば嘘が真実の地位に上り詰める。嘘を真実と信じて疑うことをしなくなる。
 その現実をかかる記述は身をもって証明している。

 美的でないことは承知の上で「現実とは」という薀蓄を傾けてみようか。
 現実とはこんな単純な図式に還元しうるものではない。キリスト教の三位一体の論理構造が新約聖書の本質ではないし、それが増殖という現象を助長するわけでもない。断食月ラマダンの習慣が増殖を抑圧するわけでもない。イスラムの信仰が資本主義経済に全く馴染まない代物なのでもなし、資本主義とキリスト教の結びつきが抵抗なくもたらされた訳でもない。資本主義の論理を導き出すためにキリスト教文化圏の人々はさまざまに議論を戦わせ、血を流してきた歴史がある。
 アラーの神への絶対帰依が増殖を拒否するわけでもない。これは今後帰納的に得られる時系列データにまめに注意を払えば、論証せずとも事実がそれを証明してくれるだろう。
 同性愛では子供は生まれない。人工授精、体外受精、代理母、クローンなど、科学技術が生み出す近代自我にとって都合のよいだけの生命は自ら生き増殖してゆく力を持たない。畢竟するに西側に属する人間たちの生命力は衰えてこざるをえない。人口はいずれイスラムが西側を凌駕するであろう。
 増殖と豊穣を祝おうという儀式が、現状をそのまま肯定するためにあるという発想がそもそも全く現実的ではない。民主主義の実質が欠如したところに民主主義の思想が生まれ、不作と飢饉に悩まされるところに豊穣を尊ぶ信仰が生まれてくるものだ。それが現実というものである。
 そもそも一神教と多神教という図式が単なるステロタイプであり虚構なのだ。世にある信仰のなかにこの図式に還元できるものなどおそらくひとつとしてないだろう。すべての信仰、思想は一神教的側面と多神教的側面を合わせ持つものとして存在している。絶妙なバランスのもと緻密に設計された合理的な構造物であることには間違いないが、人の精神はこれほど単純な構造ではない。
 比喩としては面白い側面もあるが、かかる論述から何も真相は分からない。分かったような気分にはなるが、その気分は何ら現象を説明できない。今を解明することもなければ、未来を予見することもできない。

この国のインテリは二分法の図式を高等と自意識する癖がある。創造したり、生産するより、目新しいステロタイプの図式を誰かに提示してもらって次々に消費する知性なのだ。図式の耳触りの新しさを欲求するのである。
 事実や真実を知ることより、目新しい二分法の図式の他人はどちらに属するかを分別する単純作業を知的だと考えている。図式的な単純作業に愉悦を覚える癖がある。
 外界と関わり血を流して格闘することを自身は忌み嫌い、高みに上って外界を睥睨したがるのがこの国インテリたちの到達なのだ。彼らの欲求を満たすための嘘話を提示する、同じ種類のインテリを「仲間」として評価し迎え入れようとする。これはすなわちサロン趣味なのだ。

 すべては美がもたらす効能という合理に従って編まれた虚構である。いわばよく効く精神安定剤だ。それが「すばる」が旗手を務める文学という美の洗練なのだろう。快楽のための美の構築、精神安定剤としての新手の図式の提示。快楽というのが適切でなければ自己弁護の余地を保障してくれることの安心とでも言っておこう。それが今文学が担う役割なのだろう。
 私はかかる形式美のなかに現実に生きる者の実像を感じ取ることができない。人の存在できない造形美をいくら洗練し、装飾を施して提示されても窮屈でしかない。一瞬で雲散霧消する淡泊な情緒の変化しか享受しえない。それが文学の向かってゆく方向なのか。ならば文学の斜陽は必然だったと諦めるしかあるまい。

 見た目は美しくて美味そうだが口に入れてみると、味がなく栄養もない。ロックバイターの嘆きを髣髴とさせるものがある。無論二度と口に入れてみようとは思わない。味も栄養もない「虚無」が精神に増殖して隅々まで行き届き、統一美を形成してもなお、さらなる洗練のために日々精進している。それが雑誌「すばる」の洗練された美しさであり、文学全体が志す美なるものの現状のようだ。

 美しく飾られた大ホールのような仏教建造物を伽藍と呼ぶ。それを最初に「中身のない空っぽな形式美」と皮肉たっぷりに比喩したのが誰かは知らない。この比喩によって何を言い表したかったのか分からない。しかし仏教が誇る大建造物の名を用いて「中身がない」と言おうとしたことに、私は力強い思想を感じる。長く生き長らえる生命力を感じる。この生命力がもとは文学だったのではないか。

 日本仏教と日本文学は何やら同じ道を歩むもののように思える。
 1985年から文学は課題を抱えて悄然と立ち停まったままである。
 動かず立ち尽くすための人材を敢えて選んで世に出してきたような気がする。めいめいが誰とも競わず、格闘せず、独善的で小さな差異を「前進」「進歩」「斬新さ」と互いに誉め合って、ただ立ち停まっていただけだったのではないか。ポストモダンとはそもそも思考停止や停滞の星雲状態を意味し、互いの情緒の安定を阻害し合わない、自閉的精神の平穏と現状維持の平和への欲求なのであろうけれど、そろそろそのようなものにも飽きてきたと思わないか。


著者注

本文中に引用した「すばる」2002年4月号、「イスラームとキリスト教、同じ一神教の二つの文明圏における、今日の「衝突」が意味するものは──。」という文章の筆者は中沢新一氏である。

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