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“その人”をきちんと見ている?──多様性を考える

上記で紹介した『FACT FULNESS』を読んで、過去を思い出しながらぼんやりと考えたことを、“自分にとっての多様性”というテーマで書きます。

今回のカバーアートは小4長女の作品です!
タイトルは『カラフルギャラクシー』だそうです。


私の母は数十年来、日本語教師をやっている。
そのため、私が小さい頃からうちには留学生たちがたびたび遊びに来ることがあった。

中国、韓国を中心に、東南アジア〜西アジア、ヨーロッパ、北米、南米。

彼らのことを真面目で熱心な学生たちだと母親はいつも高く評価していた。
アジア出身の人は特に国費留学生が多く、20年以上前のことだから今より留学のハードルは数段高かったはず。帰国後は自国を背負っていくような立場として来日した人も多かったのではないだろうか。
おそらく自国では日本の一般人の比にならないくらいの富裕層の人も多かっただろうし、抜群に優秀だったのだろうし(しかしそれをあからさまに表に出すような人は一人もいなかった)、そういう背景もあってとにかく知性的・理性的な印象の人が多かった。

みんな軒並み日本語が上手で(これも並々ならぬ努力の結果だろうと思う)私が外国語を話す必要はまったくなかったので、小学生の頃は、優しいお兄さん・お姉さんとして無邪気に遊んでもらっていた。

中学生になると、母親が料理をしている間、留学生たちと話をするホスト役を任されるようになった。
せっかく家に来てもらうのだし、その時間を楽しんでもらいたい。不快にさせたくない。そんな気持ちで、普段は見ない世界地図帳を引っ張り出すなどしていつも会話のネタを事前に探していた。「地理(旅行)」「音楽」「ポピュラー文化」あたりが鉄板ネタだった。

同じタイミングで来訪するメンバーの中には、もちろんイスラム教の人も、キリスト教の人も、ヒンドゥー教の人も、仏教の人もいた。
歴史や政治、宗教の教義などの話は異文化の間で交わすにはタブーが多いのでもちろんしない。けれどそれぞれに「私は〇〇が食べられません。なぜなら〜」などとユーモアも交えて他者と分かち合いやすい部分の文化を話題として提供してくれた。

「興味深いですね」と、誰も否定せず、ありのままを受け止める。その場をよくするためにそれぞれが最大限の振る舞いをする。
その点で、うちにくる学生たちは若いながらも態度が洗練されていて、誠実で真摯な人ばかりだった(そういう学生だからこそ母親が家に連れてきたのかもしれないが)。

自分の知らない話、もしくは本で知っているけど実際にその国で生きる人の話を聞けるのは、とても面白かったし、どんな国であってもどんな環境であっても、生きているのは同じ感覚を持つ人間だと──その時は特に何も考えていなかったのだが、今振り返るとたくさんのことを学ばせてもらったのだと思う。


ネット上ではたびたびある人種や国籍の人を一括りに取り上げて「〇〇人だから」という蔑視を目にすることがある。
そういう物言いを見るだに、不快になる。
その国に、尊敬する人や大切な友だちが一人でもいれば、そんなことは口が裂けても言えないはずなのに。

〇〇人とか、関係ない。
一人の人間としてその人を見て、付き合い方を決めるのが“人付き合い”というものだと思う。

世の中には多様な考え方を持つ人がいる。何が正しいとも言い切れないし、その人の言い分をどう受け止めるか、その人とどういう距離感で関係性を築いていくべきか決めるのはとても難しい問題だ。

しかし人間関係というのは究極まで分解していけば結局は自分とその人の一対一の関係なので、
私がその人との距離感を構築する際の大きな判断軸にしているのは“悪意の有無”だ。

たんなる無知による誤解は、足りない分の知識を努力で埋めていくことで解消できる。ただそこに悪意があるとどうにもならない。

だから私は、悪意がない場合は理解できない人に対しても近づこうと最大限努力するが、悪意がある場合は最大限の力で逃げるようにしている。

倫理観というものは意外に曖昧なもので、時代とか環境とか文化によって異なるが、「人間として許せない・許されない」ということについては一定ラインの統一見解というものが存在すると思う(もちろん主観も多分に含むけどそれは仕方ない)。

どの国にも、良い人はたくさんいる。
どの国にも、悪い人が一定数いる。

だからこそ、属性ではなくその人で判断したいと思う。
コミュニケーションした時に感じる違和感は“文化や思想の違い”から来るのか“人間性そのもの”から来るのか、そこをきちんと見極められるようになるのが本当の多様性なのではないかと思う。

わたしは聖人ではない。
どんなに意識しても、いや、意識すればするほどバイアスを排除できないし、人間的に付き合いきれないやつはどうしたって付き合いきれない。

だからこそ、先入観で誤った判断をしないためには知識をつけることが必要だと思う。
この人はなぜそういう発言をするのか。その背景さえ理解できれば、一歩近づくことは絶対にできるはず。

だから私は、どんな人も、自分の目の前にいる一人の人間としての「〇〇さん」として付き合いたい。
その人を正しく知るための知識をつけていきたい。
かつ絶対的な悪意にだけは引きずられないように、その部分の感度は高めていかなければいけないなと思っている。


#異文化コミュニケーション
#多様性


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