大阪の「ヒガシ」をさぐる③

皆様、こんばんは。
最近、書店の仕事でバタバタとしておりました。
早く体力も慣れればいいのですが。

では、早速3回目いきましょう!


戦国時代の森村と木村

木村とは

木村と書いてこのむらと読みます。場所はJR環状線「玉造」駅から「桃谷」駅にいたる東側一帯。
平野川左岸の自然堤防上に位置し、天王寺東門から出て、鴫野・蒲生から京街道へ続く街道上と河内を横断し、大和へと続く街道にも近接。

正和4年(1315)「天王寺領木村住人七郎男」らが、「津料」として大山崎神人から荏胡麻を押し取る。
応永4年(1397)木村の住人らが、「油器」(搾油器)で油を製造し、販売していたため、大山崎神人がその停止を幕府へ訴える。
木村の油商人は、奈良興福寺・春日社の「寄人」となって油座をつくり、河内誉田八幡宮(羽曳野市)に「定灯御油」を献納。
これにより、奈良や河内の権門寺社と結びつき、大山崎神人に対抗し生産、販売をのばす。
室町時代には、木村の油商人は、都市奈良での販売を強化し、奈良苻坂油座と対立。興福寺などで裁判闘争を展開。
文明3年(1471)ころ、木村市座が、四天王寺が主催する「浜市」の「公事物」(市で商売への参加料)として一貫文を上納している。

木村と四天王寺

荏胡麻、布などの製造・販売し、四天王寺、奈良の興福寺・春日社、誉田八幡宮などに仕え、特権を得る。そのため、有力な座商人と対決
天王寺の浜市、都市奈良、兵庫津?にまで、進出し、販売。
15世紀末ごろ河内の戦乱では、当地(木村)で合戦、軍勢の布陣。
上町台地の東下で、四天王寺にほど近い。奈良への街道にも近接しているので、都市の隣接地で半農村に生産・販売拠点。

森村とは

JR環状線「森ノ宮」駅の西側一帯、猫間川左岸。大坂寺内、大坂城から出て、暗峠越え奈良街道へいたる道に接する。
木村から北上し、上町台地東縁辺部を北上する道に接する辺り?

大坂寺内町との関係

志宜庄→志宜=鴫。京都相国寺鹿苑院の荘園であり、森三庄と呼ばれた地域は、森村が中心とされた。
法安寺は森三庄の中心寺院。生玉神社の神宮寺であり、鹿苑院の末寺。第三世正教が蓮如に帰依し、祐光寺を建て移る。現在は志宜山南坊として大阪市中央区にある。
天文元年(1532)大坂が真宗本願寺派の本山となる。
森三庄の年貢を法安寺に集めたり、森で公演した猿楽を法安寺に宿泊させる。
森三庄神事を法安寺で挙行。その後、法安寺と祐光寺は、大坂寺内町の内部に組み込まれる。
天文8年(1539)「法安寺東堀」よりその下の「岸」まで本願寺が買収。鵲神社の拝殿も寺内町に。
森ノ宮は、法安寺の東にあったが、この時、惣構の内側に囲い込まれる。これにより、本願寺は毎年10貫文の地子銭(借地料)を鹿苑院に支払う。

大坂寺内町から陸路で京都へ向かう街道

大坂寺内町時代は、京橋付近で大和川を渡るのは至難?
豊臣城下町時代は、大坂城の北西の「京橋」で旧大和川を渡り、野江方面に至る?

大坂寺内町の「新屋敷」を出た街道は、「大沢橋」を渡り、淀川左岸へ。
志宜は、旧大和川筋の村々とを結ぶ水上交通の拠点。

上町台地北端部(大坂寺内町)の東側に街道はあったのか

応永34年(1427)足利義満側室の一行が、天王寺を経て「しきののわたり」を船で渡河し、森口(守口)に宿泊。
ここから、天王寺から東へ、木村あたりへ出て、上町台地東辺を北上し、志宜へ?

本日のまとめ

2つの村について、ざっくりと紹介しました。
この2つの村で猿楽なども行なったことが書かれているので、榎並猿楽や観世などが参勤していたのかどうか、調べてみたいところです。
また、ここには述べていないところで、各村争いの場になったりと戦乱の地になったようです。
それもまた機会があればご紹介したいと思います。

今回もお付き合いいただきありがとうございました。
次回もどうかよろしくお願いいたします。

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