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中世の罪と罰②

皆様、こんにちは。
今回は第2回目となります。
それでは早速、いきましょう。


「ミミヲキリ、ハナヲソグ」

タイトルからして不穏!
ですが、中世日本ではこんな刑罰があったようです。
16世紀後半に来日したキリスト教宣教師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノは、戦国時代の日本の刑罰について「日本人のもとには、牢獄がなく、追放、死刑、及び土地、財産の没収以外の処罰方法がない。ただし都のある場所では、盗賊その他の悪人が磔刑に処せられる」と記している。
だが、牢獄も皆無ではなく、その他、流刑・身体刑などもその存在が知られる。
中世における「耳鼻そぎ」という肉刑の史料として、もっとも人口に膾炙しているのは、建治元年(1275)十月二十八日付「紀伊国寂楽寺領阿氐河庄上村百姓等言上状」の第四条である。
この史料では地頭湯浅氏の百姓に対する残酷なリンチとして、百姓の妻子に対して「ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ•••」という行為が書かれている。
ここで問題となるのは、地頭が何故百姓の男子ではなく、妻・小児を苛責の対象としたか。この妻・小児は逃散百姓がおきざりにしていった妻子と考えられ、地頭はあくまで荘民の仲間意識をたてに百姓を威嚇したのだろう。
それを非難するための訴えということになる。

鎌倉幕府では一般庶民たる凡下は「火印(焼印)をその面に捺さるべきものなり」と定めている。
また、幕府の刑罰にも「鼻そぎ刑」が存在していた。
「髪きり刑」は女性に対する私的処罰方法としてひろく存在した。耳鼻そぎ刑のひとつのねらいを髪きりと同じく、その対象を異形にすることだったのだろう。
受刑者の外貌を変えることを目的とした肉刑は、「詐欺罪」(僻事の罪)、「あざむきの罪」に対応して存在すると考えられる。

死骸敵対

鎌倉時代から南北朝時代の武士の譲状・置文などに「死骸敵対」という言葉が現れる。
「何々敵対」の語は、絶対に服従すべきものに対して敵対行為を認めないことを意味している。
この咎の特徴は、一種の道徳的・宗教的性格の罪である。
つまり死骸敵対とは、子孫などの関係者にとって、死骸そのものが尊崇の対象として存在し、その意志が彼らにとって絶対的な拘束力をもつものと考えられていた。

本日のまとめ

今回は簡単にまとめたが、中身はなかなかヘビーなものだろう。
宣教師は自分が見られる範囲では牢獄や流刑、身体刑がなかったためそのように書いたようだ。
しかし、実際は荘園内の仲間が妻子を置いて逃げれば、お前たちも同じことをすればこうなると見せしめのように耳や鼻を削いだり、女性なら髪を切らせて人と違うものに貶める行為が行われていたことが伺える。
また、死骸ですら敬意をはらう対象としてその無念などを晴らす拘束力があったことが死骸敵対という語からは感じられる。

この二つに今ならとばっちりなどのイメージを持つかもしれないが、中世日本ではこれが罷り通っていた。それほど神仏や異形は存在すると考えられていたとも考えられるし、祖先などを敬うのが当然だと考えられていた。
刑罰ひとつとっても現在の日本と中世日本の考え方の差異や共通点がよくわかるだろう。

今回もお付き合いいただきありがとうございました。
次回も3回目にお付き合いよろしくお願いします。

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