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あなたマブイ落としましたよ 〜池上永一『風車』から民族誌的小説を考える〜| Critique

「マブイの本質は人格を越えた巨大な宇宙さ。時代や場所が変わっても、おまえとおまえの家系に流れている永遠の空間だよ」

失う⇔取り戻す

沖縄が保ち続けた民俗文化はこれからどうなるのだろうか――そうため息をつく人にとって、エイサーの流行は好ましく映じているに違いない。村々が伝えてきた盆行事を、下は高校生からの若者が踊り、舞い、演じる。それは単に伝統文化の継承にとどまらない。活性化されたエイサーには演技の要素が加味され、イベントなど新しい祝祭に引っ張りだこである。そこではサブカルチャーを卒業した若い沖縄のネイティヴたちが、伝統に回帰し文化を身体で表現している(ヤンキー文化は卒業できていないことが多いが)。

池上永一はエイサーを踊る代わりに、小説を書くことで伝統文化の継承を担おうとする。事実あるいは史実を重んじ、それを記録することにまず努めようとする池上の態度は、彼の作品に独特の形容を与える。それは「民族誌的小説」というものである。

民族誌的小説の可能性

民族誌とは文化人類学の記述の形式で、できるだけ内部のものの見方にしたがいながら、文化を総体的に描き出す書物である。伝統文化が失われつつある状況にあるため、往々にしてそれは、記述によって文化を救出したり保存したりという含意を持つことがある。

民族誌的小説とは確立されたものではないが、この本を読むとその可能性がかみしめられる。ときおり学術的な見解からずれたりするものの、民俗文化を非常によく記述しているし、神話や民話、あるいは「学校の怪談」を盛り込むあたりも、この小説が民族誌的たるゆえんである。

それにもまして重要なのは、文化を厚く記述している点であろう。これは小説というスタイルの賜物であり、出来事が因果関係でめくるめくあたりは作者のストーリーテラーとしての非凡さを感じさせる。現実の生活世界はこのように見事に連続するものではもちろんないが、しかしこうした脚色やこじつけは、人々が話を“盛る”ときによく用いる手法でもある。

儀礼的に書く

伝承されてきた物語を彼は文字化する。のみならずそれを生きられた形で読者に伝えようとする。伝承ばかりではない。失われた儀礼までも小説世界で再現する。雨乞いを描いた章などはそれが顕著である。

あるいはこの点は、すでに「民族誌的」という形容を越えているかもしれない。小説が民俗文化を再現するパロディとなっている。このことは池上がしばしば結果を先に記述する、言い換えればタネを先に明かすという点にも表れている。読者は出来事の結末を知っていて、読むことでそれを確認するが、この構図はとりたてて儀礼的である。何百年も繰り返し行われてきたことを再び行う沖縄の伝統祭祀は、既知の出来事を再確認するという作業を参加者に強いるものなのだ。

あなたのネイティヴィティを問う

沖縄出身の作家が沖縄を描くとき、どれだけのネイティヴ性を根拠としているものだろうか。作者はあとがきに、生まれ過ごした石垣島にて民俗文化の取材を行ったと書いている。小説で再現された八重山の民俗事象は、すべてが彼自身のなまの記憶によるものではない。作者はどうやら彼が求愛する伝統から疎外されているらしい。

この小説の主題が村落祭祀ではなく、カジマヤー(風車)という個人の人生儀礼におかれていることも示唆的である。共同体の要素はそこからは後退しており、代わりにシマという匿名の故郷、あるいは石垣島やときには沖縄という大きなコンテキストに場面が絡められる。あとがきは石垣島へのノスタルジーを表明するが、これは作者がこだわるべきミクロな共同体を持たない故郷喪失者であることの裏返しだとも読める(急いで付け加えると、地域アイデンティティには階層性があり、多くの個人がそれぞれの場面で選びとるものである)。

そして彼は、読者に対しても自分がいる場所の確認を求めるだろう。あなたはこの物語を自分のものと受け止めることができますか? あなたは沖縄のマブイをなくしてはいませんか? というメッセージとともに。

(本稿は、1998年1月に琉球新報紙上に掲載された文章を修正しました。)

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