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屋部憲通なる空手家|Essay

前回に引き続き、空手がハワイに紹介された話です。今日は屋部憲通という人を取り上げます。

屋部憲通は1866年(慶応2年)、首里山川村の生まれです。沖縄県中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)を中退して陸軍教導団に志願入団し、27歳のときに陸軍一等軍曹に昇進しました。最終的には中尉までなりますが、人々は敬意と親しみを込めて「屋部軍曹」という通り名で呼び続けました。

屋部は主に学校教育の場で空手を指導しており、教育空手の重鎮ですが、流派を構えたり直系の弟子を残したりしなかったため、現在の沖縄空手界では半ば忘れられた存在になりかけています。しかし、先駆的な組手研究や実戦の重視など、同時代の空手家とは明らかに異なるメンタリティを持っていました。

屋部は1919年(大正8年)に米国へ旅立ちます。名目は体育教育視察のためでしたが、実際はロサンジェルスに移住した長男・憲伝を訪ね、願わくは孫息子を連れ帰りたいという目的もありました。各地の農園で働きながら体育関連施設を視察し、結果的にカリフォルニア州に8年間も滞在することになります。

日本への帰路で、屋部はハワイに立ち寄ります。到着したのは1927年3月。彼は型を披露する空手公演を数回行っています。その多くは沖縄県系人が中心の小さなお披露目でしたが、同年7月8日の公演会はホノルル市内の体育館が会場で、ハワイ住民にも門戸が開かれた本格的なものでした。日系紙だけでなくハワイの一般紙でも告知されており、700人が集まる盛大なデモンストレーションとなりました。

屋部による空手の指導と演武会は、ハワイというより、海外における最初の空手普及の取組でした。その意味で屋部は空手の海外展開のパイオニアだと言えます。

実は屋部は、三線の名器の保存にも貢献しています。ハワイ移民のある医師が沖縄に帰省した折に屋部を訪ねたところ、ハワイでの恩返しにと首里の旧家から集めた三線の名器をいくつも贈られたそうです(有償ですが)。そのなかには「五開鐘」と呼ばれる逸品もあったそうです。ハワイに渡っていなければ沖縄戦で失われていたと考えられるだけに、このときの屋部の仁義と少しばかりの商売っ気が、沖縄の貴重な文化財の救出に役立ったというわけです。


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