暑い秋 その2

母を面会に連れて行くべきではないか。「難しいんじゃね?」と弟は言う。
混乱している母には辛すぎるだろうか。まだ私の車に乗れるだろうか。施設は許可してくれるだろうか。面会の後で不穏になったりしないだろうか。

どうしよう。

自分だったらどうだろう。頭の中がよく分からなくなっていて、夫が死にそうになっていて、会いたいだろうか。

会いたいな。

連れて行くべきだ。連れて行こう。悔いが残ると嫌だ。

次の日、施設に連絡を入れて母を迎えに行った。小ざっぱりと身なりを整えて貰って何故か父のシャツを羽織っている。

病院に向う車中、母はずっと喋っていた。父が慢性腎不全を患っていることを忘れていた。時々、入院しているのは自分の夫とは別の人のような話しになったり、もう何年も会っていないと言ったり色々と間違った線が間違ったところに繋がってしまう。不意に正しく接続した。「入院する前に酷いことを言っちゃったわ。あんな事言わなければよかった」

連れて来てよかった。

「大丈夫。パパは入院した時ひとりで残ってるママのことを心配してたよ。口は悪いけどママのことを気にかけてる人だから」
「それだから皆に嫌われる」
あ?また誤接続。

病室に通されると母はベッド柵に掴まって立ち上がり、父の顔を覗き込んで真っ先に頬を撫でた。
「ありがとうね。あんまり良いお母さんじゃなくてごめんね。色んなところに連れて行って貰って楽しかったよ」
父は一生懸命に眼を見開いて母の顔を見つけると、力いっぱいの泣き顔になった。涙は出ない。

「外国にも連れて行って貰ったし、山もスキーもひとりじゃ行けなかった」
父の眼に光が戻る。
脇から「家族で槍ヶ岳も行ったね。奥穂、北穂も縦走したし、白馬も行ったし」と言うと父は何か思い出しているような表情になる。
残りわずかな時間、できるだけ良いことを思い出していて欲しい。
「パパ劔も登ったんだよね。称名滝から入ってね。水晶も行ったんでしょ」
山の名前を出すと小さく肯きながら何か思い出しているようだ。

母は父の顔を撫でながら、夫婦の来し方を語り続けた。孫の名前も正しく出てくる。

制限時間は、あっと言う間に過ぎた。父の額に手を置いて「楽しいこと考えててね」と声をかけて退室した。

母を連れて来て良かった。

願わくば自分が死ぬ間際、誰か耳もとで「鳥海山!下の廊下!雲の平!」とか囁いて欲しい。


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