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クワロマンティックという感覚

 ダイヤモンド社の『13歳から知っておきたいLGBT+』では「クワセクシュアルまたはクワロマンティック」がこう説明されている。

自分が感じる魅力のちがいを区別できない人、自分が魅力を感じているのかわからない人、恋愛的魅力や性的魅力は自分に関係がないと思う人。

アシュリー・マーデル(2017)

 これはどうやら私のことを指しているな、と腑に落ちたのが数年前。それから自分の持つ基本的(だと思っている)な価値観や経験がこのセクシュアリティとつながっていると気づいたことも多い。私の個人的な体験の一部を例として挙げる。



1. 好みのタイプは自分自身

 外見の好みの話をすると、ストレートヘアのショートカットに惹かれる。フラットな体格の人に憧れていて、パンツスタイルがいいと思う。マニッシュでも可愛げのあるファッションが好みで、フリルのついた襟は好きだけどレースの裾は物によって好き嫌いが分かれる。
 内面的には自己理解の深い人が素敵だと思う。ここでいう「自己」という言葉の範囲は身体の柔軟さみたいなものからアンガーマネジメントまで様々なものを想定している。自分の良さと悪さを自覚してそれを丸ごと愛せる人は素晴らしい。自分の外見が他人に与える印象まで理解して言葉を選ぶ人を尊敬する。

 ここで挙げた「惹かれる」「憧れる」「いいと思う」「素敵だ」「素晴らしい」「尊敬する」などの他人に対するポジティブな感情すべてを人として魅力的な要素だと感じる。私はこれを「嫌いじゃない」とか「どちらかといえば好き」な感覚とは明確に区別して「好きだ」と判じる。
 ただし、このうちのどれが親愛的な魅力で、恋愛的な魅力で、性的な魅力なのか、あえて仕分ける必要はないと思う。ただ好きなだけ。それで過不足のない十分な感情だと感じるから。それぞれに仕分けるフィルターを持つ人がいるとするなら、私はもともと持っていないか、持っていたとしてザルに近いんでしょう。

 見出しに戻ると、先に挙げた好みのタイプは文字通り私の理想を言語化したものにあたる。私は魅力の用途を使い分けないので、自分が理想とする「好みのタイプ」にいつも近づこうとしていて、一方で誰かが「好みのタイプ」だった場合にその人を好きになりやすい。
 たとえば好きな人に着て欲しい服は自分でも着たい。自分が「好きなタイプ」に近づこうとしている限りは私は自分の振る舞いがそこそこ気に入っている。

 だから突き詰めてみると最終的に、なんとなく自分と似た外見とか考えの人を好きになりやすいということが起きる。実はこれは自分のことが大好きという感覚とは違って、理想からかけ離れた素の自分を愛せないことにもつながっているんだけど、それはセクシュアリティとは別の話。


2. 人間として好きになる

 クワロマンティックを自覚している理由のひとつは、誰かに恋愛的魅力を感じていない確信がないから。そして、魅力を感じているかいるかいないか、あるいは恋人になりたいのか友達になりたいのか、という区別をする必要性を感じないから。有り体に言って、どうでもいいと考えている。誰かとお近づきになりたい、仲良くなりたいときに行き着く関係性に恋人か友達しか名前がないことについてはとても不便に感じる。

 もしストレートあるいはアローセクシャルだったなら、ざっくりと「異性(セックスする相手)とは恋人になりたい」から「同性(セックスしない相手)とは友達になりたい」というフィルターが機能することもあると思う。私の場合は人を好きになるのに性別を気にしない場合がほとんどだから、そのフィルターもまたザル同然なんだけど。
 そして、恋愛的魅力を感じるかもしれないと考える以上、恋愛的魅力を感じる相手を説明するラベルもつける余地がある。私は先に書いた通り、他人に魅力を感じて好意を抱くときにその人の性別を見ていない。人間性や人格に惹かれている。前の見出しで挙げた好みのタイプでも特に性別は指定しなかった。その点で、自分をパンロマンティックと表現することもある。基本的に恋愛をするのが好きではないのであまり使わないけど。

 なんというべきか、他人に魅力を感じたときに性別はそんなに重要な要素なんだろうか。女として、もしくは男としての先入観を前提に誰かに接するのはちょっと失礼な気すらする。
 私には性別はその人の属性の1つにしか見えなくて、好意を持つときには目に入らない。だから、性別を中心に誰かを語ることは、まるでその人のことを女や男という生き物のうちの1つとして見ているみたいで嫌な感じがしてしまう。


3. セックスするよりケーキを食べよう

 たとえば「あなたが女(男)だったら付き合っていた」という考えがよくわからない。そのひと個人のことが好きなら一緒になればいい。その人の人格より属性を優先するなら、体の形に囚われて、好きになったはずの誰かの本質を見逃しているような感じがしてしまう。
 とはいえ、想像してみる。もし誰かが「あなたが女(男)だったら付き合っていた」と言うなら、“私”は誰かの性的指向から外れているのだろう。誰かがストレートだとして、誰かは女、私も女だと仮定する。誰かは私に「もしあなたが男だったら付き合っていたのに」と言う。

 思い出されるのは、前の見出しで挙げた「異性(セックスする相手)とは恋人になりたい」というフィルターのこと。もし、上のセリフを言い換えて「あなたとはセックスしないから恋人にならないよ」という意図が現れるとしたら。セックスしないから、自分のプライベートスペースに入れないから、引いては身内として愛する意思がないから、親密にはなりませんってこと?
 というのも、私はアセクシャルで、好きになった誰かとセックスをするという選択肢を持ってない。性欲の対象として見られることは不快だし、誰かを自分の性欲の対象とするのはもっと嫌だ。

 そんなことより一緒にケーキを食べて映画を観ていたい。ということでアセクシャルのネットワークで有名になった言い回し「セックスするよりケーキを食べる方がいい(Sharing and eating cake)」を引用してみる。
 先述のフィルターが機能していないのはこれが理由だ。友達と恋人との違いの1つであるセックスという決め手がない。だからこそクワロマンティックであるとも言えるし、パンロマンティックであるとも言える。私の中では全部同じ価値観でつながった感覚だ。


4. 人間として見られたい

 先に挙げた書籍では「ノンバイナリー」がこのように説明されている。

生物学的性とジェンダーの男女二元論の枠組みの外に存在すると自分を位置づけること

アシュリー・マーデル(2017)

 私の性別に対する考え方はおおむねこれに当てはまる。自分の身体的な性別を無視してあえて主張することはないが、ジェンダー・ノンコンフォーミングな視点を持った人間であると知らせたいときにはノンバイナリーというラベルを使う。

 パンロマンティックの話で「性別の先入観を前提として誰かに接するのは失礼」だと書いたけど、その意識はおそらくここからきている。今でこそ悪く言われることもある男女二元論的なジェンダー規範の押し付けがことごとく苦手だから。社会が私に規範を押し付けるのをやめれば嫌悪感を抱くこともないけど、そうでない限りは自分が自分に規範を当てはめないことを選ぶことにしている。特に親しい人からは「女という生き物の内の1個体」である以前に「1人の人間」として見られたい。
 だからセックス・アピールになりうる特徴は控えた振る舞いをする。髪は短く、胸は潰して、体のラインが出ない服を着る。他人との間に性別による先入観が入り込む余地が少ないことに安心するからだ。

 誰かと自分の間に性的な縛りがないことが理想の関係だと思う。私にとって他人はセックス・アピールが弱いほど魅力的で、だからお近づきになりたい人物像を思い描くとアセクシャルでノンバイナリーな人に近くなる。その結果、巡り巡って「好みのタイプは自分自身」みたいなこんがらがったことになるのだ。


5. ずっと一緒に遊ぶ約束がしたい

 誰かと交際関係に至る手段はある程度の常識(という暗黙の決まりごと)がある。好きになって告白して同意したら付き合う。そういうことになっている。
 その過程を踏むことで「私は自分の人生にあなたの存在を組み込みます」「誰よりあなたを大切にします」「同じ扱いは他の人にはしません」「だからあなたも私に対してそのように接してください」「この関係を保ち続けるために努力し合いましょう」という契約を行うという段階は省かれる。交際するというのはそういうことで、ゆくゆくはセックスも含む関係に変わるだろうというのは明文化するまでもないと思われているから。

 でも、それでは困る。セックスが前提の契約は結びたくない。だから私たちにはあえて「セックスをしない」と明文化された約束が必要だった。
 たとえば「クィア・プラトニック」という関係の名前がある。恋愛的でも性的でもない親密な関係のことで、友情とは区別して考えられる。クワロマンティックやアセクシャルの人がパートナーを持つときに使われることがある名前だ。ビジネスパートナー的な緊急連絡先として結ばれる関係のこともあるし、愛し合っているがセックスをしない関係のこともあるらしい。

 私には好意を抱く誰かのそばに居て大切にしたいという欲求がある。でも私が向ける好意はたぶん恋愛ではないから、相手が恋愛をしたいなら互いの要求が食い違うことになってうまくいかないかもしれない。だから「恋愛でも性的でもない」という約束が前提の関係はうれしい。
 それに、単なる「友情とは区別」されるのもいい。友達のことは好きだし大切にするけど、誰かと同列か、それ未満の「大切」だとさみしいから。お互いに1位の優先順位を独占する関係を築きたい。誰かと恋人同士になることを乱暴に優先順位の独占契約と言い換えるなら、私は友達と独占契約を結びたい。



あとがき

 先日、話の流れで人から「それを書いたらいいよ」と言われた。手慰みに文章を書くようになって少し経つけど、自分のことを書く習慣はなかったのでドキリとさせられる言葉だった。それからどうにも落ち着かなくなって、私の中で書かなければいけない体験と感じ方とがたまっていく感じがした。それで、一度吐き出してしまおうと形にした次第だった。


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