見出し画像

電子マネーと募金箱


「気まぐれの良心の矛先を一つ失ってしまったような気がする」


いつの時代も娯楽が複雑化されていく一方で、生活に必要なものは最適化されていく。
電子マネーもその一つだ。
紀元前から伝わる貨幣の交換の形式が変わった境目を生きているのは、よく考えたらすごいことではないだろうか。

しかし私は脳が若干古風なので、最適化を憂いている節がある。

最適解が最初から示されてる道で寄り道ができないのが味気ないと思ってしまう。
noteで日々思ったことをつらつら書くことが楽しい私の性格上それが悲しいだけかもしれないが、とにかく味気なさを感じている。

もちろん私も電子マネーを愛用している。なんならポイ活ガチ勢と言っても過言ではない。

しかしある日、私がコンビニで会計を済ませた後にレジ横の募金箱が目についた。
電子マネーで支払いを終えた私の手元に、そこに入るお金はない。

なんだかすごく罪悪感を感じた。
というのも、私はたまに気まぐれで募金箱に小銭を入れている。
そして、少し世界を救った気になっている。
あの小さな高揚感の可能性を潰している気もした。

募金箱はあくまで手段であって、目的のためのお金を用意する手段は何個かあるだろうから、それがなくなったとて崩壊を迎えるわけではない。
しかし、私は募金したら何に使われるかに意識が向く。
そして、それは私の視野の糧になっている。

小銭じゃまだな→募金箱発見→ちょっと入れたるか→なんかいいことした気分→何に使われるんだろ→いくら集まるもんなのかな→なるほど、これを達成するためにこれほどのお金がかかるのか

この繰り返しの機会を電子マネーを使うことによって葬ってしまっている気分になった。
その間わずか2秒。

気まぐれの良心の矛先を一つ失ってしまったような気がする。
電子マネーで募金ができると言われて私はするのだろうか?
否、募金は「小銭がじゃま」という贅沢すぎる心の余裕が種となっているので、きっとそういう気分にならない。

でも単に。先に言ったように最適化されたばかりというか、時代の移り変わりにまだ私が対応できていないだけなのかもしれない。

そもそも私が生まれた時代だって、その前の時代に比べたらかなり最適化されている。
基準を自分から社会に変えるだけでこの問題は小さなことなのかもしれないと思った。

それでも、気まぐれでいいことができる募金箱制度は無くなってほしくないような気がする。
これはただの古い人間の考え方なのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?