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ハニーマスタード



ファミレスにて元カノとの商談。

向かい合わせで座る。元カノはタブレットを操作していて、僕はその彼女を見ている。空いていて他の客はまばら。

テーブルの上には、僕のコーヒーと元カノのコーヒーとが何かの棋譜のように並ぶ。僕らは恋愛的にはもう何年も前にとっくに詰んでる。



元カノは最近仕事を変えたばかりで、僕に電話してきた。

とっておきの話がある、と。

そして今日、ここで会った。

僕は彼女の保険契約の第一号みたいだ。

タブレットに電子サインする。

まだ慣れていなくて、各種操作にもたついている。

てっきり、黒かグレーのタイトなスカートのスーツで来るかと思った。

商品についての彼女の説明によると、とても複雑な保険で、『中年男性が孤独に備える保険』なんだとか。

「寂しいとどんどんお金は減ってゆきます」わざと保険レディ口調な元カノ。

中年男性の孤独問題がクローズアップされるなか、満を持して誕生したものらしい。

さまざまな孤独をカバーしていて、それぞれの顧客の孤独に応じた柔軟な料金設定なんだとか。

孤独の数値化がグローバルスタンダードになっていたとは知らなかった。

でも、てっきり外資系の会社かと思ったら国内の企業だった。

どちらにせよ今日の僕は、ただの扱いやすい客でいるつもりで来た。

彼女は僕に言いたいことは山ほどあるだろうけど、あの時は言わずに別れることになった。

なんとなく僕の心のうちを見透かしたのか、

そこで彼女はコーヒーを一口飲んで、用意していた何かを思い出したような顔になった。目の上のまつ毛が上を向いた。

「あたしね、最近猫飼ったんだ」

「え!君がねこ!?を!?

驚いた、付き合ってた頃は完全に犬派だったから、彼女の実家にもたしかでっかい犬がいた。

「猫ってかわいいのね、知らなかった」

僕が昔、猫を飼ってたことがあると話したことがあった。

その時はあまり元カノは興味を示さなかったはずだ。

そこで、ピコンピコンと音がして、話題に誘われたように僕らの席のところへ猫型の配膳ロボがきた。画面には猫の笑顔。

トレイにはハニーマスタードだけが載っている。



「頼んだ?」

「いいえ」

「僕もだよ」

間違いだろうか。

でも僕らの座席番号と、『お取りください』の文字がピカピカ光っている。

仕方なく受け取って、

また話を続ける。

へんに込み入った近況の部分は避けて話した。

付き合っていた頃と変わらない部分だけを彼女が見せてくれている可能性は高かった。

彼女にはあの頃からそういう種類の優しさがあったから。

そうすると、あと、残る安全な話題はネコの話しかなくなる。

それを聞きつけてまた、

ピコンピコンと音がして、

配膳ロボだ。

そしてまたまた、ハニーマスタード……。

「なんだ、まただ、もういらないよ」

「私が頼んだの、さっきはそれを忘れてて」

元カノはネコの配膳ロボからハニーマスタードをとって、ロボの頭を撫でる仕草をした。

すると配膳ロボは来た時とは違うルートでうれしそうに戻って行った。

「さ、契約手続きはこれでおしまい、わたしはそろそろ帰るわ、猫が待ってるから」

「このハニーマスタードはどうするんだい?」

「あなた必要でしょ?」

── あなた  必要  でしょ

彼女はさらっと言うと、タブレットをしまって立ち上がった。

「それじゃあね」

「ああ、それじゃあ」

歳をとるに連れてわかる。『それじゃあ』って複雑な言葉だ。それでいてぷっつり切れてる。

彼女は昔みたいに手を振って店の外へ出て行った。

まだもう少し話していたい気持ちがあったことにそのとき気づいた。

テーブルの上にはハニーマスタード。

あの保険は今の僕のこういう気持ちは対象になるんだろうか。

今度、彼女に聞いてみようと思った。


                      終

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