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不倫はライオンゴロシ


逢瀬はメロディアス。

彼女の長いまつげが何度かあたった。

数小節の短い吐息の反復。

二人で構築する一つのメロディ。

首すじから口づける。

いつも  首すじから。

肌と肌はこの音楽的行為で共鳴する。

僕はチェスのグランドマスター気取り。

愛撫には論理性が必要だと思う。

理由なく  愛する  ために。

次第に彼女の指先が即興演奏を始める。

「どうしてこんなにきもちいの?」と彼女は薄目をあけた。

「自由を手に入れたからさ」と僕は目を閉じる。

「うれしい……」と彼女は小さく体をふるわせた。

この先は真っ暗闇で

だからこそ美質で

だからこそ……。

ベッド脇のスタンドランプが何かに引っかかって床に落ちる。

部屋から明かりが消える。

僕ら二人の情熱の火だけを残して……。



◇  ◇  ◇  ◇



その夜、僕は2回彼女を抱き、彼女も2回僕を抱いた。

恋のモメンタムは強く、情熱の香りがまだ部屋の中を漂っている。弾け飛んだ粒子がその後始末に追われている。

そういうとき、

彼女は僕にある種の冷却装置になることを望んだ。

細かく言えば、温めるように彼女をクールダウンさせていくという感じだ。

僕は彼女を温めるように冷ますことができた。

すべての逆説的な行為が愛を満足させうるとは思わないけど、僕が彼女にとって有用だということを含めて愛を深めた。

横になったまま僕らは肩と肩を合わせ、それから頭と頭を合わせた。

たとえば、雰囲気という言葉とムードという言葉の間でゆらゆら揺れているような……、そんな今があった。

僕はそこで彼女の髪を撫でようとして、でも……手を止めた。

区切りがついてしまう気がした。

髪を撫で終えたとき、そう感じてしまうことが怖かったんだと思う。

彼女にこの気持ちを悟られないようにそっと頬に口づけた。

すると彼女はパッチリと目をあけて天井を向いたまま話し始めた。

植物の話だった。

彼女はいつもセックスのあとで植物の話をした。

彼女は花の名前はなんでも知っていたし、植物のことにすごく詳しかった。

僕はその逆で、植物に興味を持ったことはあまりなかった。

でも、今夜のように強く求め合った後なんかに、なぜだか植物の話は僕の心と体の中に深く浸透したりした。

そしてそんなときに、とても寛容になれた。

いちばん許容できなかったことにさえ……。

「ねえ、知ってる?世界には珍草奇木がたくさんあるのよ」

彼女はまるで平均律のように、この夜と、もしくはこの僕と協和したような美しい声でそう言った。

「ひとつも知らないよ、そういうのは僕は。昔、保育園の園長先生から教わったお金のなる木にお金がならなくて、それで植物に挫折しちゃったんだ。ちなみにその園長先生からはすごく嫌われてたんだけどね」

「うーん……、なんだろうその木……、黄金花月のことかしら……。ふふ……、でも、たしかにあなたって園長先生に嫌われるタイプね」

「先生と名の付くものに好かれたことってないよ、一度もね」

僕はそう言って、片方の眉だけを上げてみせようとしたけど、今日もうまくできなかった。不器用な顔ってあるんだと思う。

「一度も?」

「一度もさ」

彼女は中学校で教師をしていた。

主に数学を教えていた。

彼女は肘をついて僕をじっと見て、僕が照れ笑いするのを確認するまでじっと見て、そのあとでさっきの話のつづきをした。

「あのね、ライオンゴロシっていう名前の植物があるの」

「なんだか恐ろしい名前だね」

「ええ、でも恐ろしいのは名前だけではないの」

彼女はそう言いながら目とそのまわりに、微かに感じ取れる程度の影をつくった。

僕はその影を、何か深い意味の話をするときの女性の顔に何度か見たことがあった。

「おっかない話は苦手だな。もっとほのぼのとした話にしようよ」

僕の勘がそう言わせた。

でも彼女はお構いなしで話をつづけた。

「ライオンゴロシは南アフリカの植物なの。果実はおよそ径10センチで、やや木質。そして扁平。その果実には裂片がでていて、つよい鈎爪がその先端にはついているの。俗名は『巨大なる逆刺のある植物』。すごい名前ね。でね、地表に這っているの。だから果実も地表で成熟する……」

彼女がそこまで話したところで僕は口を挟む。

「ライオンのオスって全然働かないらしいぜ。そのくせ無防備に仰向けで寝られるから、いびきはかくんだとさ」

だとさ。

「こら」と彼女は僕の鼻を軽くつねって、それから僕の頬を手の甲で撫でた。だからこの話はつづくことになった。

「その百獣の王のライオンでさえこの植物の刺にはかなわないの。だからライオンゴロシ。わかりやすいでしょ。木質の果実のかたい刺は、たちまちライオンの足に刺さり、歩くたびに深く肉に食い込んでいく……。深く……、肉に……。あまりの痛みにもがけばもがくほど、その巨大な逆刺は肉に食い込んでいく。もしもその果実を口で抜こうとすれば、こんどは口唇を刺されて物が食べられなくなってしまう……」

「なんだか今日の君はおっかないよ」

「ライオンは飢えと渇きと苦痛で遂に力尽き、その場に倒れ、屍となるの。そして白骨が横たわる頃には、ライオンゴロシの新しい群落ができるの」

「どうしてだい?どうして今日の君はそんな話をするんだい?」

Aメロで終わる曲の何かみたいになっていきそうな気がした。

「べつに。深い意味はないの。でも、あなたはとにかく今日は早くおうちに帰ったほうがいいと思う。奥さんが待ってるわよ、ね」

「今日は僕は帰らない……つもりで……」

「帰ったほうがいいの。ね、そうして」

「……」

「うっかり寝っころんで果実が突き刺さらないように、ね」

「……うん」

うん。


                      終

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