見出し画像

”その街のじぶん”――その街のこどもについて

画像1

“その街のこども”

 2010年に放映されたNHKドラマです。ほぼ同じ内容で劇場化もしています。以下、公式HPやアマゾンに掲載のあらすじをまとめたものです。

 2010年1月16日。
 出張のため新幹線で東京から広島に向かっていた中田勇治(森山未來)は、”明日が震災の日である”ということがふと脳裏をかすめた瞬間、思わず新神戸駅で下車してしまう。そんな勇治がホームで偶然知り合ったのが、大村美夏(佐藤江梨子)。三宮・東遊園地で行われる追悼のつどいに行きたいが、“決心がつかず、怖いのだ”という。彼らは「追悼のつどい」が行われる前日に神戸で偶然知り合い、震災15年目の朝を迎えるまでの時間を共に過ごすことになる。震災が残した心の傷に向き合うため、今年こそ「追悼のつどい」に参加すると心に決めていた美夏に対し、出張の途中に“なんとなく"神戸に降り立っただけだと言い張る勇治。全く異なる震災体験をしたふたりの間には、大きな溝が広がっているように見えた。しかし、“ある場所"に差し掛かったとき、美夏は勇治が長年抱え込んできた過去を垣間見ることになる。また美夏自身にも、誰にも言えずに抱えて続けてきた震災の記憶があった…。
 復興を遂げた真夜中の神戸の街を背に、これまで語ることのできなかったふたりの想いが、不器用にあふれ出そうとしていた。

 動画は劇場版の予告編です。劇場版はDVDも出てます。


 さて。先日久しぶりに観ました。思うことが色々あったので、書きます。長いしネタバレもあるので、観たことある人に読んでいただいた方がいいかも。


私にとっての阪神淡路大震災

 "その街のこども"を公開当時の2010年に観た人はいるだろうか。私はドラマ版をたまたま生で観た。観た直後にドーン!と動けなくなるくらいの衝撃があったのを覚えている。当時あまり見たことのない阪神淡路大震災の取り上げ方をされていたからだ。

 地震の発生後、被害の一切ない長野県で思春期を過ごしていた私は、年が明けてしばらくするとTVから流れてくる地震関連の話題に「ああ、また1月17日か」と毎年神妙になっていた。

 子供心に整理がつくような出来事ではなかったのだろう。地震直後に連日流れたニュースだけではない、毎年1月のたびにそれを思い出させられるのだ。”死者・行方不明者数”、”家屋の倒壊数”、”経済損失の額”、”復興にかかる時間”……。その尋常でない被害の”ボリューム感”が、どうしようもなく怖かった。

 それは同時に「このどうしようもない悲劇の当事者であり理不尽に苦しみを受け続ける人々がいる」という事実そのものを認めたくなくないという気持ちをもたらした。目を背けたかった。たぶん自分が当事者になる可能性があることを、1ミリでも認めたくなかったんだと思う。

 私にとって被災者の方々は、十字架を背負い続ける呪いをかけられた人々のように思えた。その十字架は一生下ろせないのだと勝手に思って震えたまま、毎年1月17日を目や耳を塞ぎたい気持ちで過ごした。

一人ひとりにとっての阪神淡路大震災

 そんな恐怖や忌避感が固定されたまま大人になった私にとって、ドラマ"その街のこども"を見たときの衝撃は半端では済まなかった。

 ドラマの中に出てくるサトエリも森山未來も"こども"のときに被災している。(演じている当人たちも実際の被災者でもある) 彼らも目の前で街が壊れ、焼かれ、知り合いがいなくなったり、生活が変わってしまったりしている。つまりは悲劇の当事者のはずだ。

 しかし、ドラマは何でもない普通の人という視点から始まる。普段は神戸の街から離れて暮らし、ほかの被災者でない人たちとなんら変わりないような日常から、ふと1月16日の神戸で出会う。彼らに避難所で苦しんでいるような被災者を思わせるところはない。

 でも彼らには、全体の被害の数字や規模感とは直接関係のない、彼らにとっての重大な過去がある。普通の人々となんら変わらないように出会ったはずの二人のパーソナリティにそれとなく影を落とす。

 そして本来、共通点となり痛みの共有が可能に思われがちな震災への個別の認識が逆に衝突すら巻き起こす。何が正しくて間違っていたのか、どう思えば正しくて間違っているのか。目を背けたかった過去と対峙せざるを得なくなったとき、救いがあるわけでも答えがあるわけでもなく、それでも足掻く。

 放映された2010年は、阪神淡路大震災からちょうど15年目という節目の年。震災を過去の出来事として振り返られるような時間の経過があった人も多いのかもしれない(そうでない人も多いと思う)。必ずしも忘れようとせず、一人ひとりのスピードや受け止め方で折り合いをじっくり考えてもいいんだっていう頃合いだったのかもしれない。

 私が衝撃を覚えてしまった理由は、"その街のこども"が、阪神淡路大震災を規模の大きさでも起こった象徴的な悲劇や救出劇でもなく、一人ひとり個人にとっての地震という出来事、という描き方をしていた点である。

 たとえば勇治にとっての震災の傷は、屋根の修理を生業としていた勇治の父が震災直後に法外な金額で修理を行い、恨まれながら神戸を去ったことにある。そこには死や喪失を思わせる典型的な災害の悲劇の姿はない。

 美夏にとっての傷も、震災で失った友人そのものではなく、家族全員の中からひとり生き残ってしまった友人の父に、この世の理不尽な”意味わからん”不幸を見てしまい、友人の父親を避け続けてきたことにある。死、そのものに悲劇を見ているのではないのだ。

 数千、数万人の被災者を一様に捉えているフシのあった私にとって、一人ひとり個人ごとに異なる阪神淡路大震災という視点は大変な驚きがあった。その視点は、私に別の気づきも与えた。

「私自身」も阪神淡路大震災と折り合いをつけてもいいのだ、ということだ。

 前述の通り、阪神淡路大震災は、さまざまな衝撃を外野にも与えた。しかし直接の被害者ではない私たちがそれを表立って「被害」だと言うことはほぼなかったように思う。そんな風に捉えられることもなかった。私たちは当事者ではない人間だった。

 しかし、被災者一人ひとりにとっての痛みや傷が典型的な悲劇の形をしていなくても、それを悼んだり悩んだり引きずったり救いを求めたっていいという事実は、当事者でない私たちも同じように折り合いをつけてもいいのだと、差をつけなくてもいいのだと、気づかせてくれることだった。

 この気づきは、本当に大きな気づきだったのだ。

 震災から15年という時の経過は誰しもに同様に流れた。時とともに阪神淡路大震災を鎮める、誰しもにとっての方法を教わった気がしたのだ。

 そういう意味でも本当に素晴らしいドラマだった。







 2011年の3月11日までは。


増え続ける"その街"

 2011年3月11日、東日本大震災が発生した。大きな被害が出た。一生消えないであろう象徴的なことがいっぱい起きたのだと、当事者でない自分たちにもよくわかった。関東でも大きな揺れと不安なニュースの毎日に見舞われた人も多いだろう。

 あれから8年。

 被害を受けた様々な人々にとって、震災は過去の出来事になっただろうか。東日本大震災にとっての”その街のこども”たちは、ドラマのように自分の被災と向き合えるようになっただろうか。

 それだけじゃない。

 恐ろしいことにそのあとも様々な災害が日本中・世界中で起き続けている。地震、台風、高潮、噴火、大雪。毎年毎年だ。自らの街が、“その街”となり、折り合いをつけなきゃいけない人々は、どんどん増えていく。

 増え続ける災害に、私は阪神淡路大震災のことも、ドラマ"その街のこども"のこともを忘れた。

 これだけ災害が重なれば、過去のことから順番に世間の意識からは遠くなっていく。事実、関西の20代はもう阪神淡路大震災の実体験を持たない人ばかりという時代となった。より生々しい災害と悲劇の連続が、阪神淡路大震災"こそ"が巨大で被害者の甚大な災害であるという世間の認識を過去のものにしてしまった。

 "阪神淡路大震災だけが特別な災害で、その被災者も他の人たちにはない巨大な悲劇の当事者であって、そこには特別な悲嘆と折り合いが必要である"  。そういう2010年までの共通認識を拭い去ってしまったのだ。必然的にそれを扱っていたドラマ"その街のこども"のことも忘れてしまったのだろう。

 ずっと、忘れていた。





 話は変わるが、私は5年前から大阪に住んでいる。仕事の転勤だった。その間に結婚もした。人生は移ろいゆくものである。

 つい最近、転職も決めた。大阪の会社だ。いまのところ大阪以外に支社のない会社だ。転職でもしない限り、ずっと大阪に住み続けることになるだろう。

 ふっと私は、1月17日の5:46から神戸の東遊園地で行われる追悼イベントのことを思い出した。

 大阪に来てからも一度も行ったことはない。

 それなのに突然それを思い出した。ずっと関西に住むかもしれないと思った途端、5:46の時報と黙祷が頭の中に鳴り響いた。理由はわからない。でも頭に降って湧いたのだ。

 森山未來とサトエリの姿が。

 災害だらけの毎日で、阪神淡路大震災を描いたという意味以上を見失ってしまっていた"その街のこども"のことが、頭の中によみがえった。

 私は家に帰って、"その街のこども"を観なおしてみた。なるほど、かつての衝撃はもちろんない。もっと言えば、例えば最近のあらゆる災害の被災者の方々にこのドラマを見せてなにかを感じてもらうなんてことは絶対にするべきでない、とも思った。

 でも、違う感情もある。


 それは、今すぐドラマ"その街のこども"を観るべき人たちがいっぱいいる、という感情だ。

"その街"になる前に 

 その観るべき人たちというのが誰を指すかと言うと、まだ自分の街が"その街"になっていない人たち全員のことである。つまり明確な「被災者」にはまだなってない人々だ。

 なぜそう思うのか。それは、知るべきだと思うから。

"その街”の人々が受け止められないこと。受け止めきれなくていいこと。色んな人たちの色んな人生の見つからない答え。それでも生きている様。そういう痛みの世界。

 これだけ災害が起き続ける世界で、まだ当事者ではないうちに、当事者になって苦しむ自分を想像すべきだと思った。それを知って、それを想像して、どうするのか。

 たとえば、隣に眠る大事な人がいれば布団をかけ直してやってもいいし、非常袋を買いに行ってもいい。遠くに電話をかけてもいいし、誰かと仲直りしたっていい。仕事の手伝いをしたり、寄付をしたり、遺言を残してもいい。

 とにかく、この理不尽な世界で無防備に突っ立ってることがないように、自分のいる世界が”その街”でないうちに、”その街”になってからは出来ないこと・意味が変わってしまうことを想像し、”その街”の当事者になりうる自分を想像し、ただ準備すべきだと思い至った。

"その街のじぶん"を。


 運が良ければずっと災害の当事者でないままでいられるかもしれない。そういう人の方が多いかもしれない。

 でも、ただ都合のいい願いを並べていてもダメだ。目を背けていてもダメだ。自分が当事者になったとしても、そのあとには長い折り合いのための時間が待っている。何も知らないまま当事者になって、何もできずに歳をとるのは、ダメだ。そう思った。

 そして何よりも災害は、直接の被災者だけにとっての悲劇なのではない。災害で起きたことを共有した全員にとって、規模の多寡を問わず、傷になる可能性があるのだ。


 だから、みんなに観てほしい。

ドラマ"その街のこども"


 サトエリはスタイルいいし森山未來はかっこいいし、完璧です。


 また観よ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?