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対称性的思考によって高次元を考察する

例えば簡易的なスピリチュアルの感性で表現されるところの高次元は、白い光源のように、またはシェークスピアの言うように「キレイは汚い、汚いはキレイ」の所に向かう方角で。同時に、神話的によく言われる「破壊と再生」は高次元に向かうほどメビウスの輪のような特異点に向かう事を示しており、結果として白の光源に向かっているのと、黒の光源の原点に向かう事は同じ内容を含みます。

別の言い方をすれば、高次元に向かおうと白色の方角へ歩むことは同時に、死に装束の黒の方へ向かうことと同じ事で、その特異点において人類のもつ非対称性の原点的言語構造をギリギリ保つことができるのは恐らく神の領域の話でもあるのでしょう。

具体的な例で言えば、冠婚葬祭のような生死にかかわる宗教的儀式の際に白や黒が多様されるのは、疑似的な生まれ変わりを意味するイニシエーションの名残で、その際に私たちは意識の深い所で特異点を経験しているとも言えます。ですので、実は意識の深い原初的な所で私たちは日々神の領域となる特異点を過ごしており、つまり特別に何か導かれるようなことが無ければ「向かう」意味などないという事になります。(特に女性は、身体の中に分かりやすく特異点があるくらいですから)

ただ自分の持つ世界は簡単に、不意に、それこそ対称性的に特異点を超える事がある事を知っていることは、人格を裏からも支える事になり、それは人生を力むことなく生きるコツのようなものになると思います。ですので、世界はコロコロ変化することを理解し、ただやりたい事をやるという方法で内面の豊かさを追求していけば、それが人類を結果的に「上げる(豊かにする)」事になるのです。

追加として、メビウスの輪のように内側がどことも特定できない特異点によって外側になる、という現象の象徴している最も身近な例は、私達の外面と内面の話になります。内面を心とすれば、心に浮かんだイメージや情動は外面という環境に影響を与えます。それは人の想像力が数々のモノを創造してきたことを思えば頷くしかない事実です。

そしてそれは内面のイメージが外面に反映されている事を示しています。同時に、外面という環境が内面に影響を与えますが、それらは全て「私」という特異点によってなされる関係性です。はじめのメビウスの輪の話は「キレイは汚い、汚いはキレイ」から始まる白色と黒色の話でしたが、ここにきて起こっている事は、実は「私」という特異点によって引き起こされているメビウスの輪なのだと分かります。

つまり、これもよく使われる言葉ですが「全ての人は、神である」という思想は、こういった「私」という特異点が存在するからこそ内的世界と外的世界はつながる事が出来るという思想から出来ています。そして確かにそんな内面と外面にとってのトリックスターであり、特異点であり、そして創造主であるのは「私」としか言いようが無いのです。

あまりにも当たり前で見過ごしてしまうのは、思い描いたモノを現実に作り出せるという人間の力です。動物は幻想を抱かないそうです。人間だけが幻想を抱ける「狂った」存在なのだそうです。しかしその幻想の力を人間は、当たり前のように特異点として実現している。この事実は私達が何気なくやっているから気づきにくいけれど、かなり特別な事なのです。

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