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読み返したい本たち【20位~11位】

 前回に引き続き、読み返したい本たちをランキング形式で紹介していく。今回は、20位~11位。30位~21位は、どの本にするか非常に迷ったが、今回の20位~11位は、変わり種は少なく、いわゆるよく聞く作家のよく聞く名著が多くなったように思う。早速始めよう。

20位:ジョルジュ・バタイユ『エロティシズムの歴史ー呪われた部分 普遍経済論の試み』

 私の考えでは、思想の隷従性、つまり思想が有用な諸目的に屈服すること、一言でいえば、思想の自己放棄は、ついに計りしれないほど恐るべきものとなってしまったように思われる。実際、一種の病的肥大にまで達している現代の政治的・技術的思想は、それが立脚しているはずの有用な諸目的という面そのものの上で、結局のところ取るに足りない結果へとわれわれを導いてしまったのである。なにごとも隠蔽してはならず、問題となっているのは結局人類(人間性)の破産であると言わねばならない。

ジョルジュ・バタイユ著・湯浅博雄訳(2011).エロティシズムの歴史─呪われた部分 普遍経済論の試み 第二巻、筑摩書房

 バタイユとは何者か。バタイユはなぜ異端児扱いを受けるのか。彼のエロティシズムの理論はなぜ嫌悪されるのか。この問いに、敢えて、大雑把に答えるならば、次のように言うことができるかもしれない。すなわち、彼が嫌悪されるのは、われわれが、資本主義というシステムや合理主義的思考に最適化され過ぎているからであり、バタイユはその現実をラディカルに批判した者である、と。

 われわれは、自身の身体を労働に供し、蓄財し、将来への不安を最小化する。交換に対して、奢侈あるいは蕩尽を称揚するバタイユにとって、勤労の美学など、唾棄すべきものであろう。「臭いものには蓋をする」これも現代人の一つの特徴である。美容への過剰な拘り、病気への嫌悪、アロマオイルや香水などによる生活臭の排除など挙げ出したらきりがない。われわれは、徹底的に、自然を排除し、清潔で綺麗な存在であろうとしている。これは、自身の身体を資本と見ているからであり、それを可能にしているのが、資本(お金)でもある。私は小学生の時に、アイドルは排泄をしないと教えられた。SNSにより一億総アイドル社会と言われる現代社会において、われわれは誰1人排泄をしないのかもしれない。

 バタイユは、こうして人間が無意識的に見ないようにしているもの、嫌悪の対象、例えば、排泄物、死、経血などを読者に突きつける。ただし、バタイユは決して自然への回帰を唱えているわけではない。女性の裸を「自然」と見たとき、彼は裸の生活に戻るべきだと言っているわけではない。陰部は布で隠され、めくってはならないと禁止されることで、人間は人間になった。しかし、隠されたが故に、隠された部分を見たいという人間的欲望(エロティシズム)は喚起されるのであり、それは自然への回帰とは本質的に異なる。そして、そんな欲望など存在しないようなフリをする哲学はまやかしに過ぎないとバタイユは主張するのである。

 バタイユの一見すると狂っているように見える議論の背後には、倫理的な問い、すなわち、「近代の理性信仰と資本主義社会における労働文化・蓄財文化が、如何に破滅的な状況を生み出したか」という問いが控えているように思う。共産主義という社会実験が失敗に終わった今、資本主義へのアンチテーゼとしてマルセル・モースの『贈与論』における奢侈、贈与、ポトラッチをあてる論者を見かけるが、直接的に引用しているか否かは別にして、その先駆けは、バタイユだろう。

19位:村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

 身体を一本の棒にする感じだ。そのまま前方へ傾く。支え切れなくなって片足が前に出る。ボブ・ヘイズはその姿勢を何度も確認していた。その姿勢は人間の全力疾走時における理想の体型である。倒れまいと思って次々に足を出す、それが走るということだ。四つん這いから立ち上がった最初の猿はきっと全力で走ったのではないだろうか。キクはその前傾姿勢を忘れずに砂浜を走った。

村上龍(2009).コインロッカー・ベイビーズ、講談社

 倒れまいと思って次々に足を出す、これがこの小説である。文庫本で562ページもあるが、物語は最初から最後まで全力疾走で、前傾姿勢で駆けていく。長距離を短距離のスピードで走る、そんなことが可能なのは、物語を脳に直接ぶち込まれているからだ。ドーパミンが溢れ、心拍数が上がる。読書中にこんなことが起こるのは極めて稀だ。

 コインロッカーに捨てられたキクとハシ。それからアネモネ。コインロッカー・ベイビーズ。親の愛情の欠落。それが物語を駆動する主要因である。親は、子どもの無限定な欲望を制御し、自我を安定させる。しかし、この2人には、片親すらおらず、自己をコントロールする超自我の働きが極めて弱い。鰐の国、欲望の国、ダチュラの国の住人である彼らは、(比喩としの)コインロッカーを、ぶっ壊さずには、バランスを取ることが出来ない。

 私は、両親からの愛情を受けなかった、あるいは、愛情を受けていたかもしれないがそれを認識しなかった(出来なかった)人間の方がそうでない人間よりも面白いように思う。それは比喩的に言うならば、ブレーキの機能がぶっ壊れているからだ。思い返すと仲の良かった大学時代の友人のほとんどは、家族との関係が最悪に拗れていたように思う。だから、なんだという話ではあるが、私がこの小説に運命的なものを感じるのは、まぁ、そう言うことだろうと思う。

18位:谷崎潤一郎『細雪』

夕方帰宅した彼は、幸子が見えなかったので、捜すつもりで浴室の前の六畳の部屋の襖を開けると、雪子が縁側に立て膝をして、妙子に足の爪を剪って貰っていた。「幸子は」と云うと、「中姉ちゃん桑山さんまで行かはりました。もうすぐ帰らはりますやろ」と、妙子が云う暇に、雪子はそっと足の甲を裾の中に入れて居ずまいを直した。貞之助は、そこらに散らばっているキラキラ光る爪の屑を、妙子がスカートの膝をつきながら一つ一つ掌の中に拾い集めている有様をちらと見ただけで、また襖を締めたが、その一瞬間の、姉と妹の美しい情景が長く印象に残っていた。

谷崎潤一郎(1983).細雪、中央公論社

 谷崎潤一郎の『細雪』は、日本語で書かれた文章の中で、最も美しい文章(少なくともその一つ)だと思う。本書は、一冊にまとまった中公文庫と三分冊の新潮文庫で読むことができる。個人的には、切れ目なく最初から最後まで読める中公文庫を推したい(ちなみに、929頁)。本書の登場人物の多くは、4姉妹を中心とした女性である。彼女らが織りなす情景一つ一つが艶めかしく、非常に面白い。谷崎潤一郎は、なぜこのような小説を書くことができたのだろうか。異常というほかない(正直に言って気持ちが悪い)。特に、冒頭の幸子、雪子、妙子のやり取りの描写は圧巻である。そこだけでも、読んで欲しい、そしたら、きっと最後まで読み終えてしまっているだろうから。

17位:ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

わたしはいつも、人さまの前に出るたびに、俺はだれより下劣なんだ、みんなが俺を道化と思いこんでるんだ、という気がするもんですから、そこでつい『それならいっそ、本当に道化を演じてやれ、お前らの意見など屁でもねえや、お前らなんぞ一人残らず俺より下劣なんだからな!』と思ってしまうんです。

ドストエフスキー著・原卓也(1978).カラマーゾフの兄弟、新潮社

 古典文学と言えば?—カラマーゾフの兄弟。そう答える人が多いのではないかだろうか。かく言う私も、古典文学として、真っ先に浮かぶのは、ドン・キホーテでもなく、神曲でもなく、失われた時を求めてでもなく、本書だ。なぜかと問われると、エッジの効いた登場人物たちと、彼らが織りなすスートリー(不協和音だらけの交響曲?)は壮大で、強烈なインパクトを受けたからだと答えるだろう。深遠な哲学的論議(大審問官)?は有名だが、本書が古典と見なされるゆえんはそこではないように個人的には思う。

 例えば、上記引用は、カラマーゾフ3兄弟の父、フョードル・パーヴロウィチ・カラマーゾフがゾシマ長老を前にしての発言である。われわれは無意識的に「善良な市民」であろうとするため、こんな台詞を吐く人間に出くわすことはないし、小説という虚構の世界においても、(リアリズム文学を標榜する文学であればあるほど)稀だ。しかし、ドストエフスキーは、善良な市民という仮面の下に隠れているさまざまな顔(それも一つの仮面に過ぎないが)を暴き出す。その中でも、この道化師は、憎くもあり愛らしくもあり、忘れ難い(間違いなく同族嫌悪)。

16位:柄谷行人『日本近代文学の起源』

 告白という形式、あるいは告白という制度が、告白されるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。問題は何をいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出すのである。

柄谷行人(1988).日本近代文学の起源、講談社

 本書は、「日本近代文学」の歴史書ではない。「日本近代文学」という制度それ自体がどのように成立したかを問う系譜学の書である。そこでは、近代文学の発明品である「風景」と「内面」の歴史性が問われる。われわれは、「内面」あるいは「自己」なるものを、当然にあるものとして了解している。文学を読まない人間であっても、大学生の就職活動中に、「自己分析」によって、本当の自己を発見しようとしたはずだ。そして、アホでなければ、その作業それ自体が、本当の自己を再帰的に定義しているという事実に気づいたであろう。

 しかし、自己あるいは内面なるものがあると言うこと自体は疑わなかったのではないか。そして、そのこと自体を疑ってかかったのが柄谷行人である。余程の想像力がなければ、われわれは、この自己の檻の頑強さゆえに、例えば、西洋的な意味での自己のなかった江戸時代の人のようには思考したり、物を見たりすることは出来ない。しかし、自己を前提とせずに、つまり孤独を抱え込むことなしに、思考する余地があるという事実は、孤独に苦しむ現代人あるいは、職業選択の自由と自己実現という虚妄に苦しむ現代人にとって、本書は薬の効用を持つのではないか(だからと言って、その檻の外に出れる人間はそうそういないだろうが)。

 ところで、私は、大学生のときに、柄谷行人の本書と「マルクスその可能性の中心」などを読み、その批評の切れ味に惚れ込んだ。そして、彼が評価する著者、例えば、夏目漱石、マルクス、カント、中上健次を読むようになった。私にとって、柄谷行人は読書案内人であり、道先案内人であった。

15位:カント『啓蒙とは何か』

 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところで、かかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。

カント著・篠田英雄訳(1925).啓蒙とは何か 他4篇、岩波書店

 本書は、なんというか、読んでいて楽しいとか、知的に興奮するとかそういった類の本ではない。しいて言えば、「街中で無料配布したい書籍ランキング」(そんなランキングがあったとして)1位の本である。

 カントは、「私的」な理性の使用と「公的」な理性の使用を分ける。そして、私的な使用とは、「組織の一員」として使用すること、公的な使用とは、「学者」として使用することだと言う(かなり単純化して言うと)。われわれは、私的と公的という意味を、カントとは逆の意味で理解しているのではないか。だが、カントはこれを逆転させる。なぜか。それは、組織の一員として理性を使用する場合、所属組織の合理性を優先する以上、そこには責任もなければ、勇気も要らず、その個人にとって利己的な行為だからだ。

 例えば、あなたは電力会社の社員だと仮定しよう。会社は、原子力発電に多額の投資を行ってきたため、原子力発電を維持したいとの意向を持っている。しかし、原子力発電は、安全性を担保できておらず、廃止すべきだとあなたは考えているとする。会社の意向に沿って、理性を使用すれば、首になることはないが、一個人(学者)として理性を使用すれば、出世ルートから外れるかもしれないし、最悪、首を切られるかもしれない。どちらが、「私的(≒利己的)」であるかは一目瞭然であろう。

 私は、「教養」とは、雑学をたくさん知っていたり、知的な会話が出来たりすることではなく、カントが言う意味で、「理性を公的に使用する意志と勇気を持っていること」、つまり「理性を自分のためだけではなく、誰かのために使用できること」だと思う。それが出来る人間は稀だ。公的理性の大縄跳的不使用。人は死ぬまでタイミングを窺い続ける。その結果の総体として、われわれが生きる世界はどんどんクソみたいな世界に堕する。だから、私はカントの『啓蒙とは何か』を、四条河原町で配布したい。

14位:ガルシア・マルケス『百年の孤独』

彼女はよそ者をまねて思いっきりはめをはずし、一瞬でもいい、最後の反抗をこころみたいという激しい欲望に取り憑かれた。あきらめなどというものは捨てて、そこらじゅうに糞をたれ、この忍従の百年のあいだ喉の奥に押しこんできた無数の下品な言葉をその胸の底から引きずり上げたいという、実はこれまで何度もそう思いながら、そのたびに抑えてきた反抗だが。
「ちくしょう!」思わず大きな声が出ていた。
トランクに服を詰めかけていたアマランダはびっくりし、蠍にでも刺されたのだと思って聞いた。
「どこ?」
「どこって、何が?」
「蠍よ!」アマランダははっきり言った。
すると、ウルスラは自分の胸を指さして答えた。
「それなら、ここだよ」

ガブリエル・ガルシア=マルケス著・鼓直訳(2006).百年の孤独、新潮社

 この小説は、明確な1人の主人公がいるわけではない。もしそういった主人公=主体を措定するとしたら、「ブレンディア家」と言えるかもしれないし、もしかしたら、「マコンド」という土地と言えるかもしれない。この小説では、マコンドのブレンディア家の百年の歴史が、現実と非現実が溶け合った魔術的な手法で語られる。だから、この「孤独」は、主人公=「個人」の孤独ではなく、「一族」あるいは「土地」の孤独である。その意味において、この小説は近代文学=欧米の文学の枠組みを軽々と越え出ている。無茶苦茶に面白いから、是非手に取って欲しい。

13位:夏目漱石『三四郎』

女はその顔を凝と眺めていた、が、やがて落付いた調子で、「あなたは余っ程度胸のない方ですね」と云って、にやりと笑った。三四郎はプラット、フォームの上へ弾き出された様な心持がした。車の中へ這入ったら両方の耳が一層熱り出した。

夏目漱石(1952).行人、新潮社

 前回、知人からヘッセ『知と愛』のナルチスと評されたことがあると書いたが、「君は三四郎的だ」と揶揄されたこともある。本当、辛辣な友人を持ったものだと思う。田舎者で、うだつが上がらず、美禰子さんの手のひらでころころと転がされる三四郎。分かるよ、確かに似ている。上の引用文は、上京する電車の中で、知り合った女性との別れ際の一幕である。三四郎の今後が全て予言されていて、さすが、漱石先生と言うほかない。

 漱石は、「3」に拘っていたように思う。漱石には、『私の個人主義』という講演録があるように、「個人」という自己意識に取り組んだ最初の世代の一人である。漱石は、個人の意識と欲望をつき詰めて考えたとき、欲望の対象である女性(美禰子)と、その欲望を駆動する他者(野々宮)、そして自分自身(三四郎)の三角関係に行き当たったものと思われる。相手が欲しがるものを自分も欲しいと思ってしまうという人間の性。

 これは明らかな矛盾である。個人(1者)の欲望を突き詰めると、3者にぶつかってしまうのだから。漱石には、自分の欲望を、「これは私の欲望である」と言い切ることが出来ない。自己欺瞞が嫌いな人間には、耐え難いことだろう(もちろんこの主題が明示的に示されているのは『三四郎』ではなく『こころ』だが)。逆に言えば、この苦悩は、人間の性を欺瞞だと感じる自己意識がなければ、発生しようがない。近代文学はこの呪縛の中にあり続けるし、この呪縛が、呪いとして認識され続ける限り、漱石は読み続けられるだろうと思う。

12位:ポール・オースター『最後の物たちの国で』

 彼らはみんな、自分の人生の物語を語りたがったのです。私としては聞くよりほかありませんでした。それはどれもみな違った物語でしたが、同時に、つきつめればどれもみな同じ物語でした。数珠つなぎの不運、もろもろの誤算、じわじわとのしかかってくる状況の重圧。我々の人生とは、要するに無数の偶発的出来事の総和にすぎません。それらの出来事が細部においてどれほど多種多様に見えようとも、全体の構成がまったき無根拠に貫かれている点においてはみな共通しているのです。

ポール・オースター著・柴田元幸訳(1999).最後の物たちの国で、白水社

 物語には、必然的な展開というものがある。オイディプス王が、自分が父を殺し、母と交わっていたことを知り、自身の目を潰したように。あるいは、中上健次が創作した「秋幸」が、(間接的ではあるが)父を殺さざるを得なかったように。結論が分かっているにもかかわらず、その必然的展開が持つ重力には逆らい難い魅力がある。しかし、オースターの小説は、「偶然の出会いによるご都合主義的展開」に満ちている。にも関わらず、彼の小説を読み始めると、ページをめくる手を止めることができない。彼の小説の魅力はどこにあるのだろうか。

 彼の小説には、必ずと言って良いほど、破滅的な思考に陥り、破滅的な状況へと自身を追い込んでしまう人物が登場する。ニューヨーク3部作、ムーンパレス、偶然の音楽など挙げ出したらきりがない。「最後のものたちの国で」においては、アンナ・ブルーム。彼女は、彼女の兄、「最後のものたちの国」へ取材に行き、行方が途絶えた兄を追いかけ、絶望と希望の間を往還する。オースターは、絶望的な状況において現れるその人の本性を描くこと、また、その状況を反転させる他者との偶然の出会いを描くのが上手い。そして、洗練された文章と映画的構成が小説としての面白さを底上げしている。

 私は、気が向いたら本屋でオースターの小説を買い、電車の中で読んできた。そして、気づいたら、全てとは言わないが、その多くを読んでいた。その中で言うと「鍵のかかった部屋」、「リヴァイアサン」、「最後のものたちの国で」がベスト3である。この3冊の共通点は、登場する女性キャラが魅力的である点にあるように思う。それぞれソフィー、マリア・ターナー、アンナ・ブルーム(ムーンパレスのキティ・ウーも忘れ難い)。迷った挙句、アンナ・ブルームが競り勝ち、ここでは「最後のものたちの国で」を挙げることにした「4321」では、どんな魅力的な女性と出会えるのだろうか。柴田元幸の翻訳が待ち遠しい。

11位:フランツ・カフカ『審判』

 「いや」と僧は言って、「すべてを真実だと思う必要はないのです。」ただそれを必然だと思えばよいのです。」
 「陰気くさい考えですね」とKは言って、「嘘が世界の法にされるわけだ」
 Kは結論を下すような口調でこう言ったものの、じつはそれが自分の最終的判断というわけではなかった。ひどく疲れていたので、この話のあらゆる推論過程を概観することができなかった。

フランツ・カフカ著・辻瑆 訳(1966).審判、岩波 書店

 たとえ短い文章であっても、カフカについて何かを書くということは難しい、非常に難しい。抽象的で寓意的なカフカの語りは、解釈の幅が広く、カフカの小説はこう解釈すべきだと言った側から、「そう矮小化して解釈するのはいかがなものか」という声が何処からか聞こえてくるからだ。とは言え、11位に挙げた以上何かしら書かねばならない(気が重い)ため、ほんの一言だけ。岩波文庫から『カフカ短編集』なるものが出版されているが、その中に「掟の門」という短編がある。文庫本でたった4頁の短編である。カフカのエッセンスは、そして、『審判』のエッセンスはこの短編に詰まっていると私は思う。

最後に

 こんな長ったらしい記事を最後まで読んでくださる方はそうそういないだろう(私自身少し疲れた)。お読みいただいた方には感謝の意を伝えたい。あらためてリストを眺めてみると、こんな名著が1位〜10位に入らないなんて嘘だ、と思えてくる。そして、1位〜10位の中で、繰り下げ可能なものはないだろうかと探してみる。しかし、不思議とそんなものはないのである。ということで、次回に続く。

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