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【MLB】2001年「ツインズとエクスポズの存亡」

これまで1960-90年代の労使紛争にフォーカスしてきたわけですが,2000年代の争議はそこまで味気があるわけではなく,時系列で言えばここらでステロイド時代の考証をぶち込むのが理想。ただ,それはちょいと労力がかかるので,2001年オフに起こった球団縮小騒動について先にまとめます。興行的にうだつの上がらなかった2球団の明暗はどこでわかれたのでしょうか。


①激動の2001年 

日本人にとって,「2001年の大リーグ」と言えばイチローの鮮烈なデビュー,そしてマリナーズの歴史的な快進撃が真っ先に思い浮かぶのではないでしょうか。史上2人目となる新人王とMVPのダブル受賞を果たしたイチローの躍進などによって,今なおアンタッチャブルレコードとして君臨するシーズン116勝を挙げることとなりました。

しかし,そのマリナーズがワールドシリーズに進むことはなく,ALCSで敗退。代わりにア・リーグ制覇を果たしたのが1996年から2000年の5年間で4度の世界一に輝いていたニューヨーク・ヤンキースでありました。80年代はWS優勝と無縁であった古豪は,強力な生え抜き陣”CORE4”に加え,球界屈指の財力を引っさげたFAでのベテラン獲得などによって再び黄金時代を築き上げていたのです。もちろん,FA制度導入後に2連覇こそあれど,ここまでのダイナスティを形成していたのはヤンキースが初めてのこと。3連覇どころか,4連覇を目論むヤンキースに対する悪評は留まることを知らなかったのではないでしょうか。

しかしこと2001年のヤンキース,そしてニューヨークを取り巻く状況は180°異なったと言えます。
2001年9月11日・午前8時46分,ニューヨークの世界貿易センターに1機の航空機が衝突。航空事故と思われた矢先,午前9時3分には2機目となる航空機が激突。明らかに人為的な何かが起きていました。
その直後にはアメリカ国防総省の本庁舎・ペンタゴンにも1機が衝突し,合わせて3,000人近くの死者が発生。世界中を混乱と恐怖に陥れたのは中東過激派組織・アルカイダが引き起こした史上最悪のテロ行為でありました。

厳戒態勢となったアメリカでは,多数の観客が集まるMLB公式戦が9月17日まで中止に追い込まれるなど,一時はシーズンの存続すら危ぶまれていました。そんな困難にあって,PS進出を果たしたヤンキースが奮闘を見せます。
まず,アスレチックスとのALDSでは0勝2敗と後がない中で迎えた第3戦,1対0と緊迫したなかでDerek Jeterの珠玉のプレーが飛び出します。7回2死1塁で右翼線に安打を打たれると,同点を目論んだJeremy Giambiが本塁へ突入。右翼手Shane Spencerの送球が中継の上を大きく逸れたために同点は確実と思われましたが,本来はそこにいないはずの遊撃手Jeterが軌道修正を行い本塁アウト。拮抗したゲームを制すると,最終的に第4・5戦目もヤンキースが連勝し,大逆転でシリーズを突破しました。

勢いをそのままにALCSでは116勝マリナーズを4勝1敗で下すと,過去6年間で5度目となるワールドシリーズに進出。相手は1998年に新設されたばかりのアリゾナ・ダイヤモンドバックスでありましたが,歴代屈指のエースデュオであるRandy Johnson&Curt Schillingに苦戦を強いられ1勝2敗と劣勢に。迎えた第4戦でも1対3で最終回に突入するなど絶体絶命となりますが,2死からTino Martinezの同点ホームランが生まれると,10回裏にはJeterのサヨナラ弾で勝利。

続く第5戦でも0対2の9回2死からScott Brosiusが同点弾を放つなどミラクルを引き起こし,シリーズを3勝2敗としたのです。最終的にはダイヤモンドバックスに球団創設後初となるWS優勝を明け渡しましたが,ニューヨークに希望と熱狂を与えるには十分すぎる劇的なプレーオフであったことは疑う余地もありません。
また,ヤンキースタジアムでの第3戦ではGeorge W. Bush大統領が始球式のために登場。テロ対策によって9.11以降,公の場に一切姿を見せなかったリーダーの登場には球場が,アメリカ国民が沸き立ちました。

こうして,誰もがアメリカ社会の復興に向けて歩み始めようとするなか,コミッショナーであったBud Seligによって奇妙な動きが持ち出されます。

②Contraction plan(球団縮小計画)

ワールドシリーズ第7戦目からわずか2日後となる11月6日,シカゴにて行われたオーナー会議にて「2002年シーズンから2球団を削減し,28球団体制で開幕する」といったContraction planがSeligから提案されると,賛成28票・反対2票の賛成多数によりこれが承認。もとより選手年俸の高騰と不完全な収益分配などによって「30球団中25球団が累計5億ドルの損失を被っている」と喧伝していたSeligの肝入プランともとれます。

この時点において,どの球団が消滅するのかは明らかになっていませんでしたが,筆頭候補として挙がっていたのはミネソタ・ツインズ,モントリオール・エクスポズ,フロリダ・マーリンズ,タンパベイ・デビルレイズの4球団でありました。

中でもツインズとエクスポズの2球団は,1990年代に拡張されたばかりのマーリンズ&デビルレイズとは異なる大きな問題を抱えていました。本拠地スタジアムの深刻な老朽化です。
ツインズ本拠地メトロドームは1982年竣工と比較的新しい球場でありましたが極寒で降雪の激しいミネアポリスにおいてドーム球場の屋根は悲鳴を上げており,1990年代後半から本拠地移転の噂が止まない状況へ。また,当初よりNFLバイキングスとの併用を目的として建設された多目的スタジアムであったことで,野球場としては不向きであったこともツインズを悩ませていました。

そして当noteではすっかりお馴染みエクスポズ本拠地オリンピックスタジアムは1976年夏季オリンピック会場を流用したものであり,人工芝の下には硬いコンクリートが埋められていたため外野手らの下半身に大きな負担を与えていました。結果としてAndre Dawsonが破格の低年俸を受け入れてまでカブスに脱出を計るほどの事態に発展。1987年には五輪当初より念願であった開閉式屋根の設置に漕ぎ着けましたが,紫外線に弱い合成繊維ケブラーで作られた屋根からは,案の定何度も雨水が滴り落ちる有様。1991年9月13日には55トンにも及ぶ外装コンクリートが付近道路に落下。もはや本拠地の改修・移転はエクスポズにおける最優先事項といえたでしょう。

そしてなにより,当時オーナーであったCarl Pohlad(ツインズ)とJeffrey Loria(エクスポズ)も球団売却に乗り気であったことにより,この2球団が消滅の最右翼と目されていたのです。

しかしご存知の通り,2023年現在においてツインズとエクスポズの歩んだ道は全く違うものとなりました。果たしてどのような展開を迎えたのでしょうか。

③地元一丸となって復活を果たしたツインズ

売却を善とするPohladとは対称的に,ミネソタ州全体で球団消滅を阻止する動きが活発となります。ミネソタの上院議員であったPaul Wellstoneらが筆頭となり,「球団を消滅させた場合にはMLBにおける反トラスト法の免除を打ち切る」といった法案を米国議会に持ち上げます。これによってSeligは公聴会に召喚される事態に発展。
また,渦中の球場を所有するメトロポリタンスポーツ施設委員会が「ツインズとメトロドームの使用契約が1年残っている」としてMLBを提訴。結果として冒頭のオーナー会議から僅か10日後となる2001年11月16日には,ミネアポリス群判事によってツインズの2002年シーズンに干渉しないよう命じる差し止め請求がなされました。結局控訴審においても請求が認められたことによってMLBは2002年1月12日に球団縮小計画の中止を発表,30球団によるシーズン開幕が決定しました。(ツインズについても2004年までの存続が確約)

それであっても,1993年から長い暗黒時代の最中にあったツインズにとっては,収益赤字という課題が棚上げされただけに過ぎませんでした。しかし数奇なもので,球団消滅が囁かれたこの年からTorii HunterやDoug Mientkiewiczといった若手が次々に台頭。2002年シーズンには94勝67敗の好成績でALCSまで上り詰めるなど,待ち望んだ黄金時代が到来したのです。2000年には僅か1,000,760人(AL最下位)に留まっていた観客動員数も1,924,473人まで倍増。数年で球団財政を立て直したことにより,気付けば球団売却の話題などは聞こえなくなりました。それだけに留まらず,2006年5月26日には公費含む5億2,200万ドルによるミネアポリス新球場建設を承認する法案が可決。2010年にはターゲットフィールドが完成し,開場初年度には球団史上最多となる3,223,640人を動員(当時AL3位の超高水準)するまでに至ります。確かに,球団消滅を阻止したのはミネソタ州のバックアップであったことに疑いの余地はありませんが,永続的な球団売却を阻止したのは紛う事なきツインズ選手陣の実力によるもの。

チームが現存する今となっては笑い話で済みますが,この2001年の騒動にはもっと複雑な事情がまみれていました。そもそも何故Pohladオーナーは球団消滅に乗り気であったのかといえば,当時のツインズを市場価値に則って別のオーナーに売却するよりも,球団消滅によってMLBから得るバイアウト報酬の方がはるかに多くなると見積もっていたからです。その消滅する球団を意のままに選択することのできたのは他でもないBud Seligでありましたが,SeligとPohladは1980年代中盤からの言わずと知れた盟友。1992年には2人が中心となって当時のFay Vincentコミッショナーを追放したことは記憶に新しいです。(詳細は下記リンク参照)

また,ツインズ消滅はSeligにも大きなメリットのある話でありました。Seligが実質的に保有していたミルウォーキー・ブリュワーズはミネソタ州の右に隣接するウィスコンシン州に位置しており,仮にツインズが無くなればブリュワーズが米国北中部の市場を席巻できたのではと推察できます。

ちなみに2002年1月7日には,Seligが暫定コミッショナーに就いていた1995年にPohladがブリュワーズに300万ドルの融資を行っていたとの報道がなされます。メジャーリーグ規則 20条(C)においては八百長などを防止するため,クラブ間の直接的・間接的な融資を禁ずる規定が成されていますが,コミッショナーたるSeligが堂々と規則を破っていた事実はあっぱれの一言。
また,この騒動に関して取材を受けたSeligの悪友Reinsdorfは「"We have a lot of rules we don't necessarily enforce all the time,"(我々には必ずしも遵守するとは限らない規則がいくつもある。)」「  "What is the big deal? It was for a short time, 45 or 60 days. Everybody would have voted for it had it come up. To me, it's a like a cop sees a guy going 62 (mph) in a 55 zone. "(何が問題なのか。融資は45日か60日ほどの短い期間だったのだろ。この話が当時審議されていれば誰もが賛成した。警察が時速55マイルの道路を62マイルで通過した車を見たようなものだ。)」とこちらも圧巻のコメント。長い間,ルールを蔑ろにして選手の権利を踏みにじってきた経営者を象徴するような一幕でありました。

当たり前ですが,こういった一連の融資が明るみに出たことによって,前年のツインズ消滅はSeligとPohladによってかねてより合意がなされていたのでは?といった疑惑が浮上することとなります。言ってしまえば,Seligがお友だちのPohladに便宜を図って巨額のバイアウト報酬を手にしようと共謀していたのではということです。しかしその後も,2人とも目立ったお咎めを受けることなく要職に就き続けていました。

④悪政Loriaによって消え去ったエクスポズ

財政難を若手の台頭で乗り切ったツインズでありましたが,このエクスポズにはそれ以上に若いタレントが揃っていたと断言できます。Larry Walker・Moises Alou・Marquis Grissomの豪華外野手トリオに早熟のPedro Martinezらを擁した1994年は地区1位をひた走り優勝へ邁進。しかし8月12日からのストライキによってシーズンが中断。これが元々悪化していた球団財政に拍車をかけてしまったことで若手コアの大半を放出していくこととなります。

当時GMのKevin Maloneはリーグ最高のファーム組織を誇らしげにしていたものの,マスコミからは「選手がスキルを磨いて去って行く3A球団」と痛烈に揶揄されるまでに。1998年にはのちの殿堂入りVladimir Guerreroが一気にスターダムを駆け上がりますが,チームは65勝97敗。観客動員数は同年のツインズよりも20万人少ない914,909人(11,295人/1試合)と断トツのMLB最下位に終わります。更に翌年にはたったの773,277人しか動員が叶わず,そこに先述の球場老朽化問題が合わさっていたことで,チームの移転や売却は秒読みの段階であったと言えます。

当時のオーナーClaude Brochuも無策だったわけではありません。1997年には計2億5000万ドルを講じてモントリオールへの新球場ラバット・パーク建設を構想。ケベック州と協議を進めましたが,これ以上の赤字を抱えることができないBrochu側と,1976年に建設したオリンピックスタジアムの借金返済に未だ四苦八苦のケベック州側の意見が到底一致するはずもなく空中分解。ポートランドやラスベガスなどへの移転も画策しましたが,これも資金面などで目処が立たず破談に。
結局Brochuはオーナーであることを諦め,1999年12月9日に球団株式を売却。これを手にしたのがニューヨークのアートディーラーであったJeffrey Loriaでありました。Loriaが当初手にした株式は24%に過ぎませんでしたが,球団を所有する他の投資家たちもBrochuの撤退を機に次々と株式を売却。こうしてLoriaは短期間で94%もの株式を有するオーナーに成り上がったのです。


Loriaは当初,ラバット・パーク構想をより現実的にするためBrochuの計画を大幅に変更。派手なデザイン要素を取り除くことで建設費を5000万ドル削減することを計画し,再度ケベック州との交渉を行います。結果,モントリオール市民の税金を投じることで計画が前進していましたが,ここで味を占めたLoriaが球団負担分を1億ドルから3,880万ドルまで大幅に減少させることを決定。さらなる公金投入を促したことで,球団とケベック州との間に決定的な溝が生まれることとなりました。

また,1995年以後は下降の一途を辿っていた所属選手への給与もアップを確約。実際,1999年時点では平均1,790万ドルであった選手給与を1年で平均3,290万ドルまで上昇させています。ただ,フロントへ積極的に介入するLoria主導のもと,FAへの参入を試みますが,劣悪な環境のオリンピックスタジアムでプレーを望むスター選手は1人もいなかったことで戦力増強は叶わず。2000年に67勝,2001年には68勝と地区最下位に沈みました。給与を倍増させたものの,満足な結果を得られなかったLoriaのフラストレーションは想像に難くありません。

極めつけは放映権契約でした。2000年からLoriaがカナダ国内のテレビ放送局に対して,他球団と同水準の放映料を要求。もちろん,低迷にあえぐエクスポズの試合への需要は非常に少なく,あるケベック州の放送局は「まずはファンベースを再構築しては?」と正論をブチかまします。結局プライドの高いLoriaは要求を変えなかったために,どこのテレビ局とも契約を結ぶことができず。挙げ句の果てにラジオ契約をフランス語圏(ケベック州の公用語)の放送局と締結したために,英語圏のファンが試合を全く見られない&聴けない状況に陥りました。翌2001年はReseau des Sports(RDS)社と1年のテレビ放映契約を結んだものの,これも大半がフランス語による中継。また,RDSから受け取った放映権収入が300万ドルとなっていたものの,それまでエクスポズに年200万ドルを支援し続け,新球場の命名権まで保有していたビール醸造会社ラバットが,スポンサーに終止符を打つことを発表。チームがいくら低迷しようともエクスポズを信じ続けてきた企業も,Loriaはじめとする球団上層部の惨状に見切りをつけたわけです。

そして迎えた2001年11月,Seligから球団縮小計画が発議されるとLoriaはこれに賛同。先述のように,ミネアポリス群での差し止め請求によって計画は頓挫したものの,同年12月に衝撃の交渉が行われます。すでにモントリオールに興味を無くしたLoria,将来的に球団を消滅させたいMLB(Selig)の利害が一致していた中,大都市球団の経営に興味を持っていたマーリンズのJohn W. Henryオーナーによるレッドソックス買収が合わさって,以下のような契約が成立したのです。

Loria【MON】→マーリンズを1億5850万ドルで買収
Henry【FLA】→レッドソックスを7億ドルで買収
【MLB】→エクスポズを1億2000万ドルで買収

なおLoriaはこの際,マーリンズ買収額とエクスポズ売却額の差額3,850万ドルについてもMLBから無利子で貸与を受けており,破格の厚待遇であったことがわかります。また,エクスポズを去る際に監督やコーチ,スカウト陣やオフィスのパソコンまでを全て引き抜いていったために,エクスポズに残ったのは僅か6名のスタッフだけであった話はあまりにも有名。

エクスポズを手中に収めたMLBは,他の29球団オーナーによる共同運営を決定し,文字通り生殺与奪を自由に操れる傀儡球団を作成したわけです。これにより,球団消滅はなくなったものの,正式にエクスポズ移転に舵が切られることが決まりました。

2003年~2004年には将来的なMLB球団新設の市場調査として,プエルトリコ・サンフアンにて計43試合のホームゲームを実施。モントリオールから7時間を超えるフライトを要することを考慮すれば,エクスポズの選手陣が実験道具にすら見えてきます。そんな中でも2003年には8月まで71勝67敗と勝ち越しを果たしており,9月の戦績次第でワイルドカード進出も狙える位置に付けていましたが,下記のような悲壮感漂うエピソードもあったようです。

MLBには、9月ロースターといって、9月1日からそれまでの25人から最大40人までメジャー登録選手を拡張できるシステムがある。
エクスポズのミナヤGMも、当然のように傘下のマイナーから選手を呼び寄せようとした。なぜならオーナーであるMLBから編成の全権を担っているはずだからだ。しかし、エクスポズの実質オーナーである他球団29人のオーナーが、それに待ったをかけた。拡張ロースターによって生じる負担金の見積もりは5万ドル、約600万円である。それを29等分すると約20万円。億万長者のオーナーたちが、その金を出し渋った。

【キセキの魔球08】球界史上稀に見るおぞましいエピソードより引用

ついには2004年9月29日に翌2005年シーズンからのワシントン移転が発表。同日行われたオリンピックスタジアムでの最終試合には31,395人もの観客が訪れました。

こうして,1969年から続くモントリオール・エクスポズの歴史に終止符が打たれました。
この球団移転に奔走したのが当時のMLBエグゼクティブに就任していたJohn McHale Jr.であり,その父Sr.はかつてのエクスポズ球団社長。加えて,以前投稿した「マービン・ミラーとストライキ史」でも紹介したように,Dave McNallyに史上初となるフリーエージェントを与えてしまった人物でもあります。

巡り巡って,そのフリーエージェントに起因する選手年俸の高騰が1990年代のエクスポズ財政を苦しめ続け,最終的にはMcHaleの息子がピリオドを打った…なんて捉え方もできます。

幸い,移転後にナショナルズとして生まれ変わったのち,長期間のタンクを経験しながらも2019年には創設初のワールドシリーズ制覇を成し遂げるまでに至っています。優勝後の今も監督を務めるDave Martinezですが,若手コアが健在な1990年代初頭のエクスポズに選手としての在籍経験があったのも数奇ですよね。

ともあれ,一時は消滅の危機に瀕したツインズとエクスポズの明暗はこのようにして分かれたわけです。

最後に

エクスポズについてはLoriaだけに責任があるような記載になりましたが,実際のところは球場の老朽化,複雑なモントリオールという土地柄といったどうにもできない要素があったことも事実です。そこにLoriaが最速でトドメを刺したと言われたら仰るとおりなんですけどね。下記記事のようなマーリンズでの悪行が先行する彼ですが,1993年にはボルチモア・オリオールズ買収にも名乗りを挙げており,Peter Angelosがいなければオリオールズすら毒牙にかかっていたのかもしれません。

さて,近年ではタンパベイ・レイズの新球場問題においての姉妹本拠地としてモントリオールが候補地となったり,2023年5月に話題となった32球団構想のターゲットになったりと,20年近い空白を経て野球チームが復活する可能性も徐々に出始めています。どうか,健全な経営体制の下で復活してほしいですよね。
これはアスレチックスの”リバースボイコット”の際にも強く思いましたが,球場に人が集まらない責任をファンへ転嫁することはエクスポズと同じ道を辿るだけに他なりません。スクラップ&ビルドを繰り返すなかでファンが変わらない声援を送り続けてくれると勘違いしたのは球団上層部の怠慢・思い違いとしか言いようがないですよね。オークランドは都市的にも不毛の地とかではないので,いずれまたちゃんとしたチームが設立されてほしいです。

次回はいつになるか分かりませんが,頑張ってステロイド時代のまとめを上げます。ほんと,いつになるか分からんけど。

<参考文献>

2001 Major League Baseball contraction plan|Wikipedia
Baseball Owners Vote To Eliminate Two Teams|The Washington Post
2001 Winter Meetings: All Quiet on the Charles|SABR
The Impact of the Blue Ribbon Panel on Collective Bargaining Agreements|SABR
Play Ball: Minnesota Baseball Litigation Lore|SABR
How Major League Baseball Responded to 9/11|SABR
Olympic Stadium (Montreal)|SABR
Judge orders Twins to play in 2002|UPI
Selig loan under fire|seattle pi
Montreal Expos team ownership history|SABR
【キセキの魔球08】球界史上稀に見るおぞましいエピソード|週間ベースボールオンライン

※サムネイル画像の球団ロゴはBaseballReference.comより

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