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野球に囚われた異才児「アレックス・ロドリゲス」

ジョージ・ルーカスの超大ヒット映画シリーズ「スター・ウォーズ」は誰もが一度は見たことがあるのではないだろうか。一番有名なキャラクターに「ダース・ベイダー」という,黒いマスクとマントに身を扮した人物がいる。どうしてもこのキャラクターを見ると,標記の元メジャーリーグ選手である「アレックス・ロドリゲス(Alex Rodriguez)」を思い浮かべてしまう。映画のネタバレはあまりしたくないのでここでは言及しないが,今回は野球を愛しすぎた故に野球に囚われてしまった異才児の紹介をしていきたい。

生い立ち~NYとの宿命~

 1975年7月27日,ニューヨーク市のブルックリンにて生まれたアレックス少年。のちにこの地でメジャーリーガーとなるとは誰も思っていなかったであろう。このときからアレックスとニューヨークには宿命ともいうべき縁故があったのかもしれない。
 しかし4歳の時に家族でドミニカ共和国へ移住(この時にドミニカ国籍を取得)。実はアレックスの父はドミニカのマイナー選手として試合に出ており,度々アレックスを試合に招いたという。8歳のときに両親が離婚し,そのときにはすでにアメリカに舞い戻り,マイアミに住んでいた。
 離婚後は母と暮らしていたものの,父から教わった野球を始める傍ら,テレビなどでメジャーリーグ観戦をしていたという。一番のお気に入りの選手は名遊撃手カル・リプケン・ジュニア(2632試合連続出場という世界記録保持者)で,アレックスがのちに守ることとなる遊撃手は彼にちなむものであった。


高校時代~衝撃の全米ドラフト全体1位~

 アレックス少年は高校生になっても野球を続ける傍ら,バスケットボールとアメリカンフットボールでもレギュラーを兼任。どの分野においても各スカウトの目に留まるなど類い稀なる才能を見せていた。
 特に野球成績では100試合に出場して打率.419 17本塁打 70打点 90盗塁を記録,1993年オール・アメリカンに選ばれるなど,卓越した運動神経を見せた。
 余談ではあるが,この当時に自分のグローブなどに「A-Rod」という風に名前を書いていたことから彼の代表的なニックネームとなっていく。
 そして1993年,MLBドラフトにてシアトル・マリナーズに全体1位指名)を受け入団。ここからアレックスの野球選手としての長いキャリアがスタートすることとなる。

 (「全体1位指名」 ―― MLBは前年度の成績が悪いチームから希望選手を選択することができるが,日本のようにクジ引きは無く,すでに指名された選手を他球団が指名することができない。そのため,ドラフト1位の中でも「全体1位」という肩書きはその年に二つとして存在しないものである。近年の代表的な選手はアレックス・ロドリゲスの他にケン・グリフィー・ジュニア(SEA),チッパー・ジョーンズ(ATL),ジョシュ・ハミルトン(TB),ジョー・マウアー(MIN),デビッド・プライス(TB),ブライス・ハーパー(WSH)などがいる。
 ただ,全体1位だからといって素晴らしいキャリアを送れるかというのはまた別で,2016年にグリフィーがアメリカ野球殿堂入りを果たすまでに,全体1位選手の殿堂入りが一度も無かったことをみても,その肩書きを背負うプレッシャーたるや想像に及ばないものがある。

スーパースターとして台頭したSEA時代

 1年目の1994年,アレックスは当初A(シングル・エー)にてプレーするも壁にぶち当たることなくAAA(トリプル・エー)まで駆け上る。マイナー成績は打率.312 21HR OPS.953という高卒1年目としては異次元の成績を残した。そして1994年7月8日,そんなアレックスに対し早くもメジャー昇格の機会が訪れる。同日のレッドソックス戦にて,1900年以降のメジャーリーグの遊撃手としては史上3人目となる18歳でのメジャーデビューを果たした。
 ただ,高卒新人が勢いで駆け上れるのもここまで。MLBの壁は高く,17試合に出場するも打率.204 0HR OPS.445という成績に終わった。2年目となる1995年は開幕ロースターには入れなかったものの5月にMLB昇格,48試合で打率.232 5HR OPS.654という成績を残し,念願の初ホームランも放った。
 そして3年目となる1996年,アレックス・ロドリゲスが全体1位指名たる所以をまざまざと見せつけることとなる。打率.358 36HR 123打点 15盗塁 141得点 215安打 OPS1.045というとんでもない成績を残し,アメリカン・リーグ(以下AL or ア・リーグ)の首位打者・遊撃手部門のシルバー・スラッガー賞(日本でいうベストナイン的な賞)受賞・初のオールスター出場シーズンMVP投票2位といった輝かしすぎる成績を残した。

 このシーズン,あまりにも打ち過ぎたため同年9月1日のBAL戦に面白い出来事が起きる。オリオールズデービー・ジョンソン監督はA-Rodが打席に入ると「バットに細工がしてあるはずだ!」と審判に訴え,バットの交換を要求されてしまう。しかしA-Rodはこれを快諾。グリフィーから借りたバットでホームランを打ってしまうのだった。これにはジョンソン監督も赤っ恥だったであろう。
(動画)https://www.youtube.com/watch?v=Ztakuq_lZEY
ちなみにこれは本当にマニアな話になるのだが,A-Rodもグリフィーもルイスビル・スラッガー製のC271(グリップが細く,ノックバットのような形状で重量も軽め)という同じ型のバットを使っていたため,グリフィーのバットを拝借したとはいえ,自分の愛用バットと感覚は似通っていたのではないかと思う。このホームランというのはあえてグリフィーのバットを借りたからこそ放つことが出来たのではないかと勝手に想像しています(笑)C271型の軟式用バットが「ブラックモンスター」という名称でルイスビル・スラッガー社から今も販売されているので気になる方は検索してみてください。

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 ついに真価を発揮したアレックスはこの年を境に球界を代表するスーパースターとして台頭しはじめる。翌1997年にはサイクル安打を達成,また1998年には42本もの本塁打を放つ傍ら,46盗塁という成績を残し,MLB史上3人目の40本塁打・40盗塁を達成
 5ツールプレイヤーとしても大成長したアレックス・ロドリゲス。この1990年代後半にはニューヨーク・ヤンキースでデレク・ジーター,ボストン・レッドソックスではノマー・ガルシアパーラが台頭し「3大遊撃手」とまで呼ばれるようになる。この時代までは遊撃手というのは守りの要であり,打撃力よりも守備力がある選手が起用されるのが常識。その常識を崩し始めたのが何を隠そうアレックスの憧れた遊撃手カル・リプケン・ジュニアなのだ。そしてA・ロッド,ジーター,ガルシアパーラの出現によってその常識は完全に打ち砕かれたのだ。
 1998年から2000年にかけては3年連続で40本塁打を放つなどオールスターの常連となり始める。この時までのアレックス・ロドリゲスは完全無欠といっても誇大にはならなかっただろう。
 しかし24歳となった2000年オフに早くもFA権を取得。ここら辺りから「アレックス・ロドリゲス=好青年のスーパースター」という世間のイメージが崩れ始めたのかもしれない。2001年1月26日に同じア・リーグ西地区のテキサス・レンジャーズと総額2億5200万ドルの10年契約に合意。これは当時のスポーツ界で歴代最高年俸額であり,この超長期契約とあまりの高額ぶりは、野球界を超えて大きな波紋を呼んだ。当時のシアトルファンとしては1998年途中に大エースのランディ・ジョンソンがヒューストン・アストロズへトレード移籍,1999年に先述のケン・グリフィー・ジュニアがシンシナティ・レッズにFA移籍。そこに追い打ちをかけるようなアレックス・ロドリゲスのFA移籍(しかも同地区)がマリナーズファンの心をどれだけ打ち砕いたかは想像に難くないだろう。
ちなみにそれぞれの3選手がシアトル・マリナーズ時代に残したrWARは以下のとおり。

ランディ・ジョンソン    rWAR39.1
ケン・グリフィー・ジュニア rWAR70.4 (2008-2009のSEA在籍時除く)
アレックス・ロドリゲス   rWAR38.1

3人の合計rWAR147.6というぶっ飛んだ数字から分かるとおり,エース・4番・遊撃手というチームの大黒柱ともいうべき選手がたったの3年で全員移籍。翌2001年は一体どんな惨状になるやら、、、、というファン不安を一掃したのが我らの誇るイチローだった。2001年のマリナーズはイチローが首位打者・盗塁王・最多安打(歴代新人記録)・ゴールドグラブ賞・シルバースラッガー賞・ALMVP・新人王を受賞するなど破竹の勢いで歴代最多のシーズン116勝を挙げて地区優勝を飾った。(ポストシーズンには言及しないでおく)
野球にかかわらず“もし”というのは禁句であるが,あえて言おう。“もし”2001年のマリナーズにジョンソン,グリフィー,ロドリゲスが在籍していたら一体何勝を挙げていたのだろうか。116勝よりも数字が上がった可能性もあるし,当然イチローやブレット・ブーン,ジョン・オルルッドが加入せずに数字が減っていたかもしれない。なるほどやっぱり「116勝」という数字というのはある意味,この3選手の移籍なくしては為し得なかったのかもしれない。


年俸は飾りじゃないことを証明したTEX時代

 さて少し脱線してしまったが話題をもどそう。とんでもない契約で移籍したアレックスは当然,古巣シアトルの本拠地セーフコ・フィールドでは大ブーイングの中,札束の玩具がバラまかれるなど類を見ない洗礼を受けることとなった。
 しかしA-Rodという男はそんなモノには屈しない。2001年には52本塁打遊撃手初の50本塁打),2002年には57本塁打,2003年には47本塁打を放ち,3年連続本塁打王を獲得。史上最高年棒は飾りじゃないことを証明した。
 2001年のオールスターでは憧れのカル・リプケン・ジュニアとの三遊間を組んだ。(カル・リプケン・ジュニアはこの年に引退を宣言。このオールスターではMVPを獲得した。8歳の頃に憧れた選手の横に並ぶというのはこれ以上ない瞬間だったかもしれない。)

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 しかし当時のレンジャーズはアレックスにお金をかけすぎたせいで,投手の補強が全くできず,3年連続最下位。観客も右肩下がりになってしまう。

 当然レンジャーズはトレードを画策。アレックスも優勝争いができる球団を希望しはじめる。しかしアレックスの年俸を負担できるようなチームはヤンキース,レッドソックスしかなかった。
 先ほども紹介したが当時ヤンキースにはジーターが,レッドソックスにはガルシアパーラがいた。ヤンキースには2003ALCSで劇的なサヨナラホームランを放ったアーロン・ブーンもサードのレギュラーとしていたため,ヤンキースはトレードに消極的であった。(2003ALCSについては前回記事参照)
 しかもレッドソックスはA-Rod獲得のためにガルシアパーラとマニー・ラミレスを放出するプランを打ち立てる。しかしそれでもA-Rodの巨額の年俸が負担になると感じたレッドソックスは年俸の減額をA-Rodに提案。A-Rodは優勝争いができればよいと考えていたためにこれを快諾。あとは選手会の承諾を待つのみとなる。

 しかしこの案を選手会は却下。(この事例を認めてしまうと,同様に多くの選手が契約途中に減俸して、強豪チームへ移籍するというパターンが増える可能性があるため)そして2004年1月,この市場を大きく揺るがす大事件が勃発する。


”””アーロン・ブーン,バスケで膝を負傷”””

 契約違反を犯したブーンをヤンキースは即刻解雇。すぐさまアルフォンソ・ソリアーノとのトレードでA-Rodを獲得したのだ。当時のレッドソックスの歯がゆさといったらこの上なかったであろう。しかし当時こんな形でチームを去ったブーンが現在ヤンキースにて監督をつとめているとは誰が想像できただろうか。
 ともあれ,アレックスは自身の希望する優勝争いができる球団に移籍を果たしたのであった。

 ただ,ここからの野球人生というのは決して賞賛される場面ばかりではなくなってしまうのである。


野球界の暗黒卿となったNYY時代

 もっとも,成績といえばテキサス時代までとは言わないものの,2005年・2007年には本塁打王・MVPを獲得するなど十分に及第点に応えていた。
 ヤンキース時代のアレックス・ロドリゲスを語る際にシーズン成績について語るよりも試合中の行動やプレーオフ成績に対する意見のほうが多く出るのではないだろうか。
 
 まず2004年の対レッドソックスとのALCSの一件だ。これも前回の記事で書かせていただいたがもう一度説明させてもらおう。
 アレックスは第6戦にピッチャーゴロを放つと,タッチアウトを狙いにきた投手アローヨのグラブに強烈なハイタッチをお見舞いし落球。一時はエラーと判定されるも守備妨害となった。
(動画)https://www.youtube.com/watch?v=lxPNcrvR46Q

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 2007年5月30日のトロント・ブルージェイズ戦では内野フライが打ち上がった際,セカンドランナーのアレックスが「I got it!(俺が捕る!)」と叫んで守備をかく乱。結局サードとショートがお見合いし落球。ヤンキースには点が入るもまたもヒールとしてのイメージが付きまとう。
(動画)http://www.youtube.com/watch?v=x9NSSCzrnRw

 2009年1月にはレンジャーズ時代にステロイドを使用していた事が発覚。謝罪して事なきを得るも2013年には再び薬物問題が浮かび上がり,(前々回記事のバイオジェネシス・スキャンダルを参照)もはやかつての「好青年」「スーパースター」というイメージは失墜。スキャンダル発覚後,批判の矛先を反らすために証人の買収を試みたり,ひいてはバイオジェネシス社の顧客名簿を流出させていたことが発覚するなど,まさに野球界の暗黒卿となってしまう
 2014年にはMLB機構から1年間の出場停止処分を受ける。2015年のレッドソックス戦では大ブーイングの中,報復死球を当てられてしまう。しかしアレックスはその後の打席で「報復ホームラン」を放ち,ボストンのファンを黙らせた。(完全にA-RODの自業自得だけど)
(動画)https://www.youtube.com/watch?v=FfV1gznyCUQ

 ポストシーズンでもなかなか真価を発揮できず,ファンからも批判を浴びることも多かった。(2009年のポストシーズンは大活躍でチームをワールドシリーズ制覇に導いた。)

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 最期の瞬間というのもあまりに悲しいものであった。2016年,故障や不調で8月に引退宣言。(実際はヤンキースから自由契約にされていた。)引退試合ではすでに優勝争いから脱落していた状況もあったためサードを守りたいとジラルディ監督に直訴するも却下されてしまう。
 もちろん,引退際には多くのファンから喝采を浴びたが,それでもチームメイトであったジーターやリベラのような華々しい引退と比較するとあまりにも寂しいキャリアの終焉であった。

通算成績は以下のとおり
2784試合 .295(10566-3115) 696本塁打 2086打点 329盗塁 OPS.930
首位打者1回(1996年),本塁打王5回(2001~2003年,2005年,2007年),打点王2回(2002年,2007年),シーズンMVP3回(2003年,2005年,2007年),シルバースラッガー賞10回(遊撃手部門1996年,1998~2003年 三塁手部門2005年,2007~2008年),ゴールドグラブ賞2回(遊撃手部門2002~2003年),月間MVP10回ハンク・アーロン賞4回(2001~2003年,2007年),オールスターゲーム選出14回(1996~1998年,2000~2008年,2010~2011年),

見れば分かるとおり,歴代屈指の選手であったことは間違いない。しかしステロイド問題でバッシングにさらされ,3000本安打を達成した時にはイチローやジーターとは違い,「3***」と揶揄されるなど散々なものであった。(「*」は参考記録という意味。暗にステロイドを指している)
史上最速となる29歳316日での400本塁打到達という記録をみても,696本塁打でキャリアを終えたことは残念でならない。

野球解説者として大人気のセカンドキャリア

 引退後,アレックスは意外な場所で才能を発揮する。それは野球解説だ。非常にわかりやすく丁寧な解説が評判となり,2017年にはFOXスポーツと契約。さらに今年からはESPNのキャスターとしても活躍。
放送局FOXの重役が「彼にとってこれは趣味でも天下りでもない。正午にミーティングがあれば30分前にはそこに来ている。朝に番組でのアイデアをメールしてくることもあるんだ。リサーチもやっているよ。すっかり要領を得ているね。」と絶賛するなどまさに引っ張りだこの状態だ。
 FOXの番組内ではあのレッドソックスで熾烈な争いを繰り広げたスラッガーでもあり同じドミニカ国籍のデイビット・オルティスとコンビを組んで楽しそうに番組進行を行っている。A-Rodがお昼寝中のオルティスにこっそりヤンキースのジャケットを着させたり,2018年のポストシーズンでヤンキースがレッドソックスに敗れた際にはオルティスにレッドソックスのユニフォームを着させられて登場するなどもはや芸人のようなイメージすらある。(因みにヤンキースが勝っていたらピンストライプのパピが見ることができたのだ。)

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 野球に対する言動でも「(近年の試合短縮案に対して)俺は5時間の試合でも見てられるよ?」と苦言を呈して大絶賛を受ける。最近では元カノの母親から「彼は野球中毒者」「テレビの前に陣取って10時間も野球を見ている」「いつでも野球が見れるように彼女の家の庭にインスタントテレビを設置」といった内容が暴露され,野球ファンからの好感度が急上昇。もはやヤンキース時代のヒールなイメージは消えつつある。同時にヤンキースのショート,デレク・ジーターがマイアミ・マーリンズGMに就任。ジャンカルロ・スタントン,クリスチャン・イエリッチ,マーセル・オズナ,ディー・ゴードンなどの主力を一気に放出し猛烈に批判を浴びる。皮肉にも引退後にアレックスとジーターへの評価が入れ替わるという奇妙な状況が起きた。

 またセカンドキャリアとしてもう一つやっているのが「マンション経営」である。これはマリナーズ時代からやっていたそうで,いまでは500人以下の部下が12州15,000戸のアパートを所有しており,いずれ社名である「A-Rod Corp」の名が世界に轟くかもしれない。

 その素晴らしい才能から輝きを放ち続けたSEA時代,本領を発揮するも周囲から認められず,過小評価されたTEX時代,プレーや言動でヴィラン(悪役)と化したNYY時代。冒頭で私がアレックス・ロドリゲスの事を「ダース・ベイダー(アナキン・スカイウォーカー)」と形容したのはこういった経緯をふまえたものである。
 だが結局,父親の姿を取り戻したアナキンと同じようにアレックス・ロドリゲスも本来の野球好きの1人の人間の姿に戻ることができたのだ。チープな表現になってしまうがなんともロマンチックではないだろうか。

最後に

 アレックス・ロドリゲスの野球人生についてわかりやすく書いたつもりですがいかがだったでしょうか。このアレックス・ロドリゲスという選手は個人的にとても思い入れのある選手なのです。私が小学生の時,テレビでヤンキースの試合がやっていました。恐らく自分は松井を見るために見ていたのですがそこで運命の出会いを果たします。満塁の場面で漆黒のサングラスをかけた四番バッターが打席に立ったのです。その圧倒的雰囲気から「ああ,これがメジャーリーガーか」と感じたのを今も鮮烈に覚えています。その打席でA-Rodは満塁ホームランを放ち,私がイチロー・松井以外のメジャーリーガーの名前を初めて覚えた瞬間ともなりました。(1番にジョニー・デーモンがいたのでおそらく2007年くらい?球場や対戦相手も覚えていません)
 ともあれ,私にとってA-RODはかけがえのない選手ですし,MLBに傾倒していくきっかけを作った人物と言っても過言ではありません。彼が今後もどんなバッシングを受けようが大好きな気持ちは揺るがないつもりです。
 
 さて次回は,私が一番好きなメジャーリーガーのジョシュ・ハミルトンの紹介記事を書こうと思っています。ただ急に仕事が忙しくなってきましたので1週間から2週間かかるやもしれません。しばしお待ちを!!

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