『デカメロン』読書メモ第4日目

4日目に入る前にボッカッチョ自身によるまえがきがあって、まだ執筆途中なのに、あらかじめ想定される批判に対して弁明している。その批判というのがよくわからない。「ご婦人方の気に入るようなことを話し過ぎる」「私のようにご婦人方を褒め上げるのは問題だ」「ご婦人の事ばかり話して、ご婦人方に取り入ろうと」し過ぎるというのがボッカッチョが想定する批判なんだけど、それに対する反論が、若い女性に気に入られようと知恵をしぼるのは女性が好きだからで、女性を好きになるのは自然なことで、それを批判する方が不自然なのだ……ということなんだけど。この「ご婦人方の気に入るようなことを話し過ぎる」というのは文字通り受け取っていいものなんだろうか。あるいは、反論の内容から考えると、想定してる批判というのはセックスや性欲についてばかり書いている、ということなんだろうか? やっぱり「実際に女性に読まれてたのか?」というのが気になってしまう。

あれ? 1日目の「まえがき」に語り手たちは実在の人物って書いてなかったっけ。本当にあったことということになってるから、「ご婦人に混じって、たわいのないお喋りをする」という書き方になってるのか? それとも語り手の男性のうちの一人が自分であると仄めかしてるんだろうか?

考えすぎかもしれないけど、そんなことを考えてると「『デカメロン』を読むこと」というのはなんと複雑なのかと思う。まず民話のようなかたちで流行してた小咄(エロかったりばかばかしかったり聖職者を叩いてたり)があり、それを実在の人たちが物語る、というパッケージがされてて、その語り手や聴いてる人が話を解釈したり批評したりするんだけど、それがボッカッチョの考えてることと同じかどうかは疑わしい。さらにその外側に「まえがき」などボッカッチョ自身の意見が表明される部分があって、そこに書かれていることをそのまま字義通り受け取っていいのか、言外の意味がこめられているんじゃないかという迷いもある。さらにさらに書かれたのは700年くらい前のことで、当時の価値観との隔たりがあり、最後に、日本語に翻訳されたものを読んでいるという隔たりもある。物語そのものの間に何枚も屈折率の違うレンズがあるみたいなもので、『デカメロン』を読むこととは、いろいろな部分が歪んでいるであろう像を見つめながら元の姿を想像すること……なんだろうか? 構造が複雑というより、たんに中世イタリアに関する知識がなさすぎるせいかもしれない。

14世紀に書かれたものを近代小説のように読むのが間違いなんだろうけど、ギリシア、ローマ時代の古典にある悲劇や、聖書のエピソード(「サロメ」とか)と20世紀以降の文学や大衆小説のちょうど中間点のようで、そういう意味でもおもしろい。

第1話目は、悲劇の恋の物語。殺された恋人の心臓が金の盃に入れて運ばれてきたり、ドラマ度が高い。主人公である娘が父親に対しての最後の演説は、泣いたり激昂したりというのが一切なく、論理的にいかに父親が不合理で自然に反しているかを述べている。ここまで読んできて、とにかく男女の結びつきを否定するなというのが『デカメロン』の底にあるテーマといえそうな気がしている。

第2話は1話に比べると笑いがある話で、出てくる女性はおつむが弱いとかいわれてるけど、彼女を騙して性欲を満たす男は最後に罰せられて悲惨な死に方をする。

3話目はまた悲劇に終わる恋の話。3組の恋人たちが親の金を盗んで出奔し、しばらくは贅沢で幸せな暮らしをするけど、最後には殺されたり惨めな人生を送って死んだり。

第4話:『ロミオとジュリエット』みたいな、愛しあう恋人たちが死んでしまう悲劇。

第5話:殺された恋人が死人の姿で夢に現れ、自分が埋められている場所を告げる。女は彼の死体を掘り起こして頭だけを持ち帰り、鉢植えに隠してその鉢でバジリコを育てる。あげる水は薔薇やオレンジの花を蒸留した水か自分の涙だけ、とか原話がもともと耽美的なものだったのかな。「桜の森の満開の下」みたいな、植物と死体の幻想怪奇譚。

第6話:恋人の女のほうが不吉な夢を見て不安になるかんじ、男のほうが夢のとおりに死んでしまう不条理さ。真黒な猟犬に心臓を食いちぎられるという、死を予言する夢が印象的。男が死んで騒ぎになって、市長が取り調べる時に弱みにつけこんでセックスさせろと迫り、きっぱり断られるとこんどはレイプしようとする。それも失敗すると、身持ちが固いかどうか試した、身持ちが固いことがわかったから妻にしてもいいという。そんな申し出は拒否されて最後は女は出家して「長い歳月を清らかな生活のうちに過ごした」。このラストはキリスト教道徳をストレートに認めていて、ボッカッチョの皮肉や批判はまったく感じられない。恋はもう終わっていて、キリスト教道徳が恋愛を邪魔するものではないからだろうか。

第7話:蟇蛙の毒気によって恋人たち二人とも死んでしまう(死体は見るまに黒ずんでぱんぱんに膨れあがる……)。恋の物語というより、こんな奇妙な話があったよみたいな感触。第4日の話は悲劇が集められてるので、恋人たちがけっこう簡単に死んでしまう。

第8話:母親が息子の恋の邪魔をすることで悲劇をもたらす。絶望した男は、スイッチを切るみたいに意志の力だけで自分の「命の火」を消して死んでしまう。女のほうも男の死を悲しむあまり、遺体に触れると同時に死んでしまう。

第9話:自分の妻と姦通した親友を殺し、その心臓を妻に食べさせるという残酷譚。自分が食べたものを告げられた妻も身を投げて死ぬ。夫のほうは岸なんだけど、こんなことが露見したらただでは済まないということで馬に乗って逃げる。罰せられたり自害したりせずに逃げるだけ。死んだ二人は同じ墓に葬られるという結末だから、夫が死ぬと逆に収まりが悪いのか。

第10話:最後なので少し明るい話。浮気相手の男が麻酔薬を飲んで仮死状態になり、死んだと勘違いして大騒ぎになる。事件を裁く大判事が相談に来た下女に対してセックスの誘いをもちかける。第6話と同じで身分を利用してるわけだけど、今回はあっさり相談内容と交換条件で受け入れられる。この部分で話を聞いていたものは爆笑したってことになってるんだけど。権力者が立場を利用してセックスするってのは、現代では笑えない。

『デカメロン』のなかでは、恋愛(結婚してなくても、不倫であっても)こそが至上のものであって、それを邪魔するのは悪であり愚かである(キリスト教道徳であれ、法律であれ、しきたりであれ)、というのは一貫してるような気がする。騎士道物語の愛とはまた違ってるような。自由恋愛至上主義というのがこの時代から存在してたのか。それともボッカッチョが時代を先取りしてるのか。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?