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宗太郎のこと

27
老人ホームを舞台にした小説です
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宗太郎のこと 27

宗太郎のこと 27

私だけが酔っているのは心外だった。身体がへんだった。久しぶりに、車の助手席に乗った。いや、違う。この間、老人ホームで行ったレクのとき、近くの公園まで行っただけだが、その際に、私は頼子の運転する車の、助手席に乗ったっけ。
横山さんは、白の車に乗っていた。ホームに来るときには、銀の軽ワゴン車に乗っている。
「けっこう飲んだわけ?」
「ううん、ぜんぜん」
「おれ、あんま酒飲まないんだよね」
「きらいなの

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宗太郎のこと 26

宗太郎のこと 26

「私、いま、へんな遊びをしてる」
私が遅番で、頼子は日勤で、頼子が次の日休みならば、高確率で飲みに行く。私は次の日、夜勤の入りだった。
「へんな遊び?」
「そう」
「どんな?」
尋ねてはくれたが、たいして興味がなさそうだった。
「私、横山さんと、何かするかも」
箸の入っていた袋を、細かくじゃばらに折っていく。
「は?」
頼子がこちらを向いてくれて、うれしかった。
「横山さんと、何かするかもってとき

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宗太郎のこと 25

宗太郎のこと 25

銀ダラの煮つけは、煮汁ごとレトルトパウチになって、冷凍されて届く。解凍せずに、凍ったまま袋ごとお湯に入れて溶かし、皿に出す。湯せんは橋本さんも構えずに取り組める調理法だった。
「今日の、簡単でよかった」
橋本さんは、パントリーの中にある折りたたみの椅子に腰かけていた。調理パートには、食事はでない。
「おいしいよ。食べる?」
私は、パントリーの中にある、小さなテーブルの上にお膳を置き、立って食べてい

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宗太郎のこと 24

宗太郎のこと 24

舌の先で歯の表面に触れると、ざらざらしている。胃酸を戻すのだから、歯の表面は溶けるのかもしれない。終わったあと、すぐに歯を磨くが、弱ったエナメル質に、研磨剤がさらにダメージをくわえているだけかもしれない。舌の表面も荒れているのがよくわかる。口の中の粘膜も。とくに、天井の部分が、ひりひりと痛い。
遠くで、洗濯を終えたブザーの音がする。身体が重くて、起きあがる気になれない。

私は胃袋の中にどのくらい

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宗太郎のこと 23

宗太郎のこと 23

今なら電話してくれて構わないと思いながら、私は台所でシンクに向かい、歯をみがいていた。
床に散らばっていたものはかたづけ終えていた。容器に残った汁は流しに捨て、排水口のネットを交換した。ゴミは、ゴミ袋に入れた。その後に、雑巾もかけた。なにもなかったように、部屋はきれいになっていた。

右手の甲には、赤くくぼんだあとがついていた。私は、口に手を突っ込まないと戻せない。歯のあたる部分が、赤くへこんだ。

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宗太郎のこと 22

宗太郎のこと 22

あまりにも慣れ親しんでしまった趣味だった。十日に一度のペースでやることで、それ以上になることもなく、減ることもなかった。明日はその日だと思って、いざその日が来ても、やらずに済むような気分のときもあった。それでもした。何がかたづいているのかはわからなかったが、必要なのだった。
たいていのことは頼子に話す。これは頼子にも話せない。和之も知らない。

横山さんに電話番号を教えた日は、まさにその日だった。

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宗太郎のこと 21

宗太郎のこと 21

いつもいつも、このときだけが楽しいかもしれないと思う時間。それが私の、手元にあった。どうにでもできる、暖かい球体だ。恋人がいるというのはただ気持ちの良い摩擦だった。動物的に他の男をほしがっているのではなかった。それならばつまらない。頭の中の休んでいた部分が、また動きだした。脳がほしがっていた、あたらしいゲーム。

私はその後の中野さんの入浴介助を、おかしな浮遊感をもって、しかし上機嫌に、しかしそつ

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宗太郎のこと 20

宗太郎のこと 20

中野さんの入浴準備のため、浴室へ行った。昨日の夜勤がシャワーを浴びたのか、浴室の床が濡れていた。窓が5センチほど開いている。外は曇りだが、ぬるい風が入ってきていた。私は靴下を脱ぎ、浴室の床につま先立ちで乗り、窓を閉めた。換気扇のたてる、モーターの音がした。

午前から入浴介助が組み込まれている場合は、半袖とハーフパンツでシフトに入る。その上にエプロンをする。入居者にたいしても、家族にたいしても、失

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宗太郎のこと 19

宗太郎のこと 19

洗濯室では乾燥機が二つ、稼働していた。三つある洗濯機は、一つは洗濯中、あとの二つは、蓋が閉まっており、ランプはすべて消えていた。
乾燥機のタイマーを見ると、残り二十分と十三分。十三分の方の、ストップボタンを押した。押してもすぐに止まらずに、徐々に回転のスピードを落としていくのが鬱陶しかった。ドアロックのサインが消えたので、開けると、中から乾いた温かい空気が出てきた。シーツとタオルと、三上さんの見覚

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宗太郎のこと 18

宗太郎のこと 18

日曜日は、面会に訪れる人が多かった。誰かの孫だろうか、小学校低学年くらいの子供が二人、廊下を走っては、急に止まり、おかしくて仕方ないというように、じゃれていた。
「危ないよ。残念ながら、ここは遊ぶところじゃない」
頼子が血圧計を後ろに隠すように持ち、二人の側に立った。血圧計の外側は、金属製で硬いから、予想外に動く子どもにぶつかったら、危ないと思ったのだと、私はわかって、頼子が好きになった。
子ども

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宗太郎のこと 17

宗太郎のこと 17

勤務中にもかかわらず、私と和之はよく無駄話をしたため、店長に叱られることが多かった。私は人に叱られるのが苦手だった。叱られた内容を忘れるくらいに、ただ委縮した。和之はなんでもなさそうに、「すんません」と言って頭を下げるだけだった。
「なんで平気なの?」
私は和之にたずねた。
「しばらく静かにしておけばいいし、仕事中に話すのは、たしかに良くないからね」
和之はそう言って、ピザの箱を折った。箱を折る仕

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宗太郎のこと 16

宗太郎のこと 16

和之と私の休日がそろった日は、二人で昼頃まで寝ていた。お昼を外へ食べに行き、買い物をして帰ってくる。

和之と知り合ったのは学生のときで、二人で宅配ピザ店でアルバイトをしていたのだった。私はアルバイトに対して、億劫な気持ちを持っていた。大学の学費は親が出していたし、アパートの家賃と光熱費、プラス、少しの生活費を、私の口座に振り込んでもらっていたため、お金を使わなければ、生きていかれた。
それでもア

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宗太郎のこと 15

宗太郎のこと 15

私は仮眠をとらない。仮眠は深夜の二時から四時までとされているが、わたしはその時間に眠ったことがない。エビ君も、寝たことがないと言っていた。少しうとうとするくらいで、コールで起こされる、と。宮城さんは、一時間くらい寝ると言っていた。
ここに就職したばかりのときに、私の指導をしてくれた女の先輩がいた。私よりも、五つくらい年上の人で、入居者さんと話すときだけ、抑えたラッパの音のような声で、抑揚のない話し

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宗太郎のこと 14

宗太郎のこと 14

「中野さんのお風呂って、うまくできる?」
「中野さん?」
働いている頼子は、いつも忙しそうだ。忙しくある、ということも一つの仕事であるように、常に眉間にしわをよせ、機敏な動物のように、何かをメモしてはため息をつき、思い出したように、どこかへ行ってしまう。洗濯室で、会えたのだった。実際、看護師の業務は多かった。
「そう、今日も、私、中野さんを湯船に入れるとき、ちょっとヒヤっとしちゃった」
「中野さん

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