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町子
2022年9月10日 11:22
私だけが酔っているのは心外だった。身体がへんだった。久しぶりに、車の助手席に乗った。いや、違う。この間、老人ホームで行ったレクのとき、近くの公園まで行っただけだが、その際に、私は頼子の運転する車の、助手席に乗ったっけ。横山さんは、白の車に乗っていた。ホームに来るときには、銀の軽ワゴン車に乗っている。「けっこう飲んだわけ?」「ううん、ぜんぜん」「おれ、あんま酒飲まないんだよね」「きらいなの
2022年9月7日 19:10
「私、いま、へんな遊びをしてる」私が遅番で、頼子は日勤で、頼子が次の日休みならば、高確率で飲みに行く。私は次の日、夜勤の入りだった。「へんな遊び?」「そう」「どんな?」尋ねてはくれたが、たいして興味がなさそうだった。「私、横山さんと、何かするかも」箸の入っていた袋を、細かくじゃばらに折っていく。「は?」頼子がこちらを向いてくれて、うれしかった。「横山さんと、何かするかもってとき
2022年9月6日 16:41
銀ダラの煮つけは、煮汁ごとレトルトパウチになって、冷凍されて届く。解凍せずに、凍ったまま袋ごとお湯に入れて溶かし、皿に出す。湯せんは橋本さんも構えずに取り組める調理法だった。「今日の、簡単でよかった」橋本さんは、パントリーの中にある折りたたみの椅子に腰かけていた。調理パートには、食事はでない。「おいしいよ。食べる?」私は、パントリーの中にある、小さなテーブルの上にお膳を置き、立って食べてい
2022年9月4日 09:49
舌の先で歯の表面に触れると、ざらざらしている。胃酸を戻すのだから、歯の表面は溶けるのかもしれない。終わったあと、すぐに歯を磨くが、弱ったエナメル質に、研磨剤がさらにダメージをくわえているだけかもしれない。舌の表面も荒れているのがよくわかる。口の中の粘膜も。とくに、天井の部分が、ひりひりと痛い。遠くで、洗濯を終えたブザーの音がする。身体が重くて、起きあがる気になれない。私は胃袋の中にどのくらい
2022年8月31日 15:01
今なら電話してくれて構わないと思いながら、私は台所でシンクに向かい、歯をみがいていた。床に散らばっていたものはかたづけ終えていた。容器に残った汁は流しに捨て、排水口のネットを交換した。ゴミは、ゴミ袋に入れた。その後に、雑巾もかけた。なにもなかったように、部屋はきれいになっていた。右手の甲には、赤くくぼんだあとがついていた。私は、口に手を突っ込まないと戻せない。歯のあたる部分が、赤くへこんだ。
2022年8月30日 14:20
あまりにも慣れ親しんでしまった趣味だった。十日に一度のペースでやることで、それ以上になることもなく、減ることもなかった。明日はその日だと思って、いざその日が来ても、やらずに済むような気分のときもあった。それでもした。何がかたづいているのかはわからなかったが、必要なのだった。たいていのことは頼子に話す。これは頼子にも話せない。和之も知らない。横山さんに電話番号を教えた日は、まさにその日だった。
2022年8月29日 13:56
いつもいつも、このときだけが楽しいかもしれないと思う時間。それが私の、手元にあった。どうにでもできる、暖かい球体だ。恋人がいるというのはただ気持ちの良い摩擦だった。動物的に他の男をほしがっているのではなかった。それならばつまらない。頭の中の休んでいた部分が、また動きだした。脳がほしがっていた、あたらしいゲーム。私はその後の中野さんの入浴介助を、おかしな浮遊感をもって、しかし上機嫌に、しかしそつ
2022年8月26日 11:08
中野さんの入浴準備のため、浴室へ行った。昨日の夜勤がシャワーを浴びたのか、浴室の床が濡れていた。窓が5センチほど開いている。外は曇りだが、ぬるい風が入ってきていた。私は靴下を脱ぎ、浴室の床につま先立ちで乗り、窓を閉めた。換気扇のたてる、モーターの音がした。午前から入浴介助が組み込まれている場合は、半袖とハーフパンツでシフトに入る。その上にエプロンをする。入居者にたいしても、家族にたいしても、失
2022年8月24日 14:38
洗濯室では乾燥機が二つ、稼働していた。三つある洗濯機は、一つは洗濯中、あとの二つは、蓋が閉まっており、ランプはすべて消えていた。乾燥機のタイマーを見ると、残り二十分と十三分。十三分の方の、ストップボタンを押した。押してもすぐに止まらずに、徐々に回転のスピードを落としていくのが鬱陶しかった。ドアロックのサインが消えたので、開けると、中から乾いた温かい空気が出てきた。シーツとタオルと、三上さんの見覚
2022年8月20日 09:06
日曜日は、面会に訪れる人が多かった。誰かの孫だろうか、小学校低学年くらいの子供が二人、廊下を走っては、急に止まり、おかしくて仕方ないというように、じゃれていた。「危ないよ。残念ながら、ここは遊ぶところじゃない」頼子が血圧計を後ろに隠すように持ち、二人の側に立った。血圧計の外側は、金属製で硬いから、予想外に動く子どもにぶつかったら、危ないと思ったのだと、私はわかって、頼子が好きになった。子ども
2022年8月12日 13:47
勤務中にもかかわらず、私と和之はよく無駄話をしたため、店長に叱られることが多かった。私は人に叱られるのが苦手だった。叱られた内容を忘れるくらいに、ただ委縮した。和之はなんでもなさそうに、「すんません」と言って頭を下げるだけだった。「なんで平気なの?」私は和之にたずねた。「しばらく静かにしておけばいいし、仕事中に話すのは、たしかに良くないからね」和之はそう言って、ピザの箱を折った。箱を折る仕
2022年8月10日 09:48
和之と私の休日がそろった日は、二人で昼頃まで寝ていた。お昼を外へ食べに行き、買い物をして帰ってくる。和之と知り合ったのは学生のときで、二人で宅配ピザ店でアルバイトをしていたのだった。私はアルバイトに対して、億劫な気持ちを持っていた。大学の学費は親が出していたし、アパートの家賃と光熱費、プラス、少しの生活費を、私の口座に振り込んでもらっていたため、お金を使わなければ、生きていかれた。それでもア
2022年7月30日 10:44
私は仮眠をとらない。仮眠は深夜の二時から四時までとされているが、わたしはその時間に眠ったことがない。エビ君も、寝たことがないと言っていた。少しうとうとするくらいで、コールで起こされる、と。宮城さんは、一時間くらい寝ると言っていた。ここに就職したばかりのときに、私の指導をしてくれた女の先輩がいた。私よりも、五つくらい年上の人で、入居者さんと話すときだけ、抑えたラッパの音のような声で、抑揚のない話し
2022年7月29日 09:26
「中野さんのお風呂って、うまくできる?」「中野さん?」働いている頼子は、いつも忙しそうだ。忙しくある、ということも一つの仕事であるように、常に眉間にしわをよせ、機敏な動物のように、何かをメモしてはため息をつき、思い出したように、どこかへ行ってしまう。洗濯室で、会えたのだった。実際、看護師の業務は多かった。「そう、今日も、私、中野さんを湯船に入れるとき、ちょっとヒヤっとしちゃった」「中野さん