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「BTSの誰がどう言ったかじゃなくて自分が何をどう影響されたのか自分の言葉で言って」

こんにちは!パクチーです。

今回のタイトルは、パクチーが以前旦那くんに言われた言葉です。なかなかな夫婦の会話ですね。パクチーは基本あんまりBTSのことを旦那くんと話しません。でも何か感動したエピソードについて話をして、それが何度か続いて、多分彼がちょっとしつこく思ったんだと思います。

彼にこう言われてパクチーは、ぱかーん!か、かちーん!か、何かが外れて、そうそうそっか、それであったよ、何かがはっきりとした瞬間。

「今回の人生は今回限りなんだから、いつか死んでしまうのだから、好きな服を着て、好きな時間を過ごそう、嫌々着ている服は処分して、周囲に違和感を与えないように馴染むように選んでいた服装をやめよう、自分らしく自分の着たい服を来ていたら、ママ同士の集まりでもう何かを言う必要はないじゃないか。」

パクチーがBTSのメンバーの発言に影響されて生まれた考えは、つまりこのようなものだったのでした。

これが約2年前。

ママ同士…。

パクチーは現在進行形で、このママ友問題に頭を悩ませています、now。

アートの役割とアーティストという生き方

ところでアーティストとはどういう人たちか。パクチーにはパクチーなりの考えがあります。もちろん人によって考えは違うと思います。

パクチーの感じるアーティストとは、「魂の不自由さに敏感な人たち」です。アートの人たちは、魂の自由さを阻害されては生きていけないのだ、とパクチーは感じています。それはもうアートにならないのだと。そして自由な魂がアート活動ができることと、「生存」そのものが密接にリンクしているのがアートの人たちだと感じています。

何者かが人々に魂の自由さを抑圧しようとする時、炭鉱のカナリアのようにその抑圧するものの存在の匂いを真っ先に察知するのがアートの人たちです。魂の自由さを抑圧をしようとする存在に対して、また人々が知らず知らずに抑圧している魂の自由さに対して、アートがアピールすることは非常に多くあります。

「もっと無難に要領よくやればいいのに」「そこは「はい」って言っておけばいいのに」。そういう処世が可能な人がいます。そして不可能な人たちがいます。それが魂の自由さに抵触するなら、それは死に近しいと感じる、生きるために選択できないのです。

「アーティスト」とは「選択可能な職業」ではなく、他にも選ぶ余地のある人が数ある中から選ぶ生き方ではなく、「アーティスト」という選択肢の他に選ぶ余地がない、それが彼らだという感じがします。

「Love yourself」で生きる影響

「Love yourself」を大切にしていると、自分が思っているアートの人たちに近くなっていく…。どんどんなけなしの処世力が減っていく。自分のトーンから外れているものを外していくと、どんどん嘘がつけなくなってくる。その場だけ、雰囲気だけ周囲に同調することが、どんどん下手になってくる。自分に嘘をついて周囲に合わせた時の違和感が、どんどんクイックに不調や不快感として現れる。「はい、はい」と「はいだけ人形(とパクチーが命名した相手の発言を肯定しかしない状態)」でいた方がこの場は絶対にいい!と思っているのに、頭では自分がそれがやれると思っているのに、その耐久時間が30分、15分、5分、とどんどん短くなっていく。

あれ、わい、アーティストだったんかな…。アーティストだったんや…。むしろアーティスト?(←錯乱)

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<小憩>

それは作品を作って世に問うということではないかもしれません。が、魂の自由さを大切にして、自分の生活空間や人間関係や人生をクリエイトする創造者という意味で、「アーティスト」と呼べなくもないかもしれない。「合わないような気がする」と思いながらも周囲に置いておいたものたちとの乖離が、どんどん大きくなっていく。それらに落ち度があるわけでも、嫌いになったわけでもないのに、そうなっていくことに自分が戸惑う。戸惑っています、now。

ママ友が「Love yourself」で太刀打ちできない理由

この一文をタイトルにすると必要以上に重苦しいな!「Love yourself」は大切だ。「Love yourself」で生きよう。

しかしこの「Love yourself」とママ友問題は、非常にバッティングするのね!

少なくともパクチーが住んでいる島のママ友の中では浮きます。なぜか。パクチーはこれはなぜなんだろうと思った時、一つ可能性として、

「彼女たちが every day, anytime 抑圧されている」

というのがあり得るんじゃないだろうかと思った。

「目立ってはいけない」と言われて母になり、子の年齢によっては着たい服を我慢し、したいアクセサリーを我慢し、食べたいものを家族に合わせ、集落の目、嫁として、妻として、母として適切な振る舞いを求められ、一日のタイムスケジュールは全て家族の都合で決まる、自分の全ての欲求を脇に置いて張り詰めている、働き通しの彼女たちに、

「自分軸で生きよう!Let's love yourself!」

などという女が現れたら、まず鬱陶しいでしょう。理解に苦しむでしょう。恐ろしささえ、殺意さえ感じるかもしれません。

しかし抑圧されて生きるママたちに何か落ち度がありますか?と言ったら、それを言えるものは存在しない、とパクチーは思う。

偉大なGreat motherたち

パクチーが島に住んでから、集落の女性たちと一緒に地域のイベントの準備をする当番に当たったことがありました。パクチー以外の3人の女性は70代から80代。目上の女性を「姉さん(「姐さん」なんだろう正しく書くなら)」と呼び、ここで「オンニ…!!」とパクチーが心の中で韓国カルチャーとの類似を叫んだことは本編とは関係がない。

この時の女性たちの会話を要約すると、本当に、ほんとーーーーーに!!!抑圧されて生きてきた、若い(そこでは)わたしと比べ物にならないくらい抑圧されて生きていた女性たちだった。そして忘れていない。きっと50年前くらいの、魂を抑圧したたった一言を、決して忘れていない。パクチーは聞きながら、口が裂けても「わたしは…男女は平等だと教わってきました…」などとは言えないと思ったが、女性に献身的で滅私な生き方を当たり前に求めていたのは、別にむかしむかしのお話ではないのである。今もうっすらと生きている。

けれども、この島の女性たちは本当にすごい。パクチーは本当にすごいと思う。強く丈夫な体で、なんでもこなし、男性と遜色ない筋力と握力を持ち、畑作業もするし、まめに働き、器用で、薪のお風呂も炊くし、手間のかかる料理をきちんと作り、とにかく一日の作業量と体力と作業効率が半端ない。炎天下で30分くらいでくらっくらする、一日のほとんどをだらっと過ごすパクチーの、30人分(/1日)くらいの働きをしているスーパーマザーたちなんである。

決してこの女性たちが否定されることはあってはならない。この女性たちが生きた生き方が、否定されることがあってはならない。

と、パクチーが女性たちの話に何を感じようとも、パクチーの頭の中ではそういう警鐘がガンガン鳴るのである。

「おそろい」とカナリアのお葬式

(しかし今回のタイトル付けは冴えてるなあ!)

パクチーは否定したくない。その系譜を受け継ぐ、今現在パクチーのお子と同級生のママたちの価値観も否定したくない。しかし同級生のママに、

「おそろいにしょうや!」

と言われた時、さりげなく違うものを購入したパクチー。それを見つけて「おそろにしようや言うたやん!今なら返品できるけん、してき!」の圧に負けて再購入したパクチー。それはお子の使うものであったので、トータルに考えてその方がいいと判断したのだけど、お子の「これが欲しかった」を無視しておそろいにしたこと、魂の自由さをわたしが殺したこと、その後悔、しかしこれは呑み込まなければならない、波風を立てないという名分の前に死なせてしまったわたしのカナリアとお子のカナリアと、そのお葬式…。わたしはそれが象徴する自分の魂の部分的な死を受け入れ、葬送行進曲をBGMに次へ進まなくては…。

これ、この先もずっと繰り返されるの?

実際「おそろいにしようや」は一度ではなかったので、その度にぐわっとパクチーは魂が絞め殺されるような、「キー!キー!」というカナリアの断末魔が、目の前がすーっとホワイトアウトするような、膝が抜けるような感覚を味わう。

冒頭の決意から2年経ったパクチー。現在の風貌はこうである。

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島の美容院でこの金髪ツーブロックのパク・ソジュンさんの写真を見せて、「これこれ、これとおんなじにして下さい!」と言って同じにしてもらって、そろそろ1年経つ。

はあ?おそろいだあ?できるもんならそっちがしろやあ!

…違う違う、そうじゃない。

…いや、全然内心そう思ってるんだけど、そう思ってることを口にするのがわたしが求めているゴールじゃない。あるいは我慢して我慢してある日決壊して、「おそろいだあ?いい大人がいるもんといらんもん、自分の頭で考えろやあ!」とぶちまけ、他意のない彼女たちを驚かせるのは最悪の結末である。

彼女たちが楽しそうに(実際にみんなが楽しいのかは不明)「おそろい」にしてきゃっきゃしているのを、それで何か安心したり、絆を感じたりすることを、まったく自由にそうしてくれていいと思ってるのに。

そこに「わたくしは、こちらにします!」と、自分の考えを自分の言葉で発する人がいると、そこにすっくと「Love yourselfね!」と身体が発している人間が立っていると、それだけで彼女たちの佇まいと対極してしまうのである。否定されているように感じさせてしまうのである。島の女性の「Great mother spirit」に、望まざると相反したようになってしまうのである。

そして一筋の言葉に出会った

そんなある日。パクチーは未来につながる可能性があると思われたある言葉に出会った。パクチーが度々心の拠り所にしているバシャールさんという宇宙人の人(?)の言葉が日々紹介されているブログがあり、以前は度々、最近は毎日見ている。「何か、言葉を…答えを…」と思ってこのブログを見ると、ぴしゃーーーーー!!!と答えそのものが書かれていることがしばしばある。

では、『ありのままの自分』になったら人類みんが貴方を好きになってくれるのかというと、そういうわけではありません。彼らの意見は彼らのものであって、貴方がコントロールする事はできませんし、そもそも、『ありのままの自分』から外れた人が誰かを愛す事はできません。なぜならば、自分を愛して認めていないからです。

『本物の自由』より

この言葉をよく噛んで咀嚼すると、味の向こう側に、わたしの矛盾が存在しているのを見た。「彼女たちの感受性を受け入れていないのに、わたしが彼女たちを否定していると思われたくない」。そして、すとんと腑に落ちたものがあった。

あ、そっか。
わたしが嘘をついて彼女たちに合わせている限り、わたしが本当に心から彼女たちを好きになることはないんだ。

例えるなら、「100均のものをみんなでおそろいにしよう」と言われたとして、(いらんもん買わすなや)と思っても、丸く収まるなら100円だったらケチらず払えばいいじゃないか、という考え方がある。しかし、その場が波風立たずに通り過ぎても、わたしが彼女たちのことを心から好きになるかもしれない機会を、自分が遠ざけていることになる。そうであることにわたしは自覚的になる必要がある。

だから、いろんな選択肢やいろんな可能性があって、対立や波風が立たないことを優先して、あっちでこっちで少しずつ調整しながら、みんなが手を取り合って仲良く過ごすゴールがある、のではない。最初から調和へのルートは一本しかない。どのコミュニティの中にあっても、「自分で自分のことを好きだと思える状態で、常にいる」。

もし他のママたちが、自分を脇に置いて『ありのままの自分』から外れて生きていたら、わたしがどれだけ上手く彼女たちに合わせたとしても、あるいは自分自身を生きていたとしても、わたしが彼女たちに愛されることはない。

逆に、わたしがどれだけ彼女たちの生き方を尊重したいと思っても、わたしが『ありのままの自分』から外れて、同調と尊重を"演じる"のなら、それが自分なりの思いやりだとしても、気遣いだとしても、保身だったら余計に、本心からわたしが彼女たちの生き方を肯定し尊重する日はやってこないということだ。

一筋の光、その2

しかしじゃあ、具体的にどういう態度が考えられるか。わたしは感受性が違うと思っている彼女たちとのコミュニケーションで、どんな振る舞いの選択肢があるだろうか。

「おそろい…。その必然性を説明してもらえます?」

みたいな、外資系ワーキングウーマンみたいな、合理的にすぱっと両断するパワーワードで彼女たちをしょんぼりさせたら、そこにいる自分を客観視して、その状態の自分を「自分で自分のことを好きだ」とは思わないと思う。パクチーは若い頃、随分それをやってきた。パクチーはその次の展開に行きたいのだ。

注釈しておくと、彼女たちは普通のいい人たちである。真面目で積極的で、中にはラスボス的な、「ラストマザー」と呼びたいようなパワフルな人もいるが、子供が大好きで情熱がある人だ。意地悪するような人は一人もいない。パクチーは恵まれていて、起きる問題は外側にはない、いつだってわたしの内面の問題だ、ありがたいことに。

パクチーはRun BTS! - EP.124の時のナムさん(RM)が印象に残っていて、この時の彼の感じに可能性があるのじゃないか…!と思っているのである。

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『Run BTS!』の内容を会議するテーマの回で、32分8秒あたりからナムさんがいくつかのスポーツに「いいね!」と言う。

頭のいい彼が、あれもこれも「いい」と言って、選択肢を絞っていく方向じゃなく広げていく方向で会議を進めていくのが、パクチーは「うーん、なるほどな…」と思ってしまった。「それいいね!」と全面肯定されたら、意見を出した人は気分がいいよね。

しかし、実際に数えると、彼が他の人が提案した案に「いい!」と全面肯定したのは、ドッジボール、アイスホッケー、スケートの3種類だった。彼の「いいね!」と言う言い方が清々しくポジティブなので、何でもかんでもに肯定している印象を持っていたが、実際には反論したり意見したり提案もしていたのである。でもパクチーには彼が否定的だった印象はない。

パクチーは試しに、旦那くんでやってみた。我が家は自営業である。「次はこんな展開をしようか…」と考えるのは、主に旦那くんだ。彼が「次はこういうのをやってみようと思うんだけど」と言うことに、とりあえず「いいね!」と言ってみた。「これもしようと思うんだけど」「いいと思うよ!」「これはこうしようかな」「すごくいいね!」「やっぱりこれはやめようかな」「…いいね!」「今の間は何」「いや、今何でもかんでも肯定してみようと思って。でもまだ慣れてないから一瞬考えちゃうの」。それに対して彼のリアクションは、

「それ、すごくいいと思う」

だった。気分が良かったらしい。彼の場合、わたしが何を言っても結局彼は自分で決めるので、わたしの返答は決定に影響しないとわたしは知っているので、何も考えずに「いいね」と言えたのだが。

肯定の力の芽に、水と光を注ぐ

パクチーが「おそろい」に激しい拒絶を感じてしまうことは、もうそれはそれとして仕方のないことなので、そこにはあまりフォーカスせず、せめて持っている「頑張っている素晴らしい女性たち、幸あれ」というポジティビティの種を、いつもちゃんと忘れずに目の前に置いておくようにしよう。光が当たるように、淀まないように、新鮮な水を用意して、その種にも、自分にもじゃぶじゃぶと注ごう。そんなフレッシュなイメージが保てれば、わたしはその状態でいる自分を、自分で好きだと思えるような気がする。あとはおでこの内側にナムさんの映像を貼っておこう。目を閉じたら思い出せるように。

これが、パクチーがママ友問題を通してたどり着いた、最近のビジョンです。果たして現実に対して功がありますかどうか。

それではまたね!





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