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女と男ってどうして分かれてるんだろう:雑談編②

うちは夫婦でお店をやっていて、休業日にわたしがお店のゴミをクリーンセンターに持っていくんだけど。

XGちゃんのドキュメンタリーで見た、チークが目の下にぶわ〜っと入ってるのが可愛くて、アイシャドウもぱきっとした明るい色で、そんな雰囲気で、がつっと濃いメイクで出かけたのだった。そんな様相でわたしがお出ましした時の旦那くんの初見の反応が、最高に否定的で、わたしは一気に活力を失う。

旦那くん限定で、表情筋がまるで動かず、無機質な反応しか出来なくなる。

受動的攻撃とは。

相手を困らせるような行動や態度を取ることで、反抗の意を示すことです。表面上は無害に見せかけながら、消極的かつ否定的な態度や行動を取ることで、遠回しに相手を攻撃することです。その遠回しな態度の裏には、「言わなくても察しろよ」という心理が隠れています。怒りや不平不満などの否定的な感情を素直に表現出来ない人が、直接的ではなく、間接的に感情を表現している状態です。

この動画は「一緒にいるとなんか疲れる」「話をしてるととげんなりしてくる」「このような相手があなたのまわりにいませんか?」で始まるのだが、なんだ、まったく…「このような相手」とは、完全にオレのことじゃないか。

わたしは自分の表情筋が、旦那くんに限定してその日動かなくなったのを、「意識的に無表情にしてるんじゃない。わたしのせいじゃない。勝手になってる。しょうがない。」と思っていた。活動エネルギーが「すとーん!」と下がる感じ。

だけど、「これは攻撃なのか!」ということが分かったら、そこで初めてわたしは、自分が「超」怒ってたことに気がついた。本当に初めて気がついた。これは、意識と無意識の中間くらいのところで自分が、積極的に、エネルギーを、力で、「無」の方へ下げてるのだ。

受動的攻撃をする人が、どうしてそういう行動が癖付いているのか、その要因のひとつに幼少期の家庭環境があることをこの動画では解説しており、わたしは見ながらぽろぽろ泣いていた。

わたしの育った環境で、幼少期わたしが受けていた躾は特別厳しかったと思わないが、「これがしたい」「これを食べたい」と言うと、「これをやってからね」「これ食べてからね」「宿題が終わったらね」と、別のやりたくないタスクを常時与えられてきた。それがずっと繰り返されると、「わたしのしたいことには、したくないことが必ず付随してくる」という刷り込みが出来上がる。やがて「したいこと」があっても、「したい」と感じないようになってくる。わくわくする気持ちが心の中に起こったところで消していく。それが何年も続くと、命のエネルギーはどんどん減じて、周囲に対して興味を感じなくなっていく。

この、「したい!」というそわそわした気持ちが、ぴしゃっと閉じられて外に出せず、体の中で鬱屈して毒素になるのを、わたしは散々繰り返してきてもはや中毒のようになっているので、もう、少しだけの毒素でも体が敏感に反応して、「あっ」という間に無気力になってしまうのだった。そしてこの「制止」は、他人からよりも、身内からの方がずっときつい。

「好ましくない」「良くない」「止めた方がいい」「だめ」と言われても、「ウルセ」「んなもんしらね^▽^」で、やってしまえばいいんですよ。無気力になるくらいなら。わたしが「他者の制止」を聞き過ぎてしまうのは何故だろう。世の中、抑制の全然効かない人もいる。自分の欲望に素直な人。欲求に忠実な人。ちなみにわたしの旦那くんと娘ちゃんはそう。

わたしはMBTIでいうところの「INFP」だと自分で思っているのだが、

こちらの動画で色々感じることがあった。あんまりポジティブなムードの動画じゃないんだが(笑)、「INFP」として自分で理解している部分と、この動画の先の話がしたくて共有しました。

「INFP」は「求められていることが分かってしまう」と説明されているが、何をして欲しいのか分かってしまう上に、わたしはホロスコープでいうアセンダントが乙女座になっていて、「求められたことに応える」というのがデフォルトの初期設定になってるんですよ。

「求められていることを察して、それに応える」。それは自分に可能であると思って、それは誠実だとも思っている。ポジティビティだと思っている。あと、結構理屈じゃなく、反射でそうなっている。

これ、アセンダントの乙女座が「INFP」にどのくらい影響しているのだろうか、分からないが…ふたつが掛け算すると、その人は「新しく職場に来た、期待の新人」のようになる。初日から、教えたことは一通りでき、理解力も早く、アウトプットの精度も高い。出来ないことがない。なんだ、これは、すごい人が来たな!

わたしの成長曲線は上記のようである。実はパフォーマンスのピークは初期で早々に上がりきって、もうここから極端に上がることがない(むしろ下がる)。だから、最初どんなに飲み込みが悪くても、芽が出なくても、実直に成果を積み上げられる人の方が、長い目で見ると信頼を勝ち得るんだよな〜〜。と、わたしは思っている。

この特性、職場で発揮されると、「ホープ」「天使」「伝説の新人」と言われる。これが男女間で発揮されると、「君こそ、ずっと求めていた理想の人だよ…!」と言われる。そして、人々が想像したようなすごい成長曲線が描かれないことを察してくると、また男女間で明らかになる不一致の部分が、今後も交わらないだろうことが理解されてくると、最初に期待があった分、「どうして君は僕の理想と違うんだ…」、「結局、普通」、であるとして、人々はわたくしに失望なさる。

…だからわたし、「INFP」は、自己評価に「他者からの評価を入れない」という努力がいる。出会った初期の評価は極端に高くなるんだけど、それは一時的なもので、極端な温度に反転するのを感じながら、どうしようも出来ないことに、繰り返し傷つくからだ。

わたしは、「分かっちゃう」×「応えちゃう」×「出来ちゃう」の組み合わせの発動を、これまでの人生の学習の結果、ほんと〜〜に、限定するように努力してきた。自分にとって何のメリットもない時に発揮すると、ほんと〜〜〜〜に痛い目を見るからだ。そうして、人から期待されることも減り、求められることも減り、関心を持たれることも減り、ほんと〜〜〜〜に出来ることが、極端に少なくなった。うむ、良い!これで良いのだ!(涙)。

だけど、他人には随分、発動を限定できるようになったこの機能が、身内だとうまくいかない。距離が近い分、相手の望んでいることが、分かりたい以上に伝わってしまうし、相手の抑止が、効きすぎるくらいに効いてしまう。ものすご〜〜〜〜く不機嫌になりながら、「自分はこれをしたい」「これをしたくない」という自発的な欲求を、反射的に下層の引き出しにに仕舞ってしまって、リクエストに応えようとする。そうながらも、わたしは、自分の新しい「チャレンジ」を、「希望」を、「夢」を、閉じ込めさせたことに、むちゃくちゃバカでかい憤りを感じているのである。

このわたしの個人的な話を、普遍的な話に持ってくつもりはないのだが、「女性性」について考えようとすると、「分かっちゃう」×「応えちゃう」×「出来ちゃう」の組み合わせと、「抑圧」は、長い歴史の中でセットになってきたのではないか?という気がした。シリーズ通して書いている「虚無」と、「抑圧」は相性が悪い。「抑圧」は、「虚無」に対峙するエネルギーを阻害する。ひいては生命力を減じさせる。

近年、「あざとさ」が、大分ポジティブな意味に転換されてきたような気がするのだが、いかがであろう?わたしは、この「あざとさ」、ちらちらっと関連する動画を見ているうちに、「母親」が「娘」に、代々教えてきた抑圧を、今、ここで外そうとしているんだな…という印象を持った。女性に対する抑圧の歴史は古いよね。古代はそうでもなかったのか分からないけど、閉じ込めたところから解放しようとしたのが、近代の歴史だ。

ここでちょっと考えてみる。抑圧されたものとは、一体何だ?

「抑圧」されたのは…

「女性」じゃなくて…

「女性性」じゃなくて…

女性が持っていた「男性性」じゃないのか?

…と、こう書いてみると、「そんなの当前じゃん」という感じのことなんですけど。

先日、Netflixで実写版ワンピース見たんですよ。そして、その作品について、色々感想を書くことはできるんだけど、最もわたしが重く、深く感じたことは、「これだけ人種が混ざって等価に扱われている画面を、初めて見たかもしれない…」ということだった。作中に小さな村が出てくるんだけど、その村の人種はアジア系、白人系、黒人系と様々で、同じ一つの架空の文化形態の中にいる。しかも、ファンタジーなんだから当然なんだけど、そこにいる人々が、誰も、そのことについて疑問を持っていない…!!!

こちら主人公達である。左からアメリカ、ヨーロッパ、メキシコ、日本、アメリカ、

わたし、この写真見ると、泣きそうになるんだよ…。

誰もがそれぞれ、それぞれのようであるからこそ大切だということが良く分かる。地球の歴史で見たら、彼ら5人はそれぞれ違う文化形態を持っていて、違う食文化で、違う価値観で、違うカテゴリの身体の造形を持っている。英語の発音も微妙に違う。だけど、作中、誰ひとりそのことを気にしていない。つまり人種のバリアが完全にない状態が、画面の中に成立しているって、おい…。

この「状態」を、一人の日本人のイマジネーションが実現させたということもすごい。違う人種間で広く、強力に愛され、共通するポジティビティを、「ONE PIECE」という作品が内包していた、ということもすごい。地球上に存在する歴史的な抑圧が存在していない。かつ、この作品は「女性」が「女性」であることを理由に抑圧されている場面や、「女性」が歴史的にかけられてきた「抑圧」も登場しない。主人公たちは青年期の男女だが、自身の「女性性」「男性性」をすっかり統合した状態で登場する。

改めて、「女性性」とは何であり、「男性性」とは何であるか。

わたしの今の考えはこうだ。

「女性性」
=内側から自発的に発せられるエネルギー。

「男性性」
=目的に対して、変化を与えようとするエネルギー。

例えば、人が、他の人の質の高い「女性性」を感受した場合、その場合感じるのは「安らぎ」「満たされた感じ」。

つまり「現状を肯定する」。

一方、「男性性」を他者に向けると。「男性性」は、向けられた相手に、「試練」を与える。その「試練」とは、

「自分が既に持っているもの」の、「神性を高める」…。


…えっ!?急に抽象性が上がっちゃって、
訳わかんないよパクチーさん!!


…つづく!!!


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