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食べること、堰き止めない心

旦那くんが「シン・エヴァンゲリオンがAmazonプライムで見れる」と言うので、まさか!こんなに早くに!!

心の準備の整わないまま、自宅のスクリーンをがらがら下ろして、視聴。

…素晴らしかった。ええ、素晴らしかった。何を隠そう、パクチーは初めてのTVオンエアを、第2話からリアルタイムで、熱中して観ていたのです。クラスメイトとの間で「なんだかすごいアニメがある」と話題になり、フィルムブックも揃えた当時のパクチーは14歳(何年前だ…)、主人公シンジくんと同い年であった。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』は、積年の想いに打つピリオドとして申し分なく、思い残すことは何もない。

日本には庵野さんがいるじゃないか…。

この映画の表現の範囲はイコール庵野さんの「振れ幅」だったんだな。

前作の後大変な鬱を患ったそうだが、彼が味わったどん底から、解放される地点、その全ての経過点にいる人たちがこの映画の対象になれるって、なんてすごいことだろう。宇多田ヒカル女史の歌も良かった(彼女も、わたし、同い年なんよね)。歌詞の世界観は違うのに、見事に映画と同じトーンのバイブレーションでコラボレートしているように見えた。

見終えたパクチーは、「男の子が父親に正対して乗り越えるのは大変なことなんだなあ」などということをぼんやり思っていた。個人的には少年漫画のナルトにも、わたしにはしつこくその印象がある。そして女性が自立しているなあ。特にアスカの、知の権化的な、知の到達レベルが素晴らしかったわ。

そんなこんなの中に、気になったことがある。

無垢さを育てるもの

作中、ほぼ崩壊した地球の限られた部分で、原始的な方法で暮らしを続ける「第三村」が登場する。

そこでの「食べるものを作るための労働」、つまり「水、土、自然に触れながら、他人と同じ体験を共有すること」が、綾波レイ(のクローン)の、無垢さを育てた、という点である。意図せず綾波レイ(のクローン)が育てた無垢さは、これまた意図せず、主人公シンジの凍ってしまった存在理由に、届く。

わたしは韓国ドラマ『愛の不時着』でも、これと同類のことを感じた。目の前の食事が、どんな過程を経て、誰の手間を経て自分の目の前にやってきたのか。それがイメージができること、その営みに自分が部分的にでも関わっていること、人と一緒に食べること、つまり物語の中の北朝鮮において、他に選択肢がない故に簡便さとは無縁のスローフード(「第三村」と同じく)が、いとも簡単に主人公の女性ユン・セリの、都会のセレブレティな暮らしの中で損なわれたものを癒した点である。

これらが意味することはなんだろう。

一体、人は何を食べて生きているんだ?

割烹のごはんが内包するもの

パクチーが以前やっていた舞台の仕事で、地方に行くことがあった。2週間ほどのホテル暮らしで、一番きつかったのは、最も想定していなかった、食事だった。

最初は20代前半の若者らしく、打ち合わせ兼夕食のファミレスで何を食べようか、今日はこれを食べようか、明日はこれにしようか、うきうきした気持ちで目移りしていたのだが、5日目くらいからか、ひたすら、

「ふつうの白ご飯とお味噌汁が食べたい…」

ということで頭がいっぱいだった。

見ればファミレスのメニューには白ごはんと豚汁のセットがあるじゃないか。でも注文してみたのだが、すっと入っていかない。違う…こうじゃない、家のご飯はこうじゃない…。

この時初めて割烹に行くサラリーマンの心に触れた気がした。ああ、お母さんの作る家のご飯が食べたいんだな。でもそれが叶わないから割烹で、お母さんが食事に込めたものを頂くのか。ここ日本の国では、日々の糧は家でとるもの、外食はあくまで補佐的な位置付け、あるいは楽しみのために、日本の外食は「食べた気にさせる」ことを第一優先に置くため、基本的に塩気が強い。

わたしが食べたかったのは、ただただふつうの白ごはんだった、炊飯添加剤のにおいのしない。ただのお汁、グルタミン酸の味のしない。

劇場で稽古が佳境の時、ごくごくたまーにスタッフの手作り賄いがケータリングに並ぶことがある。そういうものが与える「カロリー」以外のエネルギー、ほっとする、出来たての、知っている人の手による、目に見えないけれど血肉になる活力みたいなもの、は、ごくごくと飲み干され皆、言葉にはしない。それはまるで事務的作業みたいに消費されていくのだが、でもその鍋が空になるスピードと、空になった鍋が語るものがあって、それが存外重要なものだったのでは?と、そのことにわたしが気づくには、もう少し年齢を重ねなければならなかったのだが。

そんなことを思い出すのは、BTSがその動画で店屋物を食べている時である。韓国は外食産業がとっても進んでいるようなので、彼らが動画で言っていることから察するに、おそらく日本の外食のようには味付が濃くないのだろう。でも彼らが場合によってあんまり美味しくなさそうに食べているのを見た時に、彼らの体がここ数年、ほぼほぼ外食だけで出来ているのではと思うと、何か、胸にこみ上げてくる物がある。本気の韓国料理は尋常じゃなく手間がかかりそうだし、家庭でそれがなされているか?と考えれば、便利な調理済みの具材を使うのが一般家庭の普通なのかもしれない。だから外食と何がそれほど違うのか?と問われれば、違いはないのかもしれない。

それでも、ジンくんがVLIVEにて、パンPDの手料理が「それが本当に美味しかった」と言う時、いかに美味しかったかを教えてくれる彼の表現と、あまり美味しくなさそうに食べることのギャップに、去年から今年にかけて絶望を見た彼らが、それはもちろん物理的にハードルが多すぎるのを分かってはいるのだが、せめて、「出来立て」の、「手作り」の、そんな食事を日々食べられたらいいのに、と、祈るような気持ちで思ってしまう。

BTSの公演がキャンセルになって、再開の目処が立たなくなって、彼らは自分たちのアウトプットを、フィードバックして、またアウトプットして、それはまるで脳が出口なく延々思考し続けるのと同じメカニズムで、出力を入力につないでぐるぐる回し続けているような、ファン達の前でそのサイクルがクライシスを迎える瞬間、ゼロになる瞬間、カタルシスの瞬間が延々と来ないまま、モーターを回し続け、ガソリンを継ぎ続け、自分の意義を見失っていくという形の絶望を見た、彼らに。

パンPDの手料理にあって、店屋物にないもの。

「物」の持つ情報

もともとパクチーは、食に対して超いい加減だった。

向き合いたくない現実から、極力カロリーを消費せずにこの身を明日へ持ち運ぶ方法として、「寝てる:1日の食事/チョコパイ5個」とかやっていた。

今になってみるとこれは大変よろしくない。空腹の時に甘いものを食べると却って低血糖になります。こういう時は塩おにぎりを食べてください。思考は自暴自棄に、精神的にはダウナーに、肉体的にはふらふらして無気力になりますが、これはメンタルに問題があるのでも虚弱なのでもない。その日唯一口にする物なら余計に、緩やかに糖になるものを食べるべきなのである。

パクチーの食に対する意識が変わり始めたのは、後に結婚するパートナーと一緒に暮らし始めたことであった。

「作り手の魂が入っている」

ということが、調味料にせよ野菜にせよ、あるいはそれを乗せる器にせよ、彼の物を選ぶ基準だった。魂とは、すなわち愛と言ってもいいかもしれない。彼の幸せの原風景は幼少期から大人になるまでの家族とのご飯にあって、その時間が何より楽しみで幸福だったことが、彼の色々を育てていた。

魂の込められた物は、食べる度、使う度、少しずつの愛を自分に渡してくれる。一緒に暮らし始めて彼が大切にする時間を共に過ごすことで、わたしの中にも何かが少しずつ育まれているみたいだった。

わたしは、物は全く物だと思っていた。

でもそうじゃないかもしれない。

と、初めて思った。物にはそれぞれのキャリアによって纏っているエネルギーがあるのかもしれない。実家の自分の部屋に足の踏み場なく積まれたガラクタを見て、「もしかしたら自分は、雑で、荒んだ気配に、いつもすっぽりつつまれて暮らしていたのかもしれない」「その雑で荒んだ気配は、自分が物達に与えていた態度とそっくりそのまま同じものなのかもしれない」「それがこの世の見えない真の姿なのかもしれない」。と、これまたそれまで思ったことのないことを初めて思いついた。そしていつ何をしても片付かなかった自分の部屋の、そこにあった3分の2以上を捨てた。

彼と出会った後、一緒に暮らし始める前のことだ。

ふさわしい食事、ふさわしくない食事

舞台の仕事をしていた頃、昼食は当然のようにコンビニ食だった。

今、わたしは「コンビニ弁当にふさわしい人間なんていない」と、考える。

実家の部屋のガラクタを捨てた頃、気まぐれに買った本があった。タイトルの『毒出しごはん 心もカラダもキレイにリセット! !』(著:蓮村 誠)というポップさとは裏腹に、古代インドのアーユルヴェーダの理論を、ライトにレクチャーしてくれる良著であった。

この本で特にわたしが印象深く思ったのは、「くちびるの、同じカ所が繰り返し切れる時」。これは体がその場所を記憶してしまっているから、体の記憶をリセットしなくてはならないのだそうだが、それを解決する方法が、「旬の食材を使った、出来たての温かい食事を頂く」ということなのである。

「体の記憶…?」。アーユルヴェーダが成立する古代インドと、日本の気候、風土、体質が部分的には一致しない、適さないことは考えられると思ったが、唇の同じカ所がまた切れる、という経験は当時確かにあった。でもそんなこと以上に、この本に何度も出てくる「旬の食材を使った、出来たての温かい食事」、その万能っぷりはすさまじく、そう。そうなんね…。知っていた。深い、本能の奥の奥の方で、そのことはよーーーく知っていた。けれど、「カロリー」とか「栄養素」とか「ビタミン」とか「低GI」とか何か数値に置き換わるものを言い訳に、そのことは意識から、現実の範囲から遠く見えないところへ、追いやっていたのよな…。

スマートフォンを数回タップして数十分後に、誰が、どんな場所で、どういうプロセスを経て作ったのか知らない、運んできたのが誰かも知らない、食事が、魔法のように目の前に現れる。その「スマートフォンをタップする」と「食事を食べる」の二つの行為の間にあるもの。

「旬の食材を使った、出来たての温かい食事」を通してあらゆる不調やバランスを整えようとするとき、人がそこから摂取しているもの、との、差異。

パクチーは色々な考えを前提に、今、実家のある育った場所、東京を離れ、自然の多い島に住んでいる。移住を考えている間際に出会った、大変印象深く思った一文があって、それは福島原発の事故の後、外遊びが出来なくなってしまった子供たちを、線量の比較的少ない里山に連れて行って遊ばせるボランティアをする、東京の就職を蹴って地元に戻った青年の言葉だった。「自然は寛大なんですよ。生きる力を育ててくれる。東京に行って初めて、自然と相対することがない社会があることがショックだった。人間のルールしかない社会があった。」Think the Earth「福島の子どもたちを救え  〜猪苗代で始まった「外遊び支援」の試み」)。

この一文は、わたしがなぜ東京を離れたいのかを気付かせてくれた気がした。わたしは「人間のルールしかない社会」しか知らない。人間のルールだけじゃない社会、自然と相対することがある社会がどんなものなのか、自分でどうしても体感してみたい、わたしはそれが知りたかったのか、と思った。

島に暮らしてみてよく分かる。畑とは人工である。しかし水・土・日光、微生物の分解、という自然の仕組みを使わせてもらって、世にも美味しい野菜が作られる。島にいる有機農家さんたちはそれぞれ本当に素晴らしくて、彼らの野菜が本当に美味しくて、果物が本当に美味しくて(素晴らしく美味しい蜜柑を…彼らに食べさせてあげられたらいいのに…)固定種・在来種の伝統野菜も、F1も、関係なく信じられないくらいに隅々まで美味しい。

「人間のルールしかない社会」とは。

人が人にする評価だけが存在する世界だ。

「自然は寛大」「自然は生きる力を育ててくれる」のは、自然に内包された人間がそこに存在することを、自然は何一つジャッジしないからだ。

わたしは今島にいて、尊敬して信頼する農家さんの作った野菜と、安心して食べられるいつものお米とパンがあれば、少しで十分自分が満たされることを知っている。

わたしにとって今、食事とは、

わたしが育まれているのと同じ土地で、わたしと同じ雨露と陽の光を浴びて、そのメカニズムを愛おしむ人たちの植物に対する繊細な感度と、手で、わたしと同じ季節をくぐり抜けて成った成果物を、わたしをそばで見守り、わたしをよく知る存在が、その空腹の時に出来たての温かいものを調理して出してくれる。

それを頂くことで育つ体の中の何か。

そんな食事を、「我」が「我」に提供してあげることができるか、どうか。

目の前にそういうものと、そうじゃないものと、どちらもあって、どちらも選べる時、自分が何を食べるに相応しいと感じるかは、イコール自己愛の問題だった、と、パクチーは気付くのである。「自分」に何を与えるか。自分にその手間をかける価値があるか。

「チョコパイ5個」とのギャップだ。

自分を振り返ってみると、そこにはハードルがあったよなと思う。「わたしにはこんなもんでいい」という設定。安い方でいい。明らかに高質と思われる方を拒絶する時、自分でその価値を受け入れるのを堰き止めているのだった。その瞬間、自分にとって良いと思われる方を、与えられた価値を、評価を、賛辞を、対価を、自己肯定の低さが堰き止めずに、わたしはそれを受け入れるか、どうか。

わたしはJ-HOPEのことを思い出す。

J-HOPEの堰き止めない心

J-HOPEは「夢を諦めるべきかどうか」と相談するファンに、「どうして夢は叶わないと思うんですか?」と言う。

J-HOPEは、自分がいるポジションを「当然だ」とも「身に余る」とも言わず、ただ感謝して受け入れた上で、その責任を果たすために「今取るべき姿勢や態度とはどういうものか」思考し続けている。

J-HOPEは、若くしてアッパークラスの生活水準になるという激変を、たとえばルイ・ヴィトンのウェアでダンスの個人練習をすることが、練習生の時に着ている服とは別の、質の良い着心地と、色と、フォルムの美しさを体験出来るのだ、というような、新しい体験として自然に味わっている。

J-HOPEは、「Butter」がビルボードで1位を取り続けている時に、「ビルボードで競っているポップ・アーティストを見ながら」「何かを表現してみたいという思いがもっと強くなり」「音楽作りの作業をする時も、英語圏のアーティストたちと直接ディレクションをやりとりできる」ように、英語を勉強したいと言う。

うーん…

なんで?どうして?

すごい。

すごい!!

J-HOPEの堰き止めない心。抵抗せずに与えられたものを享受する心。そこから一歩先に踏み込む心。

美味しそうに感じて、その美味しいものを食べたなら、抵抗せずに受け入れて「美味しかった〜!」という心の状態でいることが、次に進むべきステップなのだ。それで美味しい食事が持っていたエネルギーは世界に還元されている。良きものがあなたに与えられた時に感じる抵抗感や、欲しいものに手を伸ばそうとする時に抑える反対側の手の存在、堰き止める心、ブロックは、その存在に気づくところから外すプロセスが始まる。

今日日、どんな物から質良くエネルギーを摂取できるか、実は、そこにはセオリーはないのであった。人は栄養素のみで生きるのではない。1日に必要とされるカロリーも畜産業会の肉の消費を高める思惑も絡んだ、検証を経ていない適当な数字だ。どの栄養素がどのように影響しているのか、ビタミンが何をしているか、実は、本当には良く分かっていない。

ゆんちゃん(SUGA)やジンくんが「小麦粉があまり食べられなくなった」と言う。うんうん分かる。わたしも。本来、小麦粉に含まれるグルテンを、人は分解することができない。それを食べられるようにしたのが、ヨーロッパの伝統的な製パン製法である発酵種を使ったパンで、この製法ではパンを膨らませる酵母より、乳酸菌の方が1000倍以上多くなる。乳酸菌をはじめとした雑多な菌がグルテンを分解して、人が消化、エネルギーに変えられる状態に、予め変えていてくれるのである。わたしの身体はこういった製法のパンを、すんなり消化しエネルギーに変えることが出来るが、そうでないパン、あるいは発酵させない小麦製品は、食べ方によってはお腹が重ーくなり、随分長い時間体がだるくなるようになった。若い時は何も考えていなかったし、どれも等しく美味しく頂いていたのだが。

同じ「パン」でも違うし、同じ「小麦製品」でも違うし、「誰が作った野菜を」「誰がどう調理してくれたか」によっても、そこに含まれるエネルギーの質は変わる。何からよりエネルギーを得やすいのか、人によって設定は違う。

わたしたちは、旬の食材から何を頂いているっていうんだろう。手間をかけた料理から何を?口から取り入れる食事のうち、栄養素以外の、肉体、心にアプローチするものって何だったんだろう、活力を取り戻す、自分自身を取り戻すための重要な何か。微生物?毎日アルコール消毒で滅多殺しにしている常在菌の多様性を補完する?酵素?作り手の魂?愛?食材が生物として生きていた時、その内側に内包していた一つの宇宙的バランス?

何を受け取るか、何を拒絶するか、何を選ぶか。

食べ物からどんなエネルギーを得るか。

それは自分が決め、身体が応えてくれる。

自分のコアに届くたべもの。


ところで、先日、旦那くんが電気グルーヴのなっがいトレーラーを見つけてきたんでした(DENKI GROOVE THE MOVIE 2 ? OFFICIAL TRAILER)。トレーラー冒頭にあるピエール瀧の初公判があった当時、石野卓球がtwitterで絡んできた一般人と徹底的にやりあっているのを、旦那くんは「だんだん怖くなってきた…」と言いながらリアルタイムで毎日追っていた。

こんなにも表現で手を抜いてこなかった人に、SNS上でちょっと口の立つ素人がやりあおうとしたって、相手は剣豪で猛者でしょうよ。卓球の応答は、これまでにどのように扱われようとも、彼が、アイデンティティを損なわせるものとギリギリの戦いを続けてきた、その凄みをびしびしと感じた。半端な気持ちで絡んだ一般人は、抜かれた白刃の前でこてんぱんにやられていた。その有様についての、旦那くんの「怖い」であった。あっぱれ、日本には卓球がいるじゃないか。

…と、ここまで書いてみて、最近のパクチーの心が動かされた「庵野監督」と「卓球」、この二方には、「ネット上の匿名の悪意と対峙した」というところに共通点があったと、今、気がついた。

「ネット上で批判される自分」とは、「実際の自分自身」とは違う、別のもの、「アバター」である。匿名で批判する者は、直接コミュニケーションをとる関係性になく、基本的に本人そのものを、直接的には知らないからだ。

庵野監督は、自身のアバターの扱われようを見て生きる活力を見失ったわけだが、「アバター」が得る活力とは何だろうか。けれども庵野監督は、彼の作品の中において、「アバター」じゃなく自分自身、生身の本人は、「旬の食材を使った、出来たての温かい食事」から活力を得ることが出来ることを、「地に足のついた根源的な力」を取り戻すことが出来ることを、教えてくれているようだった気がする。

この世の社食や学食において、他の企業が入っていないというのは、考えている以上に実に重要なことなのかもしれないね。企業の目的である利潤を求めて素材の質を下げ、出来たてでもなく、旬のものもないのなら、もうその食事は心まで届かないのだから。

90%以上、99%、「ネット上の生き物」と言っても過言ではない状態の現行のアイドル達に、ネット上のあらゆる善意、あらゆる悪意にどう扱われようとも、生身の人間が地に足のついた活力を得ることを、そういうことを見越して、HYBEが社食を美味しくしたのだったら、

流石ですな…。


生身の体が地に足のつく食事を食べよう。

人間のルールだけしかない社会で、他人に与えられた評価に打ち負かされない力を得ることの出来る食べもの。地球とのパス。


そういうことだったみたい。

健康で!それではまた!




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