見出し画像

源氏物語 現代語訳 須磨 その6

 須磨での暮らしが長くなるにしたがい、どうにも堪えきれなくなる時がおありのようですが、この身ひとつでさえ呪わしい前世の報いと痛感させられる住まいに、どうしてまた一緒に暮らすなど、相応しいはずもないと思い改められます。土地が土地だけに、あらゆる面で勝手がちがい、これまで見ることも知ることもなかった下々の暮らしぶりを目の当たりにされ、ぎょっとされ、ご自身のお立場のありがたさを噛み締めておられます。すぐ近くまで煙が漂ってきますのを、ああこれが海人が塩を焼く煙なのだなと思い当たられます、お住まいの裏山で柴というものを燻らせているのでした。物珍しさに興味を引かれ、

山の民が庵で焚いている柴ではないが、しばしば便りを寄越してはくれぬか私の故郷の人よ

 やがて冬となり雪が吹き荒れました頃、いつになく凄まじい空模様を眺められながら、退屈しのぎに琴を掻き鳴らされ、良清に催馬楽を歌わせて大輔惟光の横笛とともにお楽しみになります。心を籠めて妙なる一節を奏でられますと、他の者達は演奏の手を止め、涙を拭い合っております。その昔、胡の国に遣わされたという女に想いを馳せられ、私なんてものじゃない、この世で大切にしている女なんかを遠い異国へと遣って離ればなれになった心境たるやいかばかりであろうと想像をたくましくされますと、途端にそういうことが我が身にも起こるような気がしておののかれ、思わず「霜の後の夢」と口ずさまれます。月が遠慮なく射し込み、所詮は儚い旅の御座所でございますから、隅から隅まであからさまになります。床の上から、すっかり更けた夜が眺められます。入りかけの月明かりが眩し過ぎ、「ただ是西に行くなり」と独り言を呟かれ、

どちらの雲へと私はさ迷っているのだろう、迷いなき月に見透かされているようで恥ずかしくなる……

と更に独りごちられ、寝床に就かれてもいつものように寝入ることもかなわず、そのうち明けてゆく空には千鳥が哀愁を帯びて飛んでゆきました。

千鳥の群れが声を合わせて鳴いている、こんな明け方は独り寝もまんざら悪くはないものだ

またしても誰一人起きてはおりませんので、繰り返し独りぽつりと呟かれてようやくお休みになられました。

深夜にお手洗いに立たれ、読経などをなさいますのが、珍しくまた極めて奇特な事のように感じられ、お付きの者達もお見捨てするどころか、ほんのわずかな間ですら家に帰ろうともいたしません。

 明石の海岸は歩いてゆける所ですので、良清朝臣は気になっている入道の娘を思い出し懸想文を届けてみましたが、なしのつぶてです、にもかかわらず父入道が「お話したいことがございます。ちょっとお逢い出来ませんか。」と云ってきました、断られるに決まっているのに、のこのこ出掛けて行って、空振りさせられてすごすごと立ち去る己の後ろ姿もみっともないだろうと、腰が引けて行こうともしません。

 何を隠そう入道は娘の縁談に関して密かに途方もない野望を抱いており、国においては国守の縁者に限っては敬意を払うのが慣わしなのですが、名うてのひねくれ者である入道は意に介さず、長年良清をすげなくあしらってきました、そんな折源氏の君がこちらにいらっしゃると聞き及び、娘の母君である妻に、「他ならぬ桐壺の更衣との間にお生まれになった源氏の光君が、朝廷より罰を蒙り、須磨の浦においでになるそうじゃないか。これこそ我が娘が引き寄せたまたとないご縁。なんとしてでももこの機を逃さず源氏の君に差し上げよう。」と息巻きました。母君は、「滅相もないことを仰います。京の人の噂によれば、高貴な奥様をそれはそれは大勢お持ちで、それだけでなく内々でお上の御愛妾にまで手出しなさって大騒ぎとなってしまったそうな、そのようなお人が、よりにもよってこんなど田舎の娘ごときに目をくれようはずもないじゃありませんか。」と呆れております。入道はかっときて、「お前なんぞに何が分かる。私には私なりの考えがあるのだ。ともかくその積もりでいなさい。機会をもうけてこちらに来ていただこう。」と得意気に喋りますのがいかにも頑固者そのものです。家中を眩しいくらいに飾り立て、娘を大切に大切に育て上げているのでした。

 母君は、「確かにご立派な方かもしれませんけれど、何も初めてのご縁にわざわざ罪を犯して流人となられた方を撰ぶこともないでしょうに。よしんば婿としてお迎えするにせよ、あちらがお気に召してくださらないことにはお話になりませんし、そんな酔狂なことをなさるとは到底思えません。」と重ねて云いますので、入道はいたくぶつぶつと文句を垂れます。「罪に抵触するなんてことはだな、唐の国でも本朝でも、とかく優秀で、何事においても人より抜きん出ている人には決まってあることなんだよ。そもそもあのお方がどういう方か存じ上げているのかね。母君御息所は、私の叔父にあたられる按察大納言のお嬢さんなんだよ。御容貌も御人柄も申し分なく、宮仕えに出されたところ、時の国王の御寵愛を一身に受け、並び立つ者とていないないほどだったので、周り中から嫉妬されたあげくあえなくお亡くなりになってしまわれたが、源氏の君を遺されたことは実にめでたいことであった。女に生まれたからには、志をどこまでも高く持つべきだよ。私がこんな土地に燻っているからと云って、よもや見捨てたりはなさるまい。」などと云っております。

 この娘は決して美人というわけではありませんけれど、優雅で品があり、教養も兼ね備えているところなどは、おさおさ高貴な姫にも劣りません。自分の置かれている立場を残念がり、上流の殿方は私のような者を物の数にも入れていないでしょう、だからと云って分相応な男に嫁ぐなんて真っ平御免だわ。長生きして親に先立たれてしまった暁には、尼になるもよし、海の底に沈むもよしよ、などと固く心に誓っております。父君は申し訳なく思いながら育て上げ、年に二度は住吉大社に参詣させてきました。密かに神の御加護を期待してのことです。

 ここ須磨では、年が改まってすっかり日が長くなってお暇を持て余しておられます、昨年植えた桜の若木にぽつりぽつりと花が咲き、晴れ渡った空の下、ついあれやこれやの想い出が頭を駆け巡り涙ぐんでおられます。二月二十日過ぎ頃でしたでしょうか、去年京に離れる際にお別れした心残る方々のお姿が恋しくてたまらなくなり、南殿の桜はそろそろ満開であろう、そういえば五年前の花の宴では院のご機嫌もすこぶる麗しく、当時東宮であられた今上も清らかでお美しく、私の作った詩句を口ずさまれたのであったと思い出されて呟かれます。

大宮人を恋しく思わない日などありはしない、桜を頭に翳したあの日がまた巡ってきた

 甚だ鬱々とした日々を送られておられたある日、左大臣家の三位中将が参議に昇進され、なにせお人柄が抜群ですから当節世間の評判も上々なのですが、世の中がすっかり虚しくなり、何かにつけて源氏の君のことが恋しく思われ、たとえ事が露見して罪に問われたところで構いはしないと開き直られて、急遽須磨においでになりました。源氏の君のお顔を一目見るなり、懐かしさと嬉しさが一気にこみ上げてきて、悔し涙と嬉し涙がひとつになって零れ落ちます。

 目に映るお住まいは、なんとも云い様がないほど唐風になっております。場所柄、絵に描いたような風景が広がり、竹網の垣をめぐらし、石の階段も松の柱も簡素ながら、却って見所があり独特の風情を漂わせています。源氏の君の出で立ちも、いたって山の民めいた、聴色のやや黄色がかった下着に青鈍色の狩衣と指貫という窶れた装いで、ことさら田舎に相応しい格好をなさっておられるのが、見ていてつい笑みが浮かぶほどいっそ清々しく感じられるのでした。身の周りの諸々の調度品も、あくまでも必要最小限に留めておられ、御座所もすっかり顕になっております。碁、双六盤、それらにまつわる道具類、弾碁用品なども田舎作りで、念誦の品が見えますのは、お勤めを果たされた跡と思われます。お食事が供されます際にも、すこぶる田舎風の物珍しい料理が並びます。海人たちが漁をし、貝の類いを持参いたしましたのを、中将がお召しになり引見なさいます。どれほどの年月海の仕事に携わっているのかなどをお訊きになりますと、各々が苦労の絶えない日々の暮らしぶりと我が身の悲哀を申し上げました。聞き慣れない言葉でたどたどしく喋るのですが、それでもその云わんとするところ、すなわち心の痛みは同じ、我々となんら変わるところがないと哀れに感じておられます。お召し物を脱いでお与えになりましたら、これまで生きてきた甲斐がありましたと感激しております。馬を程近い所に立たせ、ずっと向こうの倉か何かから藁を取り出してきて飼っているのも、初めて目にする光景です。催馬楽の飛鳥井を一寸だけ謡われて、ここ数ヶ月の近況と出来事を泣き笑いを交えつつお話になり、「若君が世間の事をちっともご存じないのがおいたわしくて、父左大臣が日がな一日嘆き暮らしております。」などとしんみり語られますと、源氏の君は胸がいっぱいになられました。積もるお話は尽きることがありませんから、その一端なりともお伝え出来ようはずもございません。

夜を徹してお眠りにもならず、詩文を作って明かされました。そうは云っても、口さがない世間に気兼ねして急ぎお帰りになりますから、なまじ未練が残ります。別れの盃を酌み交わし、「酔ひの悲しび涙灑く春の盃の裏」と白居易の詩を二人して口ずさまれます。お供の者達も涙を禁じ得ません。それぞれに束の間の再会を惜しんでいるようです。

 夜明け間近の空に、雁が列をなして飛んでゆきます。主人の君が、

京に戻れるのはいつの春になることやら、うらやましいのは帰ってゆく雁です

宰相は到底立ち去る気になれず、

名残を惜しみながら雁は常世に別れを告げます、花の都への帰り道は迷うことになるでしょうね

選りすぐった都のお土産を、心憎い演出で贈られます。主人の君は、このようなもったいない御来訪のお礼に、黒馬を献上いたします。「罪人からの贈り物ですからご迷惑と思われるかもしれませんが、北風に向かえば馬は嘶くそうですから。」と仰いました。見るからに類い稀なる立派な馬でございます。「私の分身と思ってください。」と申されて、まことに素晴らしい名のある笛だけをお付けになり、人から見咎められるような贈り物は避けられます。ようやく陽が射してきました、気が急きつつも、振り返り振り返りされながら立ち去ってゆかれますのを、見送られる源氏の君のお姿は、かえってお辛そうでございます。「いつまたお逢いできますやら……」と中将が仰いますので、主人の君は、

「雲近く飛ぶ鶴よちゃんと見ておくれ、私は春の日のように一点の曇りもない身なのだよ

方やそう我が身の潔白を恃みにしてはおりますが、一度こうして流された身となりますと、かつての賢人たちもやすやすとは宮廷に復帰出来ませんでしたから、とてもとても、都との境を再び見られようとは思っておりません。」などと仰います。

宰相が、

「拠り所のない宮中で私は独り慟哭しております、いつも一緒だった友を恋いながら

畏れながら仲良くさせてもらっていましたが、それだけになおさら……、と無念に思うことも多いのです。」

などとのんびり寛ぎもせずにお帰りになられた後は、その名残を噛みしめながらいっそう深い悲しみに沈んでおられます。

 三月一日になりその日が巳の日にあたり、「今日という日は、含むところがおありの方は禊をなさるとよろしいでしょう。」と知ったかぶりの者が進言いたしますので、たまには海を眺めるのもよかろうとお出掛けになりました。簡易の幕を張り巡らして、こちらの国に通っている陰陽師を呼び、お祓いをさせます。舟にいささか仰々しい身代わりの人形を乗せて流す光景をご覧になられておりますと、つい我が身に引き付けられて、

知りもしなかった大海原に流されてきた私はさながら人形のようだ、なんと悲しい身の上だろう

そう仰ってすっくと立っておられるお姿は、晴れ渡った海辺にあまりに美し過ぎました。海面がうららかに凪いで、果てしなく続いております、つくづくと来し方行く末が思いやられ、

八百万の神々も私を憐れんでくださるだろう、確たる罪を犯したわけでもないのだから

と口ずさまれた途端、たちまち風が吹き始め、空がかき曇ってきました。周囲はお祓いもそこそこに大騒ぎしております。肘笠雨と呼ばれるにわか雨がざっと来て、どんどん激しくなってゆきます、誰もが帰ろうとされますものの、笠の用意があろうはずもなく、まったく予想外の展開で、辺り一面を薙ぎ倒して信じられないほどの暴風となりました。高波がおどろおどろしく打ち寄せ、誰も彼も上を下への大混乱です。海の面はまるで襖を張ったかのように一面光り輝いて、雷鳴が轟き稲光が走ります。今にも落ちそうな恐怖の中、命からがら帰り着いて、「今まで生きてきてこんな目に遭ったのは初めてだ。風が吹く時は景色で判るもの、こんなとんでもない天気はめったにない。」と狼狽しきりですが、依然として雷は鳴り止まず、雨脚が当たった所を貫いたかのようにばちばちと音を立てております。この世の終わりはきっとこんな風なんだろうなと心細く不安に包まれる周囲をよそに、源氏の君はいたって悠然と読経されておられます。日が暮れてきた頃にようやく雷はおさまりましたが、風は夜になってもまだ吹き荒れております。「これぞ多くの願をかけられた霊験以外の何物でもない。」「もうちょっと長引いていたら、間違いなく波に呑まれていただろう。」「あれが高潮というものなんだねぇ。何もかもひと息に破壊し尽くしてしまうと聞いていたけれど、本物は初めて見たよ。」と口々に云い募ります。

 明け方になり、やっと皆々が寝静まりました。源氏の君もうつらうつらなさっておられますと、得体の知らない者が現れ、「なぜ宮がお召しになられておりますのにおいでにならないのですか。」と徘徊している
らしい姿が見て取れはっと目を覚まされて、あれこそ海底の、美しいものを愛してやまない龍王が自分に目をつけたにちがいないと悟られ、甚だ不気味で、もうこれ以上この家に住み続けることは無理だと思われました。

この記事が参加している募集

古典がすき