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源氏物語 現代語訳 若紫その4

 源氏の君はただでさえ悩み事が多くていらっしゃるのに、雨がぽつぽつと降り注いで、山からの風も冷んやりと吹き滝の澱みも一段と凄みを増して聞こえてきます。いささか眠そうな声の読経が途切れ途切れにものものしく流れて来、不粋な者であっても場所が場所だけに何かしら心に響くものがあります。それでなくとも思案を巡らされることばかりで、どうにも寝付かれないご様子です。六時の勤行と云っていた僧都は、まだ戻ってまいりません、夜もすっかり更けました。庵の奥でもまだ起きている気配が濃厚で、音を立てぬよう注意を払ってはいるものの、数珠が脇息に当たって鳴るのがうっすら聞こえます、聞きなれた衣擦れの音がいたく上品だなと感心されましたので、なにぶんにもすぐ近くですから、外に立て渡して仕切っている屏風の継ぎ目をほんの少し開けて、合図に扇を鳴らされますと、思いも寄らぬといった雰囲気ながらさすがに聞き流すことも出来ませんのか、すすっといざり寄る人がいるようです。そうしてふとまた退がっては「おかしいわね。空耳だったのかしらん。」と疑っているのを耳にされ、「み仏のお導きは、冥いところに入り込んでも見紛うはずもないものですよ。」と仰るお声のすこぶるお若く気品に満ち溢れておりますのに気圧されたのか、お答えする声音もいかにも恥じ入っている様子で、「どちらのお方にお取り次ぎいたせばよろしいのでしょう。見当もつきません。」と、そう申します。「そうですね、いかにも藪から棒と思われるのも道理ではありますが、

初草の若葉のごときお方を目にしてからというもの、旅寝の袖は涙で乾きません

そう申し上げてくださいな。」と仰います。「仰るようなお言伝てをお伝えするような方なぞいらっしゃらないとお分かりのようですが……、何方へ。」と申します。「ごく自然ななりゆきで、そう思われるわけがおありだと察してください。」そう仰いましたので、奥に戻ってご伝言いたしました。

「まぁなんて今風ですこと。この姫が色恋のお相手になるお年頃と思っておられるんだわ、それにしてもいつかの若草の歌をどうやって耳にされたのかしら……。」とあれもこれも訝く戸惑いますが、お返事をお待たせするのは無礼ですので、

そんな今宵限りの旅寝の露と、深い山奥の苔の露をお比べにならないで

私どもの露は乾くことを知りません。」とお返しいたしました。

「この度のような偶然のついでに申し上げるご挨拶には馴れておりません、かつて一度もしたことがないのです。厚かましいお願いではございますが、せっかくのこの機会に本気でお話したいことがあるのです。」そう申されますので、尼君は「間違った情報がお耳に入ったようですね。実に難題悩ましいところです、どうお返事申し上げたらよろしいのか……。」と頭を抱えます、「生半可なお返事は却って失礼にあたりましょう。」女房たちが口々に云います。「確かに、若々しい人なら気詰まりでしょうけど、源氏の君がああまで一途に仰ってくださるのはあまりに忝ないわね。」そう云ってすり寄られました。

「唐突でさも無分別のように映るかもしれないこの度の振る舞いですが、心には一点の曇りもありません、み仏の名において。」と仰って、相手の落ち着き払った堂々とした態度にのまれてか、いきなり核心を突くのを躊躇っておられます。「ほんとうに思いもいらぬ機会に、こうまでお心を籠めて仰っていただいて……。なにゆえ浅いご縁などと思えましょう。」と申されます。「お気の毒な境遇とお聞きいたしました、どうかそのお亡くなりになられたというお母様の代わりと思ってはいただけませんか。私自身、まだうんと幼い頃に親しかった者たちと死に別れまして、ふわふわと地に足のつかない不安定な年月を過ごしてまいりました、ここに同じ生い立ちの方がおいでになるとうかがい、是非私を相方とさせてもらいたいと切に願っておりました、得がたい機会ですからご心中も忖度せず、思いの丈をお伝えいたしました。」そう熱く口説かれますと、「この上ないほどのありがたいお言葉ではございますが、話が歪められてお耳に入られておられるのではないかと少々気掛かりでございます。心許ないこの身をただひとつの頼りとしてくださる人がいらっしゃいますが、なにぶんにもまだほんの子供でございます、大目に見ていただけるところもございませんので、承諾いたしかねるのでございます。」と申します。「何もかもすべて承知の上です、あまり堅苦しくお考えにならず、想いを寄せるこの尋常でない心映えを受け止めてください。」と仰いましたが、釣り合うはずもない年齢であるのをご存じなく仰っておられるのだと思われたのでしょう、それきりくだけた会話が途切れてしまいました。

 と、そこに僧都がいらっしゃいましたので、「ともあれ、まず手始めにこれだけのことをお聞かせ申し上げたのですから、心強いというものです。」と改めて屏風を閉じられました。

 やがて夜明けが訪れます、法華経をひたすら誦す行が行われているお堂から、懺法の声が山から吹き下ろす風に乗って聞こえてきますのがまことに尊く、滝の音と絶妙に響き合っています。

吹き荒れる深山おろしの音で夢から覚めました、感激のあまり涙さえ催す滝の音ですねぇ

お袖を不意に濡らしたこの山水も、ここに住む澄んだ心は微動だにいたしません

なにぶんにも聞き慣れておりますから、と申し上げます。

 明るんでゆく空は遥か彼方まで霞み渡り、山の鳥たちがちらほら囀ずり合っています。名も知らぬ草木の花たちも色とりどりにそこかしこに散ってさながら錦を敷き詰めたよう、そこに鹿が現れて佇んではまた歩き去ってゆくのを偶然目に留められたりなさっているうちに、悩み事もいつしか紛れてゆくのでした。聖はほぼ身動きが出来ないお身体ながら、辛うじて印を結び真言を唱え加持をお授けになられます。枯れた聞き取れないほどの掠れ声で唱えられる真言は、徳の高さを物語っております。

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