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源氏物語 現代語訳 若紫その2

「暮れて来はじめておりますが、御病も癒えておられるようにお見受けいたします。そろそろお帰りになられては。」と申し上げますが、大徳の聖は「御物の怪も憑いておったようでございます。今晩ひと晩は静かに加持などなさって、明朝にご出立なさってください」そう申します。「いかにももっともだ。」と一同頷きます。源氏の君も、こんな小旅行は滅多にお出来になれませんので、ややお気持ちも高ぶられ、「ならば明朝早くに」と仰いました。

 お相手を務める者もおらずお暇を持て余された源氏の君は、夕暮れ時の深く立ち込めた霞に紛れるようにして、例の小柴垣の傍らに立たれました。供の者は全員帰され、一人残された惟光と一緒に覗いてみましたところ、目の前の西向きの部屋にみ仏をお祀りし、勤行している尼がおりました。僅かに上げられた簾の向こう、花をお供えしているようです。中央の柱に寄りかかり、お経を脇息の上に置いて、さも気怠そうにお経を読んでいる尼君は、どう見ても並の女ではありません。四十を越えたばかりでしょうか、透き通る白い貴な肌に、痩せ気味ではあるものの顔そのものはふくよかで、目のあたりで、髪が綺麗にそがれている先端なども、それはそれで長かった頃よりいっそどきりとするほど美しいではないか、と胸ときめかせてご覧になられております。

 清純そうな若い女房が二人ほどいて、ほかに女童たちが出たり入ったりしながら遊んでいる中に、十歳になったかならずの年頃で、白の下着に山吹色のなれた重ねを纏って走ってきた女の子がいました、そこいら中の子たちとは明らかに一線を画する、いかにも末頼もしい可憐な顔立ちです。広げた扇さながらの髪を揺らめかせながら、擦り過ぎて赤くなった泣き顔で立っています。「どうされたのです。さてはあの子たちと喧嘩でもなさったのですか。」と尼君が見上げましたら、どこかしら似たところがありますので、おそらく二人は親子であろうと察しをつけられました。「雀の子をいぬきが逃がしてしまったの!伏籠の内に閉じこめておいたのに!」そう云って悔しがります。こちら側の年嵩の女房が「またあの粗忽者が、そんな悪さをして叱られるなんてどうしようもありませんね。どちらへ飛んでゆきましたでしょう。せっかく可愛らしく育ってきておりましたのに。烏なんぞに見つからなければよいのですが……。」そう云い残して立ち去りました。たっぷりとゆるやかな長い長い髪の、見目麗しそうな人のようです。少納言の乳母と呼ばれていますから、あの少女のお世話係なのでしょう。

 尼君は、「まぁ、なんて子供じみたことを!云ったところで詮ないことですよ。明日をも知れぬ私のこの命にはお構いなしですのに、雀の子を惜しまれるとは。そもそも生き物を捕らえると仏罰があたりますと常日頃から申し上げておるではございませんか。思いやられます。」そう嘆いて「ここにいらっしゃいませ。」と云いましたら、膝をついて座りました。

 顔つきが実に愛らしく、眉のあたりもほんのり煙って、邪魔くさそうに掻きあげる額の形、髪の質感も申し分ない美しさです。この先どこまで美人になるか見てみたい人だなぁ、と目が釘付けになられます。それもそのはず、全身全霊で恋い焦がれておられる方ととてもよく似ておりますがため、こうして見守っているのだとはっきりとわかった瞬間、すでに涙が零れ落ちているのでした。

 女の子の髪を撫でながら尼君は続けます、「櫛梳ることを嫌っておいでのようですが、ほんにいつ見ても惚れ惚れするお髪ですこと!それにつけましても他愛ないことばかりなさるのが気掛かりでなりません。そのくらいのお歳になれば、子供っぽさが抜けている人もおりますのに。亡き姫君が十歳そこそこでお父上を亡くされました頃には、すっかり物の道理をわきまえておられましたよ。たった今、この私を亡くしてしまわれたら、この先どうやって世渡りなさってゆかれるのか……。」そう零して泣き崩れるのをご覧になり、源氏の君もついしみじみと悲しみに包まれるのでした。女の子も幼いながらさすがに悄気て、目を伏せうつ伏しています、その床に零れかかった髪の艶やかなことと云ったらうっとりするほどです。
 
この先大きくなってどこに落ち着くのかも定かでない若草、消えてなくなる露も消え処がありません

側にいる女房が「仰る通り」ともらい泣きし、

初草がこれからどう育ってゆくのかまだ分かりもしない間に、どうして消えるなどと仰るのでしょう

そんなことを申し上げていましたら、僧都が向こうからやってきました、「あちらから丸見えですよ。今日に限ってまたこんな端にいらっしゃるとは。この上の聖を訪ねて、瘧病に罹られた源氏の中将が加持祈祷にいらっしゃっておられると、先ほど耳にいたしました。なにぶんにも極秘だそうで、まったく存じ上げませんでしたから、ここにおりながらご機嫌伺いにも参上いたしませんでした。」そう申します、「それは大変!こんなお恥ずかしいところを誰かに見られてしまったのかも……。」と云って慌てて簾を下ろしました。「世に知らぬ者とていない光源氏です、絶好のこの機会にご尊顔を拝されてはいかがでしょう。世を捨てたはずの法師の心も、鬱さを忘れて晴れ晴れとし、寿命まで延びてしまうというほどの類い稀な美貌だそうですよ。さて、ご挨拶に伺うといたしましょう。」と云って立ち上がる音が聞こえましたので、源氏の君はそっとその場を離れられました。

 なんと愛くるしい人を見たものか、なるほどあの女たらし達が夜な夜なふらふらと徘徊ばかりしては、よくもまぁあんな上玉を見付けてくるものだと感心するのだけれど、こういうわけがあったんだな、たまの外出でもこんな風に思いがけない出逢いがあるのだから、と面白がられ妙に納得されます。それにつけてもすこぶる可憐な少女であった、一体誰なんだろう、あのお方の身代わりに側に置いて、やるせない日々の慰めとして眺め暮らせたらどんなにか……、との想いが深く心に根差されたのでした。

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