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源氏物語 現代語訳 若紫その3

 お戻りになられて横たわられ休憩なさっておられるところに、僧都のお弟子さんがやって来て惟光を呼び出させました。場所が場所だけに狭く話は源氏の君に筒抜けです。「この山にお越しになられておられると、たった今人から聞き及びました、取り急ぎご挨拶に伺うべきでところでございますが、私めがこの寺に籠っておりますことをご存じのはずが、隠されておられたことがいささか遺憾に思われまして。草の筵ひとつでもこちらに設えるべきところでございました。まったくもって不調法なことでございます。」と僧都のお言葉をお伝えいたします。それに、「先頃十日あたりから瘧病に罹りまして、どうにも発作が止まず耐えられないほどでしたので、人から聞かされた話のままにとるものもとりあえずこちらを尋ねて参ったのです、ただ、これほどの聖の加持祈祷に効果が見られないとなればご評判に傷がつくであろう、並の業者の比ではあるまいと慮りまして、おおっぴらにせずにおりました。これからそちらにもお邪魔いたします。」とお答えいたしました。

 使いのお弟子さんが帰るとすぐに僧都がいらっしゃいました。法師とはいえこちらが恥じ入ってしまうほど、お人柄の尊さが世に鳴り響いておられる方ですので、こんな風に気さくにおいでくださったことに源氏の君は恐縮なさいます。こちらの山に籠っておられる経緯などをお話になられた後、「似たりよったりの柴垣の庵ではございますが、わずかでも涼味のあります水の流れをお目にかけたく存じます。」とのたってのお誘いに、まだご自身のお姿を目にしたことのない者にまで仰々しく云いふらされたことに引け目を感じられましたが、あの可憐な少女のことがどうしても気になりお伺いすることにいたしました。

 確かに趣向を変えて品よく、同じ草木が植えられております。月のない時間帯ですので、遣水を篝火で照らし、灯籠にも火が入っています。南面がことに清らかに設えられております。室内の薫き物が心憎いばかりに漂っていて、名香の馥郁たる香りなどが辺り一面に満ちているのですが、源氏の君のお袖を揺らす風が一際えもいわれぬ芳しさを運んできて、簾の向こうの人たちも胸をときめかせているようです。

 僧都がこの世は常なきものであるというお話や、来世のことなどを説かれ教えて差し上げます。源氏の君はご自分の罪の深さにおののかれ、道に外れた想いに心が囚われて、生きている限りこの想いに煩悶するであろう、更に死してなお責苦を受けるに違いないと思い続けれおられますので、このような念仏三昧の日々を送ってみたいと思われますものの、やはり昼間に目にした少女の面影が頭から離れず恋しいお気持ちを募らせられ、「ここに来ておられる方は何方でしょう。かつて探ってみたいものよという夢を見た記憶があるのですが、本日合点がゆきました。」と仰いましたら、僧都は微笑まれ「また唐突な夢のお話でございますね。お尋ねになられたところで、おそらく興がそがれるだけでございましょう。故按察大納言のことは、ずいぶん前に亡くなりましたのでご存じないでしょうね。その大納言の正妻が私の妹なのでございます。夫の按察がこの世を去って出家いたしましたのが、このところ病を得ておりますので、都もすっかり遠のいてしまった私を頼ってこちらに参り籠っておるのでございます。」と申し上げます。

「確かあの大納言には娘がいると聞いたことがあったのですが……。下心からではございません、大真面目にお訊きしております。」と当てずっぽうで仰いましたところ、「はい、確かに娘が一人おりました。死んでかれこれ十年あまりになるでしょうか。亡き大納言はいずれ宮中に差し上げようと大事に大事に育てておりましたが、本意を遂げることなく志半ばで世を去りましたので、私の妹の尼が身の周りの世話をいたしておりました、そんな折誰の手引きか、兵部卿宮がお忍びで通われるようになりました、ただ宮にはやんごとないお家柄の正妻がいらっしゃいましたから、何かと気に病むことも多く、始終思い悩んでおりますうちに亡くなってしまわれたのです。悩み抜いた挙げ句病に伏してしまう事例を初めてこの目で見ましてございます。」等々お話申し上げます。

 そうか、あの子はその娘の子であったか!と腑に落ちられます。親王のお血筋であるのだからあの方に似通っているのも納得だと、いっそう愛しさが増され、なんとしても側に置きたいと強く思われます。宮の娘なら身分も申し分ない、美しいのに加え小賢しいところがないあんな子を、親しく心の赴くままにそれやこれやを教えてあげつつ育て上げたいものだと夢想なさっておられます。

「それはお気の毒でしたねぇ……。で、その娘に忘れ形見はいないのですか。」と、あの幼子の素性をさらにはっきりさせたくて問われましたところ、「亡くなる前に生まれました。それも女児でございますよ。それでなくとも老い先短い尼としましては、その子の行く末が気掛かりでならないと常々嘆いておるようでございます。」ならば!と心をお決めになられます。「あまり例を見ないことですが、私をその子の後見人にしていただくようお取り計らい願えませんでしょうか。思うところがありまして、妻を娶ってはいますが、相性がよろしくないと申しますか……、ほとんど独り住まいのような現状なのです。さすがに結婚にはまだ早過ぎると、巷の男たち同様にとらえられ、怪しからんと思われますでしょうか。」そう仰いますと、「なんとももったいないお言葉ではございますが、なにぶんにもまだ頑是ない幼子、お戯れにもお目にかけるほどではございません。一体に女と申しますものは、男から庇護されて一人前になるものでもございますから、出家の私には判断がつきかねます、そのうちあの子の祖母にお話いたしましてお返事申し上げましょう。」とさらりと云って妙に居心地悪そうになさっておられますので、お若いお心では気が引けて、それ以上強く押すことはお出来になれません。「阿弥陀さまがいらっしゃるお堂で決まったお勤めがございます。六時のお勤めをまだ果たしておりません、終わりましたら改めてお伺いいたします。」と云い残して山へ上ってゆかれました。

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