投稿するうちに見えた、「作りたい」はニセモノの感情だったこと

なかなか書く時間がとれない、とれないと言いながらもちょこちょこ更新してわかってきたこと。
(ちなみにこのひとつ前の記事は「あの日暮らした街」のあとから書きかけていたのでかれこれ3日かけてちょっとずつ書いていた分。どんどん過ぎてくともう送信しないでいいや、ておもえてくるので3日を目処にできればまとめたい!とおもう。)

わたしの中にちゃんと書きたい!出したい!があったことにビックリした。
第3子、出産したあとの数ヶ月でSNSをひとしきりやめたし、育児中何度かチャレンジしたブログもなにも書きたいことが浮かばず、20代のネット熱中期にもう出しきったかなー、と勝手に思っていたので。

まあ出したい、てあたりで頭を整理するため、というのがメイン理由なのでいまなにか抱えてるのは間違いない。

とにかくここにかくことでアウトプットしはじめてからの変化。

行動面の変化


1、前は寝る前とかたくさんだらだら見に行ってた人様のインスタ漫画や、ネットサーフィンをしなくなった。寝不足解消。文を作成するときはここまでいったら寝よう、とか区切りをつけられるのがネットサーフィンとの違い?

2、パンやお菓子作りはおかーさんはいま忙しいです、ていうポーズのためであって(頭のなかであーしたい、こーしたい、を色々計画している自分をやっと自覚できた)わたし、時間がもし続けてあるならしたいことは、作りたいだけじゃなかったかも、ってなんとなく感じだしたこと。

いや、作るの自体は好きなんだけど。
でも、なんとなく純粋につくるのがすきな方々とちがうかも、、と。

それでも昨日は食パンをこね今朝のごはんに。

今日は今日で2番目の中学生が来週からお弁当が始まるけど、今日まではお昼をおうちでたべれる機会だから昨夜テレビで見てて美味しそう!ていってたなあと思い立っちゃったからクリームチキンドリアを出して。




さらには進級祝いでケーキをリクエストされ、それも作って。気づけばずっとキッチンにいる。(そしてこれを打ってるのは2番目の歯科矯正の付き添いで歯医者にて待ち時間中)



が、作るのをやりながら洗い物をしながらひたすら合間に打っている。

うちの家族はわたしがなにか作ってて忙しそうにみえるとみんなそこまでやってこない、ということを意識しながら文を作成したここ数日で確信をもったのだ。

料理してるのはわたしのため。
わたしの時間を確保するための隠れ蓑みたいな?

ただスマホを打ちながら頭の整理をしてるだけだと、はたからまたネットしてんの?に見えるからか家族には不評だし、なんだかわたしも罪悪感背負っちゃうんだけれど、ものが作られていたらなんかそれ調べてるのかな?と、おもわれるようで。

気づいたこと

最近やりとりしてた思春期世代の第一子のときのお母さん同士のLINEで、流れでるもの(欲求?希望、そもそも日々の中のタイミングとかも)は止めるか流すかしかなく、でも出るものは出るよね、と、そんな話をしていた。(解釈あってる?)
つまり気持ちを止めるか止めないかが人の出方の違いなだけで感情や動き的には流れ出るものはでる、それは自然に、みたいな意味だったのかとおもう。

そんなやりとりで流れ出るものを流れ出てよい、と受け止めるなんてすごいな、流れるように生きていて羨ましいな、わたしと違うなあ、と漠然と感じていた。

我が子の対応で不登校になった最初のとき、行きたくない理由を知りそっか、と受け止めはできてもペースを待つ、がうまくできなかったことが浮かんだ自分をわたしは思い出した。でるものはでる、いけないときはいけない、わかってても受け止めるキャパはないし、親として出来ることは?とひたすら動きまわり着地点をつくったり、進路とか考えて助言したり、狭まってる視野を広げさせしたりしなきゃじゃない!?て思った自分。
当然それはこどもからするといまは出られないの、それは行き先未知なので不安だってあっただろうけれどわたしが色々やりすぎて戦いになったのはでるものはでる、を受け止められなかったからだなー、と。

そういうのがそのときは浮かんだからこういう止めるとか止めないとか、てことー?て気分で返事をしたが、返事はしたもののなにか引っ掛かっていた。ちがう、そんなことじゃないかも。

それがここのところの自分の動きで思った。

わたし自身にその流れ出るものは出るは出るで仕方ない、って置き換えたら急にみえてきたのだ。いまのわたしの出方がまさにその出るものは出るじゃないか??と。

この常になにか作りたい、だしたい、ってなんの衝動??


3番目が幼少期だった数年前にもネットと向き合ったときに出るものがなかったのはさすがに大きくなったとはいえ上に小学生2人に幼児を抱えてたら子育てでの余裕がなかったからそんな衝動がなかっただけでいまはその当時と違い上2人に少なくとも手がかからなくなった分、余裕ができてるからモヤモヤしてその行き先にツクリタイでごまかし見せてるのでは···??と。

小1がいるので学校の終わりは短く、時間制約がなにかとあり、自由度は少ない。

なにがしたいか、は掴めてないけれど、
大掃除するならがっつりやりこみたかったり、
お菓子をつくるときはほんとは2、3種まとめて焼いたり、1人生産工場みたいにするとき、など(きょうみたく1日キッチンと往復みたいな)あるはある、たしかに。
そしてこれらは家にいなきゃいけない中でできる唯一のわたしのしたいことで。
上の2人を3学年差で産んで、上が小2、下の子が年中のタイミングで妊娠し、第3子が産まれたのが小3、年長だった。
そのため必然的に家にいつづける時間が継続され、専業主婦をやっている。
育児は面白いし、上の2人は個性的だったのでなにかとフォローも実際必要だった。

手っ取り早い、達成感。


そんなかんじに続いてきた子育てのなか、いまでこそ時間帯バラバラ、歳も離れてて一見子育て一段落にみえるけれどやっぱりまだ手が必要だったり、そもそも自分の中のしてあげたいことだったり、いろんな都合を考えると自分のしたいことを一番にはアウトプットできない。

かつて社会人の頃モノづくりをしていたが延々作ってたい!しあわせ!なタイプだっけ??と思い返したがちがうな、ちがうから事務に転職してるからモノづくりがしたい、はなんかちがう気もする。

出産し、子育てしてから1日が木っ端微塵に分断され、だけどほら自分次第だよ!時間あるでしょ、と夫に言われ続け、そのすきまでなにをするか、という日々で、そのなかでわたしが長年やってて(お菓子作りは10、11歳からやってるので30数年のルーティン)手軽に!時間の見通しもたてやすく、比較的達成感を得やすい、しかも家族にも歓迎される行為が「調理する」行為だったかもしれない、と見えてしまったのだ。

第一子のときはその料理やお菓子さえ赤ちゃん抱えてやるなんて苦痛でしかなく、かつてのmixiが唯一だった。
そこからのコミュニティ繋がりでお母さん仲間が出来たり、子の遊び仲間と出会えたり。

そこを通してもともとお菓子作りは趣味だったので最初は乳児を抱えながらお母さんたちとの集まりでよかったら、とおうちでデザートビュッフェみたいなことして集まったこともあった。

やがて子が大きくなってからは、家族のリクエストに料理を求められるまま、うちのシェフだよね、と呼ばれるくらいオーダーに応える日々を何年もしている。
朝も昼も夜も。

が、この数年なんとなくわたし飽きてる?と気づいてきたのだ。でも自分のしたいこと、やりたいことなんて他にない気がするのよね、、みたいな気持ちがあって漠然としていたモヤモヤ。
かといってお店やったら?も、仕事にしないの?も、なぜかずっとぴんとこなかった。

そりゃそうだ。
得てるものはここでの「達成感」であって、それは学ランの裾上げをやるだけでも満たされて、ミシンいじれば他にもなんか作りたい!て出てきては布をみてなんかしようかな、だし、この前はこのパン作ったから今度はこっちに挑戦、とロールパン、メロンパン、チョコチップスティックパン、と、ただひたすら「家の中」という制約上だからたまたまできることでやれることだから次々作っていただけだったんだもの。

出るものは出る。

とりあえず末っ子が起きたのでここがわかったとこまでで一区切り。