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ふたのなりひら

2-1

 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

「『ピーターと狼』か?」
森が振り向くと、狼めいた白髪の男がほほ笑んだ。男か、もしくは女だろうか?森に判断がつかない。眉毛は薄く、色素が抜かれたように、目は碧い。碧い目は、森を静かに見据えていた。
 森は頷いて、携帯に出ると、耳を擽る編集者の言葉に、時折相づちをうった。そうして、また記帳に戻ると、相馬森と、丁寧に自分の名前を記した。携帯を切って、もう一度男を見ると、男は涼しげな目差しで、森を見続けている。気味が悪いものだった。しかし、森は男の目の碧さに、吸い込まれそうでもある。
「好きな曲なんです。」
森はそれだけ言うと、緩く波打った金髪をなびかせて、そのまま男に一礼をして、会場に入った。
 合成生物学の権威である、ケヴィン・ドライバー博士の講演会だった。森の所属する、季刊のサイエンス誌で、合成生物の特集を組むのだ。講演会の後、時代の寵児であるドライバー博士へのインタビューを予定していた。
 合成生物、つまり、種と種の混成というわけだが、自分と同じようなものだと、森には思える。十数年前は植物の塩基配列を解析し、それを組み合わせただけの粗雑なものだったようだが、しかし、それをより複雑で広範な改変を要する動物と動物との連結に移行させて、キメラの製造に成功したのが、ドライバー博士だった。
 空席を見つけて、腰を下ろしながら、配られた資料を見る。書かれているのは基本的なことばかりで、森に識っていることばかりだった。しばらく読んでいると、隣にあの男が腰を掛けてきた。森は横目で男を見たが、気付かないふりで、資料に視線を落としたままだった。男は、口元を緩めて、時折森を見てきた。だんだんと、何か馬鹿にでもされているような気がして、
「あの、どこかでお会いしました?」
男はかぶりを振って、
「美しい人だから。」
森はきっと眦をあげて、
「ナンパならよそでやって。」
「ナンパじゃない。美しい人だし、美しい名前だから、少し話したかった。あなた、フタナリヒラ?」
森は、驚きと、羞恥と、そして、怒りで眉根を寄せて、男を睨んだ。しかし、男はほほ笑んで、静かに頷いた。
「その金髪はウィッグ?」
「無礼ですね、あなた。」
森は、髪が逆立つ思いだった。火があがって、それは矢となって、男に向かったが、しかし、男は冷たい碧い火を目に湛えていて、それは静かに揺らめいている。なんら変わりがない。
「なぜ私の名前を?」
「あんたの後ろに並んでいて、あんたの後に記帳したから。声を掛けたのは、あんたが俺の好きな曲を、着信音にしていたから。美しい人だから。それくらいかな。」
森は、じっと男を見た。男の灼けたように白い髪は、白い狼を思わせた。
「私、仕事に来ているんです。あなたもそうでしょう?もうすぐ始まりますから、もう、放って置いてください。」
「ああ、悪かった。」
そう言うと、男は前を向いて、もう何も言うことがない。しかし、急に素っ気なくなると、それはそれで気になってしまう。美しい人と、そのように言われたからだろうか。すると、男はまた急に森を見て、
「シルヴィア。」
「何?」
「その金髪だよ。外国の人のようだ。」
「あなたの白髪もね。」
「俺はオランダ人だ。」
「ああ。」
音声同期システムを経由しているからだろうか、男の言葉は日本語に変換されて森の耳に響いていたが、しかし、アジアの血も混じっているように、肌にかすかに黄があった。
「やっぱりナンパじゃない。あなた、さっき私がフタナリヒラかどうか聞いてきたけれど、ご名答、私はフタナリヒラです。残念でしたね。」
「いや、シルヴィア。だからナンパじゃないって、そう言っているだろう?」
男は嬉しそうにほほ笑んだ。
「なぁ、シルヴィア。俺もフタナリヒラなんだ。」
男(女)はそう言って、森にウィンクして見せた。森に、彼(彼女)が嘘を言っているのではないかと、そう思えるほど、彼(彼女)は男寄りに傾いている。森はまじまじと、男(女)の顔を覗き込んだ。そうして、
「嘘。やっぱり男だね。」
「ほとんどの奴は騙される。特に女は俺を男だと思って、抱かれたがる。実際、俺は抱かれるのも抱くのも好きだ。」
「だから?フタナリヒラだってナンパの対象でしょう?あなた、美しい人だから、私に声をかけたって、言ったよね?」
「シルヴィアは自分を美しいと、そう思ってるんだな。」
森は顔が灼けたかと思った。そうして、前を向くと、照明が落ち始めた。
「なんでシルヴィア?」
「ラテン語でシルヴィアは森。または清らかな乙女だから。」
森は黙って壇上を見つめていた。靴音が聞こえてきて、場内の声が静止を始める。
「その金髪はウィッグ?それとも君の持ち物か?」
「持ち物?」
「君の持ち物だったら、とても美しいなと思う。」
「いいえ。私の地毛は黒髪。」
男(女)は頷いた。そうして、人差し指を脣の前に立てて、
「金髪ならシルヴィア。黒髪なら森。そう呼ばせてくれよ。」
男は(女)はまた前を向いて、そうして、静かになった。森は、幽かに口元を緩めて、そういえば、街中で同類に会うなんて、いつ以来だろうと、記憶を辿る。森が、今まで出会ってきたフタナリヒラは、数えるほどしかいない。それこそ、指折り数えるほどだ。森のように、正規の職員として世間で働いているフタナリヒラは珍しいものだった。大抵は、世間から離れているか、それとも、大手を振って世間に打って出るかの二通りだが、前者が圧倒的なマジョリティで、森は特異な後者に属している。
 音楽の才能があると言われて、自分で作曲をしていたが、しかし、音楽ほど才能が俄に解るものはない。フタナリヒラの作曲家として一時有名になれたとしても、それは世間の慰み者でしかない。音楽を産み出すのは、趣味に留めていた。森に、音楽は安らぎであったが、野心ではなかった。そうして、野心は別の分野、ジャーナリズムへと傾倒したわけだが、しかし、結局今の仕事を得ることが出来たのも、森個人の論文が評価を受けたわけではなく、フタナリヒラが書いた論文であることが、彼女(彼)を押し上げたのかもしれない。
 そのようにして、社会進出の飛躍の機会を恩恵として賜ることがフタナリヒラには多いわけだが、他の野心家と同様、森もまた、実力で屈服させてやりたいと、そう心根では考えている。自分と同じように、様々な分野で成功を夢見るフタナリヒラを、彼女(彼)は幾人も見てきたけれど、やはりその数は少ない。特に、真っ当な仕事では。芸術家のフタナリヒラがいた。彼(彼女)は金属を扱うことを専門としていて、名前は竺原といった。竺原は、バーナーで金属を自由に操る焔の魔術師と大袈裟に呼ばれていて、彼(彼女)の製作した金属製の仏像が、フランスで大きな賞を獲得したのだ。その仏像は、竺原同様両性具有の仏像である。同業者は妬み嫉みで竺原を攻撃した。竺原、あらゆる美術誌の誌上で、徹底応戦の構えで、より攻撃的に、美術界の重鎮を含めて、自身を非難する全ての関係者に苦言を呈した。森は、そのロングインタビューに目を通し、理路整然と自身のアイデンティティと芸術との融和に関して強く訴えている竺原に、深い印象を抱いた。森は、自身が古美術商に育てられた経歴を買われてか、竺原の取材を命じられて、フタナリヒラがフタナリヒラについてインタビューを行ったわけだが、実際に会った竺原は、誌面で見せる苛烈な印象とは真逆の、同業の誹謗中傷にひどく傷ついていた姿だった。そうして、森がフタナリヒラであることを見て取るや、涙を浮かべて、自身の寄る辺のなさ、そうして、フタナリヒラであることを武器に闘っていかなければたちまち自身の価値が無くなることが世の真理だとそれを理解していて、しかし、その上で縁ほどの綱の上から落ちぬように否定しなければたちまちに滑落しうるジレンマに引き裂かれていることを訥々と語った。延々と、延々と語った。そうして、竺原は目を充血させて、怒りに震えながら悲しみに貫かれながら、自分の恋人のことを語り出した。インタビューは、いつの間にか美術の話から、彼(彼女)の性の私生活に入り込んでいった。合成麻薬を使用して乱交パーティに明け暮れた爛れた日々を救うために、仏像に両性具有を託し、性器を取り付ける内に、自身の二つの性器に対して怒りの感情が昂ぶり、一方の欲情の塊をバーナーの蒼い炎で焼き切ったと、そうしてその跡を見せてくれた。そうして、自分は男寄りのフタナリヒラではあるのだが、しかし、このように自分の半神を殺したことで、今の恋人たちのほとんどが男性であって、しかし、女性にもまだ欲情していて、それは指先を分身に見なして遊ぶことでしか得られない快楽であって、もはや女性を悦ばすことの出来ない不能者であることに、どうしようもなく苛立ちを抱えて、自分で自分を犯すこともあると。もちろん、幾本もの指先で。
 そのようなことを聞かされて、森は辟易とした。森に、関係のないことだった。フタナリヒラは、性の悩みで引き裂かれている。それは、森も、竺原も、今まで会った数多のフタナリヒラも同様にだろう。

 ステージに、ドライバー博士が現れた。遠目で輝いて見える、美しい黒石のような靴が、彼の髪色と対象である。白髪は、横にいる彼(彼女)を彷彿とさせた。そうして、幽かな顔立ちだった。男性であることは間違いないが、線が細いからか、女性的である。本来の女性的、という意味合いの、美しい立ち姿である。ドライバー博士は、オールバックにした豊かな白髪を指先で撫でつけて、ロックスターめいた出で立ちで、マイクを握ると、静かなほほ笑みを浮かべた。
「本日はお集まり頂きまして、ありがとうございます。合成生物、その、特異な生き物の話、そうして、その特異な生き物が今後この世界にどのような影響を与えて、その如何で我々人類が迎えるプロセスと、結果生まれるであろう、新しい人類に対して、今日は私なりの見解、まぁ、私なりの答えというもの、答えというと、それは解ということなのかと、皆さん、そう思われるかもしれませんが、あくまでも、私にとっての解です。その解を皆さんにお伝えさせて頂きます。ここに来られている方は、私の研究に興味のある方がほとんどだとは存じますが、安くない聴講料を払って頂いていますから、私も誠心誠意、話をさせてもらいます。まぁ、マスコミ、メディア関係の方は、会社の経費持ちでしょうから、欠伸をして頂いても、眠って頂いても構いませんよ(会場の笑い声。わはは。あはは。ふふふ。)。さて、先程、私はプロセスと申しました。私の研究は、まだ結果ではない。過程なのです。私の研究である合成生物。つまり、キメラでありますが、そのキメラとは、DNAの塩基配列に少し悪戯をしまして、継ぎ接ぎの、簡単に言うと、フランケンシュタインを製造する、そのようなものですが、そのフランケンシュタインこそが、問題なのです。メアリー・シェリーのフランケンシュタインは、文学に目覚めますが、我々のフランケンシュタインはやはりまだキメラでしかありません。それは、人類の複製とはまるで違うものです。私がプロセス、そういう言葉を使っているのは、このキメラは、即ちフランケンシュタインまでのプロセスであって、そのフランケンシュタインは、複製人間へのプロセスだということです。複製人間、それは、まぁ、SF映画でよく目にすることのある、人間を模した者ではない、完全なる人間です。人間が、人間を作る。そうして、出来る事ならば、私は、新しい人間ではない、過去に生きていた、偉人を復活させたいと考えています。偉人、というと、誰を思い浮かべるか。例えば、イエス・キリスト。それとも、アドルフ・ヒトラー?(会場、乾いた笑い声)どちらかを選ぶのであるのならば、キリストだ。キリストは、一度復活しているわけですが、それならば、ピラト提督を再生させて、彼にもう一度キリストを処刑してもらいましょうか(客席、微かにブーイング)。つまり、そういうことです。狂った、定まらない、あり得ない、そのような事が、複製された人間ならば、お芝居を演じるように、簡単に出来てしまう。複製された、その人間が、複製された、オリジナルとは同じ素材のその人間が、新しい何かを起こす事、そのようなことがあるのであれば、それはこの世界に意味のないことの証左になり得るのではないでしょうか?(つまり、それは、あなたは神の存在証明をそのような形で取ろうとお考えだと?/会場からの質問)ちょっと、お待ちなさい。これは記者会見ではありませんよ。質疑応答はありません。まぁ、でもそうですね、講演の最中の会見も、たまにはいいものですから、お答えしましょうか。神の存在証明。そうですね。それももちろんあります。人間の自由意思であったり、予定説であったり。そのようなことは、科学者や研究者、特に哲学者にはとっては宿願の命題ですね。結局、人間が人間を作れる、命を操作出来るとすれば、今までの歴史は何だったのか、神の存在証明に繋がるでしょうね。『2001年宇宙の旅』をご存じですか?あの映画に出てくる、モノリスのようなものです。私にとっての複製人間はね。複製人間は、あくまでも装置でしかありませんが、その装置が生まれることで、人類の可能性は大幅に開かれるでしょう。人類の選択肢は大幅に増えるでしょう。そうして、疑念も、大幅に肥大するでしょう。命を操作する。これはもうあらゆる国々の科学技術で、他の動植物ではもはや掌握されたことではありますけれども、しかし、完璧な人間、神の似姿を産み出す事が出来るのであれば、完璧な虚無を識ることができます。(完璧な虚無、とは何でしょうか?)完璧な虚無とは、私が感じているものです。私が、人々に対して抱いている感情です。私が、人形に対して抱く感情です。私が、産み出したものに抱く感情です。」
森は、ドライバー博士がこちらを向いたのに驚きながら、その言葉を聞いていた。実際は他の聴衆に、そして、質問をした隣の男性(女性)に向けての視線だったのだろうが、森は、ドライバー博士の目の中にもまた、虚無というものが見えて気がした。そうして、完璧な虚無とは何かと質問をした彼(彼女)は頬杖をつきながら、幽かに頷きながら、ドライバー博士を見つめていた。互いに、冷めた眼をしているように見えた。
 完璧な虚無とは何か。完璧な、虚無。それは、私たちのことでしょう。そう、彼(彼女)に心で問いかけると、彼(彼女)は、森を見た。森は、はっと、金髪で心を隠した。きっ、と見返した。そうして、いつの間にか歯噛みしていたのか、碧い目の中に映る口紅が幽かに乱れていた。それは、先程からだったのだろうか、名も知らぬ彼(彼女)の言葉か。
 ステージに視線を送ると、ドライバー博士は、タブレットを操作し、壇上のスクリーンに、裸体のマネキンめいた死体がいくつも映し出された。白い素体のようで、まだテスト段階のレプリカの肉体だと説明がされる。そうして、偉人のモノクロの写真が何枚もスライドして、そのマネキンの顔形の上に投影されると、出来損ないのコラージュのように、肉体が変形するレタリングムービーが流れる。その、奇妙な映像を見ながら、宛ら自らもこのように試検体として、人々に奇異の目で見られている、そのような舞台は、今も世界のどこかであるのだろうと想像を巡らせる。人権など過去の遺物であり、ただのお為ごかしだ。ジャーナリズムの世界に身を投じることで、森にはそのことが痛い程に理解できた。フタナリヒラが生まれてから半世紀の時が経ったが、しかし、まだ寿命や疫病で死んだフタナリヒラは少ない。自分たちの医学の進歩が、自分たちの先達の身体で賄われているとして、共産圏の国々に生まれたフタナリヒラ、或いは一神教の神々の国に生まれたフタナリヒラは、解剖や処刑などの、中世以前の悪魔的な価値観の犠牲者だろう。半世紀、五十年以上経ても尚、である。
 ドライバー博士は、虚空にペンライトでレタッチしながら、時折、その光が彼の髪をも透過させた。森は、古村は思い出していた。もう隠居して、今は化野近くに邸宅を設けて、古美術と暮らしている。一度訪なったことがあったが、もう以前ほどの鋭い目をなく、ただ過ぎる時間を享受している一人の老人に過ぎなかった。そうして、古村を思い出すたび、風鈴の音が、耳を掠めるである。昔、ここは風葬の場だったと、化野念仏寺のたくさんの地蔵たちの前で、古村は説明してくれた。身寄りのない者や、親よりも先に死んだ子供たちがここで埋葬されたと。京の都には、三つの風葬の場があると、その折りに教わった。化野、洛北蓮台寺野、そうして、西院である。西院には昔、今の天神川と思しき佐井川と呼ばれる川があり、その河原を、賽の河原というのだと、そう言ったのだと言う。賽の河原という言葉に、幼い日が思われた。森の初めての先生だった、恵がその言葉を頻りに話していた。どうしてなのか、あの頃は朧気だったが、今では、なんとなく胸に染みるのがわかる。古村は、地蔵たちをいつも詣るのだというが、それが何故なのか、大人になった森には教えてくれなかった。子供の頃ならば、教えてくれたのだろうか。森は答えが欲しい子供だった。それは大人になっても変わらない。そうして、答えが識りたいのに、先生たちからもう巣立ってしまった。
 ドライバーの、誇大妄想とも取れる話は延々と続く。二時間ほど経ち、流石に疲れてきて、森は一度席を立った。そうして、手洗いをすまして、鏡を見ると、口紅を塗り直した。シルヴィア。美しい響き。森。美しい言葉。二つは、異なる国々で、同じ意味を持つ。何故だろうか、美しいものを、人は人に授ける。
(シルヴィア、ね。)
自分を見つめる金髪の美女は、のど仏が幽かに出張っているが、しかし、それは李先生よりも、仄かで、こうしてみると、自分は女である。大人になって、女へと傾いて、自分の中で、折り合いがつかずにいて、しかし、それも思春期のつまらない感傷だと、そう割り切って、女装めいたことをしてみせる。人は森を見て、すぐに違和感を抱くが、このウィッグを被れば、大抵は雑踏に紛れたままでいられる。ウィッグを外して、自分の切り揃えられた前髪を見る。黒色は、どちらの遺伝?当然、父も母も、どちらともだ。自分の性も、父と母、どちらともだ。
 森は、ウィッグを被り、化粧を調えると、化粧室から出た。会場へと戻る道すがら、狼が椅子に腰掛けて、森を見つめていた。冷たい、碧い目である。
「もう帰ったのかと。」
「化粧を直しに。」
「前半が終了したよ。それなのに、まだ喋ってる。」
狼は呆れたように、肩を竦めてみせる。そうして、森を静かに見つめた。やはり、碧い火のようだ。そうして、中央が透明で、どこまでも冷たい。雪のように灼かれた白い髪が、男(女)を人間ではないもののように思わせる。
「どう思う?」
「どうって?」
「まぁ、座りなよ。」
狼は隣に座るように頤で促したが、森は対面に置かれた椅子に腰掛けた。そうして、じっと狼を見据えた。
「ドライバー博士。あれは誇大妄想家だけど、実際にそれを現実にしてしまう力がある。」
「複製人間?」
「要約すると、複製された人間を作り、神さまになる。」
「神の存在証明でしょう。神になるとは一言も。」
「同じ事だ。でも、それがあの男のミステイクだな。」
「どんなミステイク?」
「生物は世界の一端でしかない。宇宙には、あらゆるシステムが構築されている。それを解き明かさないと、神さまにはなれない。」
「でも、進化の一助にはなる。」
狼は頷いた。そうして、
「ディビッド・ボウイに似てる。」
「ああ、それ、私も思った。」
森はほほ笑んだ。そうすると、狼も口元を緩めた。ロック・スターだと思えたのだ。ディビッド・ボウイにそっくりなのだ。ドライバー博士は。アメリカの科学者なのに、英国の匂いがする。
「ディビッド・ボウイは、『ピーターと狼』のナレーションを担当しているんだ。君の携帯の着信。ドライバー博士。二つが繋がった。」
狼は人差し指と人差し指の腹を空中で突かせあった。
「なぁ、シルヴィア。シルヴィアは、他のフタナリヒラに会ったことは?」
「どうしてそんなことを?まぁ、あまりないよ。私たちは、特殊。ほとんどが在宅か研究機関に勤務している。世間から隔てている。」
狼は頷いた。そうして、目を細めて、
「そうなんだ。俺たちは特殊だ。俺も、今までは指折り数えたほどしか、偶然にフタナリヒラに会ったことはない。」
「今日はその指折りに含まれるの?」
「ああ。だから、ドキドキしている。お仲間だと、口笛を吹いた。」
そうして、急に、狼は脣を窄めて、遠吠えを鳴いた。ロビーに響き渡る、呼び交いの鳴き声だった。森は驚いて、人差し指を脣に当てて、静かにするように促したが、しかし、狼は嬉しそうに、また鳴くのだ。次第に、森はおかしくなって、その様を見つめていた。
「あなたは、男に随分寄っているんだね。」
そう、改めて狼の姿を見つめて、森は呟くようにそう言った。狼は、頬杖をついて、天井を見上げた。
「ああ。俺は、何人かのフタナリヒラに会ったけれど、皆、やはり一所ではいられない、それは性別のことだけど、行ったり、来たり、なんだな。でも、俺は、あくまでも男のようで、不可思議なわけだよ。もちろん、どっちもついてる。シルヴィアは、女寄りなんだな。」
森は頷いた。そうして、この、自分をシルヴィアと呼ぶ男が、次第におかしく、興味深くなっていって、気付くと、彼を自身のアパートメントに呼んでいた。それは、御無沙汰だったからかもしれない。仕事を放り出して、このようなことをしているのが、森にはひどく冒険のように思えたが、しかし、これは、両親の遺伝かもしれない。両親もまた、どちらも冒険家だった。
 アパートメントでコーヒーを淹れている最中、狼は興味深そうに、壁に架けられた絵の幾つかを見つめては、
「抽象画だな。俺にはわからん。命?」
「李禹煥。識らない?」
狼は受け取ったコーヒーを啜りながら、頷いた。子供のように見えた。
「シルヴィアは芸術が好きなのか?」
「先生がね、好きだった。だから、その影響かな。」
なぜか、シルヴィアと言われて、取ろうと思っていたウィッグをそのままにした。狼は森の机の上に置かれた碁石を見て、
「日本のボードゲーム?」
「ああ、囲碁。」
「シルヴィアは打つのか?」
「下手なりに。それも、先生の影響。」
「美しい遊びだ。」
森は頷くと、そのまま、ベッドに坐りこんで、森はコーヒーを啜った。そうしていると、狼が隣に座って、森のウィッグに触れた。それから、乳房に。そうして、脣に。森は何も言わずに、狼の指先を見ていた。線がぶれた。女のように、狼の脣に、憂いが帯びた。四人の性が、交わっている。四季のように、代わる代わる。森は春だった。狼は夏だった。そして秋にもなる。そうして、森は冬になった。狼は、森の名前を呼んだ。シルヴィア。森。二つの名前。どちらを呼んでも、同じものを愛している。それは、男である森、女である森。或いは両方である森。狼は、森の上着を脱がすと、黒いレースの下着から透ける、美しい二つの乳房を、その碧い目で愛おしんだ。そのまま、下を脱がすと、狼は、呼びかいの鳴き声をあげた。呼応するように、森は幽かに鳴き声をあげた。互いに、呼び合っている。二本のペニスと二つのヴァギナは、収まるようでうまくは収まらない。ちょうど、二つずつあるのにと、互いにおかしかったが、しかし、ある時は森が上になり、狼が受け入れた。そうして、また代わる代わる、互いを受け入れた。
 奇妙な儀式が終わると、狼は果てた身体を森に預けて、森は、何も無い、自分の簡素な部屋の天井を見つめた。白い電灯が音も無く輝いている。そうして、右手をお腹に添えると、妙な感慨が湧いてきて、森は、目を閉じた。赤ん坊。男の子。女の子。どちらでもある。そうして、その赤ん坊が、森の乳房から、ミルクを飲む。どんな名前が、君に似合いだろう。森は目を開けた。狼の姿はなかった。

キャラクターイラストレーション ©しんいし 智歩

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