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薔薇の踊子

1-9

 公武に送られて、家に帰ると、もう娘心が疼いて、火のようになっている。そうして、それが自分の中にだんだんと、手のつけられない獣のように思える。くるくると心が回って、それは、自分の心がバレエを躍るようだった。天井の灯りに、白薔薇を透かして、脣を近づけて、やわらかい花弁に触れると、幽かな匂いが漂う。
 絵里奈が部屋に入ってくると、恵は何も言わずに、ただ白薔薇をそっと用意して置いたグラスに差して、
「お帰りなさい。」
「あら。お花?」
「お誕生日のプレゼント。もらったのよ。」
「もう?随分気の早いプレゼントね。」
くすくすと笑いながら、絵里奈は椅子に座ると大きく伸びをした。
「白鳥はどうなの?」
「よくぞ聞いてくれました。」
そう言って絵里奈は立ち上がると、伸びやかなパンシェを見せた。
「とても難しいわ。やっぱり、王道は難しいのよ。特に、黒鳥のグラン・フェッテはね。」
「あんなフェッテ回れない。私なら目が回っちゃう。」
「めぐちゃんはピルエットをとてもきれいに回るじゃない。妖精みたいにくるくるくるくる。」
「きれいに回れるのは三回転くらいだわ。えりちゃんは四回転でも五回転でも、きれいに決めるでしょう。」
「支えてもらえてたらね。公武さんはサポートはお上手?」
公武の話が出て、恵は思わずほほが火照った。恥ずかしいのを押し隠そうと、苦笑いをしてみせると、
「ときどき、なんでこの人は、こんなに踊りが上手いんだろうって思うわ。そうしたら、彼がニジンスキーの複製人間なんだってことを、思い出すの。あの人、何かを伝えるのも苦手なのよ。」
「その辺りもニジンスキーなのね。」
絵里奈はくすくすと笑って見せて、また回転してみせた。
「めぐちゃんのジュリエットはどうなの?」
「公武さんのジュリエットね。野生のジュリエットを踊って欲しいって、公武さんは言うの。今は、その野生というか、野蛮……、なのかな?そういう空気を纏って欲しいって。正直、よくわかんないわ。」
恵が首を傾げて苦笑いをすると、絵里奈は感心したように、
「それでサタネラのヴァリエーションなのね。」
絵里奈は、最近恵がよく口ずさんでいるのを、耳ざとく聞いていたようで、
「そう。小悪魔で、魔性ってよく言うでしょう。私は魔性って、そんなの言われてもわかんないんだけど。」
恵は頷きながら、また困ったように笑う。絵里奈は恵を見据えて、
「魔性の女なら、バレエの演目にはたくさんあるわね。でも、確かにめぐちゃんは、お姫さまよりも、そういう無邪気というか、お転婆なのが似合うわね。」
「そ。だからえりちゃんが羨ましいわ。だって、私なんてキャラクターダンサーだもの。」
「あら。キャラクターダンサーって、素晴らしい資質だわ。だって、今のバレエ団って、いいえ、昔からだけど、いつだって斬新な演目を求めてるし、それにはキャラクターダンサーは欠かせないわ。主役を食べてしまうわ。それに、もうクラシックも一層古いじゃない?コンテの出来るダンサー、それもキャラクターダンサーだなんて、一番世界的に必要とされる資質よ。」
いつになく強気な声で、絵里奈はそう言った。そんなものだろうかと、恵には思えた。そういえばと、屋敷で練習をしているときに、公武から聞いた話を思い出した。今の時代は、ますますコンテンポラリーの素養が必要になってくる、そうして、斬新な踊り、演出が求められている。世界の一流所で勝負するためには、新しい発想と踊りが必要になる。
「もちろん。それだけに溺れずに、クラシックは徹底的に身体に馴染ませる必要がある。」
公武はそう言っていた。そうして、『くるみ割り人形』や『眠れる森の美女』のDVDを恵に見せるのである。それは、マリエンスキーやキエフ、パリ・オペラ座の一流どころだが、彼の考えとして、よく観ること、よく知識を蓄えることは、振付の一番の勉強になるという。そうして、彼は画面を見つめながら、何か呟くように、指先で空想のスケッチを描く。恵は何も言わずに、公武とテレビ画面とを交互に観る。
「古典を転生させるのはモーリス・ベジャールの得意とすることだけど、あれだけ才能があるのを観ていると、いやになってしまうね。」
公武は自嘲するように笑ったかと思うと、赤い円卓で踊り跳ねるジョルジュ・ドンの、汗に光る肉体に見入っている。
「でも、コンテだけじゃ駄目って、公武さん言っていたわ。クラシックがいつでも軸には必要だって。」
恵は、自分にクラシックの技術が足りていないのを自覚して、言い聞かすように、そうして世界を目指す絵里奈への元気付けとして、力強く、その言葉を口にした。
「めぐちゃんも観た方がいいわ。」
絵里奈は机の抽斗から一枚のDVDを取り出して、恵に手渡した。その透明のケースに入ったディスクを観ていると、マジックの手書きで、『○○回ローザンヌ国際バレエコンクール』と書いてある。
「えりちゃんが出たローザンヌね。」
「来年もめぐちゃん、応募するでしょう。」
「どうかな?わかんないわ。」
「めぐちゃん、人が変わったみたい。踊りが変わったみたい。今のめぐちゃんなら、絶対に出場できるわ。入賞だって、夢じゃないわ。」
「大袈裟よ。」
絵里奈の言葉に、恵は両手を振って苦笑いした。そんな恵の様子をよそにして、絵里奈は言葉を続ける。
「大袈裟じゃないわ。本当に、公武さんと踊るようになってから、花が咲いたみたいに、違う踊りよ。ねぇ、めぐちゃん。世界のバレエ学校に行けるチャンスがあるのよ。」
ローザンヌ国際バレエコンクールでスカラーシップを取れば、確かに一気にバレエ人生が開けるだろう。しかし、それは、一度挫折した幼い恵にはまだ夢物語めいて聞こえて、また首を振った。
「まだ時間があるから、考えておいたらいいわ。それにほら、そのDVDは観ておいてね。出場選手のほとんどが、コンテの得点がいいの。時代性がわかるわ。」
絵里奈はそう言うと、そのまま部屋を出て行って、取り残された恵はディスクを片手に、しばらくドアを見つめていた。
 絵里奈の言うことは理解できた。しかし、自分の中でまた芽生えたバレエへの熱は、ただ秋の学祭での公演を、公武と作り上げるジュリエットを、なんとか表現したいという感情だけだと思えていた。しかし、絵里奈の去った後に、誰もいない居間のソファで観たローザンヌのDVDは、恵の感情を大きく揺さぶった。まだ、十五、十六、十七、十八の、自分とさして変わらないダンサーたちの踊りを改めて観ていると、うっとりと御伽めいた美しさ、揺らめきに、自尊心が擽られる。そうして、公武と初めて会ったその日に見せたアラベスク、あれがまた見せられるのならば、ここにいる誰にも劣らない踊りに成るのではないかと、そう思える。立ち上がり、リビングでパッセして、そのままシェネを上げる。間違いなく、以前とは比べるべくもないほどに、磨かれて、天にも上がるようになっている。自己に起きた革命に、恵は打ち震えるようだった。
 絵里奈は当然、またローザンヌに参加して、来年の夏からのバレエ留学を考えているのだろう。恵はソファに寝転ぶと、かすかに顔を上げて、テレビの中で踊る若いダンサーたちを見つめた。公武は、日本人はクラシックに強いが、コンテンポラリーに弱いというのは過去のことだと言っていて、その古い価値観も置き去りにするほどに、世界とは僅差だという。それでも、現在最もコンテに強いのはアメリカだろう。アメリカの若手たち、それからヨーロッパのダンサーたち。アジアの踊り手にはない力強さしなやかさが、絵里奈の立ち向かうべき相手だろうか。決勝に参加している踊り手たちを一通り見終えると、恵はまた身体を倒して、天井を見上げた。テレビからは、聞き慣れない言葉が流れてくる。フランス語だろうか。そうして、もう一度顔を上げると、ブラジルの、美しい黒人の少女が踊っている。
「しなやかだなぁ。」
恵は思わず独りごちて、少女の踊りに魅入る。黒玉よりも美しい肌色は、目を奪われて、彼女らの武器の一つだろう。自分の個性というものが、この年代の娘たちからは浮かびあがってくる。恵は、公武の褒めてくれた一つ一つを思い出しながら、頭の中でステップを踏んだ。

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