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赤目四十八瀧心中未遂の純文学性

※ネタバレしています。

『赤目四十八瀧心中未遂』は車谷長吉の長編小説であり、直木賞受賞作である。
車谷長吉は私小説家であり、27歳くらいで新潮新人賞候補になった。基本的には、反時代的毒虫を標榜しているだけあり、その作風も暗く暗澹たるものを抱えている。

『赤目四十八瀧心中未遂』も私小説であり、今作も車谷長吉の体験をベースに、一つの心中(未遂)へと至る恋愛事件が書かれる。
尼崎のボロいアパートにやってきた主人公の生島は、毎日ゴミ袋に入れて運ばれる腐った豚の臓物を串に刺す仕事をしている。その串はその界隈にある女主人の串屋で客に提供されるのである。彼は、もう世を捨てていて、ただ生きているだけである。この界隈には妙な人物ばかりいて、完全にダークサイドなわけであるが、そこに綾ちゃんという、ドブ底に似合わない美女がいた。生島と綾ちゃんはだんだん親しくなるが、綾ちゃんを囲っている恐ろしい男がいて……という内容である。

凄まじい小説である。他の小説とは、クオリティが段違いである。よく出来ている。

基本的に、生島は車谷長吉である。中盤、編集者が生島のアパートに訪ねてきて、「何やってんすか。東京に戻って小説書きましょうよ。」と説得する。この編集者が新潮編集者の前田速夫がモデルなわけだが、生島がそれに応じないでいると、「ち。小説を書かねぇんならあんたに用はないよ。」とキレ気味で帰ってしまう。
彼は、『贋世捨人』にも登場するが、車谷の才能を信じ切っていたのだろう。そして、車谷のこの強烈な自己愛が、このエピソードが印象的に書かれるだけで、作中にも横溢し始める。

ちなみに、前田速夫は平野啓一郎の持込原稿の『日蝕』を、賞などを通すことなく紙面掲載をした。平野啓一郎は熱心な手紙を書いてよこしたそうだが、前田は審美眼がある男なのだろう。然し、このような事例があるのだから、新人賞とは何なのだろうか。

『赤目四十八瀧心中未遂』は、車谷流の貴種流離譚なのである。やんごとなき身分のものが外界を冒険し、王(小説家)に相応しいものになって戻ってくる、そういう構造である。

然し、車谷の貴種流離譚においては、貴き者として終わるわけではない。あくまでも、自分が贋世捨人だということを突きつけられて終わるのである。
この客観性が、車谷長吉の真髄である。いや、私小説家というものは、奔放や破滅的に見えていて、実にクレバーで客観性のある人種なのである。

今作のラストは素晴らしい虚無に満ちている。
全てが夢だったように思える。現実の底辺を、厭世感に囚われたインテリが世捨人を気取って体験する話である。
ここで会う人と、心が通い合うようで、通い合わなかった。全て、自分とは違う人種だとまざまざと突きつけられる。その苦海に飛び込む勇気を、最後の最後で生島は持てないのである。
それは、宮本輝の『泥の河』における少年二人の生きている場所の断絶のようなものである。

最後の数ページ、年月を経てまたあのアパートに戻ってくる生島に、以前はいた住民が一人もおらず、南京錠がかかっている姿が出迎える。そして、そのアパートの中は、真っ暗な闇。誰もいない闇の中で生島は立ち尽くし、この小説は終わる。

素晴らしい傑作である。直木賞受賞はまっとうな評価で、車谷曰く、本来は芥川賞だが、長編のため直木賞になったと言っている。確かに、これこそ純文学であろう。車谷は徹底的に、自己を相対化し、自己を書いている。それゆえに、他者もその心情に共鳴する。これが純文学であると私は思う。

ちなみに、平野啓一郎が見いだされたとき、三島由紀夫の再来と言われていて、車谷長吉はそのことを少し皮肉って文章にしていた。
どちらも、同じ編集者に見いだされた。そして、車谷長吉のエピソードで一番好きなのは、バスで三島由紀夫を見かけたという話。三島由紀夫もバスに乗るのねん。


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