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薔薇の踊子

1-20

 新学期に、久しぶりに会った柚希は、少し日に焼けていた。指先に切り傷と、タコがあって、ベース?と尋ねると、嬉しそうに頷いて、首でリズムを取った。
「恵も早くね、ドラムやろうよ。バレエと両立だよ。」
「あと二週間だもん。でも、本当にギター始めたんだね。学祭には間に合わないかも。」
「聖誕祭があるわ。イエス様の代わりに、私はギターで賛美歌を奏でるのよ。恵だって、三ヶ月もあれば形になるわ。」
恵は肩で笑うと、肌寒いものを感じた。夏の終わりが近づいていて、秋の匂いだった。そうして、恵は、空想のギターを奏でる柚希の隣で、空想のドラムを叩いてみた。こんな感じだろうかと、辿々しい手付きで奏でていると、柚希が笑って、
「上手い上手い。恵の音が聞こえたわ。」
柚希は花やかな声だった。どこか、夏の初めの娘の声が、少年の声変わりのように、色がついたように鮮やかだった。恵は手を止めて、
「難しそう。」
「簡単よ。お兄ちゃんの友達もやってるもん。様になってるよ。」
「そっか。柚希のお兄ちゃん、木屋町で働いてるって言ってたね。」
「そうそう。こういうのはね、習うより慣れろっていうじゃない。」
「聖誕祭かぁ。クリスマスだね。」
「そうですよ。クリスマスですよ。聖なる夜ですよ。ねぇ、公武さんとはどうなの?」
「何も無いわ。」
恵はかぶりを振って、柚希の視線を逸らすと、
「秋の学祭が上手くいったら、聖誕祭には『くるみ割り人形』でもやろうかしら。」
「『くるみ割り人形』?」
「クリスマスの一夜の夜の夢。クララの一夜の夜の夢。」
「ロマンチックね。あの不思議な音楽でしょう?たたたたん、たたたたん、たたた、たたた、たたたたた、たたたたとぅ……。不思議な音色。」
「チェレスタの音よ。ああ、柚希の下手な口まねでも踊りたくなっちゃう。」
恵は目を閉じて、クリスマスの聖誕祭を思い浮かべた。明日塔では、毎年クリスマス近くの終業式の前日に、イエス・キリストの聖誕祭が行われる。それは、大体がクリスマス・イヴか、クリスマスの当日なのだが、大抵は小学部の演劇か、高等部の演劇、高等部のブラスバンドの演奏、ハンドベル部の演奏がある。今までそれに、バレエがあったことは不思議となかったが、有志を集めて、やってみるのもいいかもしれない。女性だけの『くるみ割り人形』で、宝塚のようだ。くるみ割り人形の王子を、恵が演じて、クララは絵里奈である。髪を短髪にして、男装してみたら、どれほど楽しいのであろうか。そのような夢を、幼い頃はよく見ていたような気がする。くるみ割り人形に、王子に、ネズミの王……。それらが女であろうとなかろうと、クリスマスに見たまぼろしは、薔薇の精を夢見た少女に近しいが遠い。恵は、この夏に、この二人の少女を超えてしまったようだ。そうして、公武がいたらどうだろうか。クララを公武が演じる。クララになった公武は、恵よりも、絵里奈よりも花やかで、男装の令嬢である自分よりも、遥かに艶めいているだろう。恵は、また秋の匂いを嗅いで、視線を芝庭に移した。風が吹いていて、夏草の色合いが、くすんできているのが見えた。

 その日は、公武がレッスン場に来なかった。レオタード姿の少女たちに混じって、背の高い公武の踊る様がないのは、反対に違和感になっていて、吉村や、国元に尋ねても、連絡がつかないと言う。恵は、何か、妙な不安があって、公武にLINEをしたが、既読にならない。そうして、そういう状況が、レッスン終わりの八時まで続いた。恵は、妙な不安で、吉村に頼んで、居残りの練習で、遅くなると、加奈子に嘘をついた。加奈子は心配したが、吉村が送っていくと言うと、納得して、絵里奈と帰って行った。
「一時間で帰ります。」
恵はそう言うと、夜の闇の中を走った。走れば、十五分で公武の屋敷に着く。そうして、遠くに火のように燃えているアステカの舟に、恵は息を切らしながら向かっていく。そのうちに、高揚感で、羽が生えて、そのままフェッテをすれば、どこまでも跳んでいきそうだった。
 そうして、御心坂に着くと、虫の音が聞こえた。鈴虫の鳴き声で、肌寒い。暗がりの林は、空気が澄んでいるから、空も高いのだが、木々がそれを覆い隠して、遠くに陽炎のように揺らめく屋敷の灯りを辿って、恵は坂を登っていった。
 屋敷には、取り立てて変わったところはない。ゆっくりとインターフォンを押したが、何の返答もない。何かがおかしいと、恵はドアノブに手をかけて、そうすると、ゆっくりと扉が開いた。部屋の中は灯りが揺らめいていて、人気がする。恵は、もう何度も、そして久しぶりに訪れたこの屋敷の中をゆっくりと進んでいった。鼓動が、いつもの何倍もの速さで動いているようだった。闇の匂いに、数多の恐ろしい空想が育まれて、そうしてしだいに大きくなる鼓動が、いつしか恵の耳に貼り付いて、呼吸の音で息苦しくなる。廊下を進んでいくと、月明かりが窓から差し込んでいた。日の光と同じように、冷たい白色だった。人の気配はする。人の匂いはする。公武に何かあったのではないかと、恵は不安に苛まれて、足を速める。そうすると、廊下の奥、数段の小階段を上がったその先の小部屋に、微かに灯りが漏れている。その灯りの先には、扉一枚を隔てて、公武の部屋がある。恵は、何やら恐ろしいものに触れている感覚で、指先が痛むようだった。しかし、その燃え始めた指先を伸ばしながら、闇の中を進んでいくと、暗闇の中に、無数の目が光った。ブロンズの像で、それは猫や木菟や馬である。青銅の動物たちがその身体に鈍い明かりを称えながら、恵を見つめていた。恵は、小さく呼吸をして、肺から全ての息を出すと、それは踊る前の心地のように落ち着いた。いつも、通っていた頃に見ていた動物たちである。何か悪さをするものでもない。そうして、また歩を進める。その先の扉からは、確かに明かりが漏れている。その漏れた光を掬おうと掌を広げると、苦悶の声が聞こえた。恵が顔を上げて、息を顰めると、その明かりの中の闇を覗いた。恵は驚いて、そのまま口を開けたまま、その光景を見つめて、次第に息が苦しくなる。逃げるように後ずさると、組み敷かれた公武の目が光った。その目はたしかに恵を見つめていたが、常のように、海のように黒い。涙すら浮かばない。それなのに、水の感触を感じるのは、それは恵が泣いているからだろうか。それから先は、ただゆっくりと、地面の感覚もなく朧気な幽霊のように歩いて、この屋敷を出た。それは堂々とした歩みで、廊下を横切るときは、足音さえ立てたが、気にもならない。ただ、自分の中にある鈍痛と、あの公武の感じている熱い痛みが、等価のように思えて、それが哀しい怒りだった。
 御心坂を下って、自宅が見えてくると、レッスン場にレオタードを置き忘れたことを思い出した。もう何もかもが、夢かまぼろしの如くに感じられた。そのまま、風呂に入ると、公武の顔が浮かんできて、あの、川端の恐ろしい猛禽の目が、恵を見据えている。目に折り目が入って、風呂の湯を眺めていると、その湯気に自分の身体が溶けいくように思えた。
 そうして、記憶がもう遮断されたかのように、気付くと明日塔の校舎にいて、時間は矢のように過ぎていく。目の前で喋る柚希は、自動人形のように実体を伴っていないように思えた。回転する時計の進みが緩慢になって、それは自分の中の痛みと同化しているように思えた。

 放課後、一人食堂に戻ると、またシスターたちが集まって、今度は秋のタピスリーについて相談している。前にも見たような光景だと、恵がぼんやりと眺めていると、彼女たちの声は不思議と耳に入らない。そのタピスリーは、青を基調として、闇夜だった。春夏秋冬、校内を飾るさまざまで模様替えをするシスターたち。その闇夜のタピスリーは、数多の白い星が描かれていて、その一番上に坐すのが、青白い炎だった。瓦斯のように燃えている。
「『よだかの星』だ。」
後ろから声が聞こえて、振り向くと誰もいない。そうして、前を向くと、公武が座っていた。公武は、疲れたようなほほ笑みを恵に向けている。硝子玉のような瞳に皹が入って、さらさらと砂のように溶けそうなほどに、緩んでいた。
「昨日、家に来てくれていたね。」
公武が尋ねると、恵はほほを赤らめて、
「ごめんなさい。勝手に入ったりして。」
公武はかぶりを振って、食堂を見回した。
「久しぶりだね。今日は柳原シスターはいるの?」
「さぁ。授業、なかったから。」
恵は、公武の目から逃げるように伏し目がちになると、指先で椅子のほつれをいじった。幼子に退行したかのようで、心までがおどおどと、公武を遠くの人のように思った。しかし、公武は恵の様子に何か言うわけでもなく、シスターたちの話すのを眺めている。しばらくそうしていると、タピスリーが壁に掛けられて、シスターたちの笑いあうのが聞こえた。シスターたちが食堂から出て行くと、遠ざかっていく話し声が食堂に響いて、周りを見ても誰もいない。タピスリーは日の光を受けて、揺らめいていた。
「『よだかの星』は哀しい話だね。知ってる?」
恵はかぶりを振った。公武は、そうと、だけ呟くと、
「夜鷹は醜い鳥で、他の生き物たちから嫌われている。鷹からは、お前なんかと同じじゃ嫌だって言われてね。名前まで奪われそうになる。そうして、こんな醜い自分が生きているから、たくさんの虫たちが食べられて、命を奪われて、とうとう生きるのも嫌になる。彼は夜空の美しい星に憧れて、星たちにお願いに行くんだよ。どうか、僕も星にしてもらえませんかってね。それでも、星たちは言うんだよ。星にも尊いもの、高貴なものがあって、いくらかの金がなければね、星にしてもらうことは出来ない。そうして夜鷹は絶望して、たった一匹で、自分の力で星を目指すんだよ。」
「哀しいお話ね。」
「そう。でもね、最後には星になるんだ。全てを諦めながら、空に舞っていって、目を開くと、青白い火になって、星々の隣にいるんだ。」
青白い火という言葉に、恵は、壁に掛けられたタピスリーを見上げた。そうか、あの青白い星がよだかなんだと、恵は頷いて、そうして視線を落として公武に向けると、公武の目も青白いのだ。ロシアかウクライナの血だろうか。透明な青いガラスで、やはり人形めいている。その青い目で、青い火のようになって、公武は踊る。その踊りを思い出していた。
「宮沢賢治の童話。好きなんだよ。」
「他には何があるの?」
恵は幼い心に、また娘心に戻ったようで、そうするのが一番、蔭から離れることだと感じられていた。声は微かに弾んでいたが、潤んでもいる。
「何だろう。『やまなし』に、『注文の多い料理店』。知ってるかい?宮沢賢治は、生涯女性を抱くこともなく、また生涯に出した本も、自費出版の二冊だけ。死ぬまで無名だったんだ。それが今は、彼の宇宙は延々と広がって、日本の子供なら誰でも知ってる。」
「本が好きなのね?」
「御父様がー、」
川端の事を思いだして、恵は瞬間、氷が喉を下るように身を縮こまらせた。しかし、動じる様子を見せないようにして、公武を見つめると、公武はそのまま、その目を見つめ返して、
「彼の本を集めている。蒐集家だからね。そのどちらも、自費出版で、高価なものらしいんだけど、『春と修羅』という本にね、まぁ詩集なわけなんだけど、その本に惹かれたんだ。」
「詩ね?」
公武は頷いた。
「その中に、『永訣の朝』っていう、美しい詩があるんだよ。あめゆじゅとてちてけんじゃ……。」
意味がわからずに、恵が小首を傾げると、
「雪を取ってきてくださいませんか。そういう意味なんだ。岩手の方言。彼の言うところの、イーハトーヴだ。」
「あめゆじゅ……。」
「あめゆじゅとてちてけんじゃ。死の床にある妹に、最後の晩餐に、雪を食べさせてやろうとする、賢治の詩だ。」
「死んでしまうのね。」
「うん。死んでしまう。一番大切な人が、手から零れ落ちるんだよ。」
公武はそう言って黙ってしまった。恵には、わからなかった。公武が何を思って、このような話をしているのか。そうして、また公武が口を開いた。それと同時に、遠くから話し声が聞こえてきて、それはいつしか形を伴って、二人の前に現れた。高等部の生徒だろうか。菓子パンをかじりながら、楽しそうに話している。
「詩は、踊りみたいなものかなと思うんだよ。」
「詩が踊りね?」
オウム返しばかりになって、恵は思わず口を緩めてしまった。公武は頷いて、
「ポエジイという本があって、それは鈴木信太郎っていう、翻訳者の本なんだ。たった五百冊しかない。豪華本だね。鈴木信太郎は、彼も蒐集家だったんだ。古書のね。表紙には動物園が書かれているのかな、キリンがいてね。そのキリンが愛らしいんだけど……。まぁ、その本には、ステファヌ・マラルメの、『半獣神の午後』が載っていた。」
「マラルメ?」
「そう。『半獣神の午後』は知ってるだろう?ニジンスキーの、『牧神の午後』。」
そう言われて、目の前の公武が、牧神の衣装をつけて、あの古代エジプトのレリーフに倣った振付を踊るさまが、今ありありと目に浮かんで、恵は目眩がするようだった。しかし、目の前の公武は、変わらずに十六のままの公武である。
「マラルメは、詩を書いて、そうして、バレリーナは、踊って文字を書くんだって言っていた。だから、僕たちも踊って、それは言葉であるのかもしれないって、そう思うんだよ。ジョルジュ・ドンも、喋るのが苦手だって言っていた。それは僕も等しく同感なんだけれど、僕も、踊って、それが芸術であって詩でもあるのかもしれないと、まぁそう思うんだ。」
話し下手だと言っている割には、公武はぺらぺらと、お酒にでも酔ったかのように、言葉を連ねていて、それが恵にはおかしく思えたが、しかし、そのことには触れないで、
「公武さんは詩が好きなのね。」
「うん。だからね、君はローザンヌに行くって言ってただろう。」
「ええ。行きたいわ。公武さんもでしょう?」
「ああ。もちろん、そのつもりだよ。」
公武の言葉の繋がりの無さに、恵は戸惑ったけれども、そのようなことに、何の意味もないのが公武かもしれぬと、そうも思えて、恵はただ頷いた。
「ビデオの審査の締切が、もう近いだろう。」
「九月の終わりだわ。」
「そう。今、教室で、深雪もそのための練習で、てんてこ舞いだって、言っていたよ。」
「私なんて、その振付すらままならないの。二つの公演で手一杯。」
「うん。だからね、この公演のビデオも送ろうと、前から思っていたんだ。そうすれば、二人とも特例で通れるさ。」
「この公演って……、『ロミオとジュリエット』?」
「それ以外に公演なんてないじゃないか。」
恵は腕を組んだ。ローザンヌのビデオ審査に、公演のビデオを送る。そんなこと、ルール上、問題ないのかしらと、恵は首を傾げて、一月ほど前に、絵里奈がネットからダウンロードした資料の要項を思い出そうと、頭を捻った。しかし、思い当たらない。
「それからさ、もう一つ。今考えていることなんだけど、さっき話していた宮沢賢治。」
公武の話がぽんぽんと、主題を変えて跳んでいくから、それに追いつくのが、公武とのパ・ド・ドゥを思い出させた。
「あめゆじゅちとてちてけんじゃ。『永訣の朝』だよ。あれを、詩で振り付けたんだ。それを君のビデオに忍ばせるのはどうだろうか。」
「そんな。ルール違反なんじゃない?創作ダンスなんていいのかしら?」
「ああ。クラシックは課題曲から自由に選ぶ。そうして、コンテも課題曲から一つ選ぶ。それと、自由に一分間踊るものがあるんだよ。それはコンテでも、クラシックでも構わないんだけどね。」
そうして、公武は立ち上がると、詩を詠み上げるように、踊り始めた。その踊りは両手両足の屈伸から始まって、つま先立ちで、身体が伸びきったその時に、矢が放たれたように大きく見える。そうして、掌、指先を、ひらひらと、蝶々が飛ぶように羽ばたかせる。音楽がないのに、音が聞こえるようだった。そうして、その蝶々が舞い上がると、今度はひらひらと指先が降りてきて、それは雪だった。公武の指先が真白な雪になっていて、その爪先までもが哀しい色を帯びている。恵の目に、きらきらと、爪が雪に変じた。そうして、公武が、今度は本当に、詩を詠み始める。あめゆきとてちてけんじゃ、あめゆきとてちてけんじゃ……。その声が、消え入りそうで、初めて公武と踊った時に見た、あの消え入りそうな目を思い出させた。寂しい色で、それはよだかの星だった。踊り終わると、額の汗を拭きながら、公武は椅子に座る。ぱちぱちと拍手の音が聞こえて、そちらを見ると、高等部の生徒たちで、公武は手を上げて応えた。
「素敵。でも、音楽がないなんて、踊りにくそう。」
「詩は言葉遊びだろう。だからさ、音に法則もあるし、というか、もうあれは音楽そのものだと思うね。」
「詩は言葉遊びね。」
公武は頷いた。いつの間にか、少女たちはいなくなっていて、またこの場所に公武と恵だけになっている。
「恵は、来年、どんな学校に行きたいの?」
「え?私?私は……。」
来年、という言葉に、恵は、自分にはそんな実感はない、ないのに、公武は、それが出来ると思っている。どうしてだろうと思える。何故、彼はこのように、自分を贔屓してくれるのだろうか。
「グラン・テアトル・バレエ、ニュンベルク・バレエ、バーミンガム・ロイヤル・バレエ、ナショナル・ユース・バレエ、それからベジャール・バレエ・ローザンヌ……。」
公武は、つらつらとローザンヌに入賞した時に研修に行けるカンパニーを指折り数えて挙げてみせる。これが絵里奈ならば、すぐにでも、パリ・オペラ座と応えるだろう。そうして、ただ学校の名前を羅列されているだけなのに、さっき、詩が踊りだと、踊りが詩だと、詩が音楽と聞いたからだろうか、これらの言葉もまた音楽のように、実体を伴って、恵の耳を撫でていく。そうして来ては去って言った言葉たちが、絵里奈と恵を隔てるように、互いの違いを見せるかのように、自分のバレエを浮き彫りにしていくのである。
「ベジャール・バレエ・ローザンヌ……。」
「恵もベジャールが好きなのか?」
「あなたが好きだって言ってたのを思い出したの。」
「ああ、僕、そんなこと言ってたかな。」
公武は、惚けたような顔になって、そう言うと、今一度、恵の目を見た。真っ直ぐな目だった。
「僕はね、前も言ったけれど、ベジャールやジョルジュ・ドンのような、そういう、コリオグラファーとダンサーの、幸福な関係をね、夢見ているのかもしれないね。」
公武はそう言うと、立ち上がって、
「ねぇ、恵はどうなんだ。恵は、あの僕のコリオグラフィーをどう思う?」
少し、不安げに思えたのは、青白い火が揺れて、水のように波紋を立てたからかもしれない。恵はほほ笑んで、
「踊りたいわ。あの踊り、私にくれるのね?」
「僕のボレロみたいなもんさ。」
ボレロは、ベジャールが許したダンサーにしか踊ることが出来ない。彼の寵愛を受けた、ニジンスキーの再来とも言える、ジョルジュ・ドン。そして、美しいシルビ・ギエム。今はもうない、二十世紀バレエ団。恵も、以前公武に話をされてから、調べた程度だが、ボレロと聞いて、ネットに残された動画で観ただけの、円卓で踊る、白い炎のように香り立つジョルジュ・ドンを思い出していた。
「じゃあ、私はあなたのバレエ団でも、特別な存在ね?」
恵は頬杖をつきながら、目の前に立つ公武に話しかけた。公武は頷いた。
「そうだね。君は特別だよ。なんていっても、団員一号なんだから。」
「名前は?」
「名前?」
「その、バレエ団の名前。なんてお名前?もう決めたんでしょう?前は、モダン・バレエ・リュスだって言っていたけど。でも、それだと同じだわ。」
「二一世紀バレエ団。」
「アクセントはいいわ。でも、それも一緒のことじゃない。」
「一緒のことって?」
「だから、それだと、モダン・バレエ・リュスと変わらないわ。ベジャールが好きなのはわかったから……。」
「太陽のバレエ団。あるいは、流星のバレエ団。」
「太陽のバレエ団、あるいは、流星のバレエ団。」
恵は繰り返して、
「いいわ。ちょっと長いけど、いいわ。太陽のバレエ団、あるいは、流星のバレエ団。」
恵は嬉しくなったのか、その言葉を口遊んだ。公武は、そうじゃないと言いかけて、やっぱり辞めて、また椅子に腰掛けると、
「あるいはっていうのがいいわ。シンプルじゃないけど。でも、なんかかっこいいもん。」
恵はそう言うと、また太陽と流星を、何度も繰り返して言葉にした。公武を太陽というのは、少し語弊がある気がした。彼は月のように冷たいから。そうして、流星というのは、自分の心に添っているような気がして、そのフレーズは気に入って、繰り返し呟いた。公武は、その何度も何度も、壊れたように繰り返す恵の言葉に耳を傾けて、何も言わずに、首でリズムを取っている。そうしているうちに、昨日、彼の屋敷で見たあの景色が思い出されて、やはりあれは夢でしかなくて、本当にはなかったことではないかと、そのようにも思えたが、もう一度目を開けたとき、また遠い海の底の色で、恵は、伏し目がちになった。

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