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薔薇の踊子

1-11

 公武は先にシャワーを浴びてくるとそう言って、風呂場に姿を消した。恵は、さきほどの振付を見た興奮からか、スタジオの中心をピケ・アンディオールで回っていく。何度も何度も回転が加わる。そうして、軸足の回転が揺らぎそうになって、思わず吹き出しそうになる。そのまま、このまま熱い空気を外に吐き出したくて、幼い娘の心の慢心で、そのまま応接室の扉を開けて、天井部に並ぶ扉型の窓から差し込む月光と、揺らめく蝋燭の灯りだけのその部屋を、バルコニーまで突き進むと、そのまま蘆屋の夜景にキスをした。空気が溢れて、夏の匂いがした。そうして、空はどこまでもしらじらと明るく、昔絵里奈と一緒に読んだ『アラビアンナイト』の絵本の夜空のごとくうすく白い夜だった。その景色を眺めている内に、何か人の吐息が聞こえて、振り向くと、スーツを着た川端がいた。応接室の壁に取り付けられたソファーに座り、暗闇の中に木菟の如し猛禽の目を走らせている。言葉がでかけたが、驚きが勝って、声が出ない。そうして、川端は目を細めさせて、恵の先に広がる明く静かな夜を見つめていた。
「ごめんなさい。勝手に入ったりして……。」
恵が謝ると、川端はかぶりを振って、
「構いませんよ。どうせ何もない部屋ですから。」
川端は座ったまま、抑揚のない声でそう言うと、また黙った。夜闇に光る星のように、三白眼の瞳が瞬いている。
 恵は怖くなった。急に、青髭の館に囚われた花嫁のような心地に落ちた。そうして、気まずい時間を割けようと、窓外に目をやると、
「公武はどうですか?」
恵は振り向いて、夜の白い目に向かって、小首を傾げて見せた。
「彼と踊っているでしょう?彼の踊りはどうですか?」
「素晴らしいです。一つ一つの動作もとてもきれいで……。」
川端は何度か頷いて見せた。質問の意味が理解出来ずに、恵はまた所在なくなる。
「公武は、君も知っているとは思いますが、ワツラフ・ニジンスキーの複製人間です。」
恵は頷いた。川端の口から直接言われると、その意味が急に深くなったように思えた。川端はソファから立ち上がり、夜の静寂に目を向けた。そうして、手が伸びると、夢見心地に白く鈍く光るニンフへと手をやる。その手先は蛇のように動いて、その隣に経つジャスティスの目隠しを嬲る。
「私が彼を買ったのは七年も前です。彼はまだ少年で、しかし生まれたときから少年で、今は一六歳ですが、実際には八歳です。子供なんですよ。」
恵は頷いた。そうして、人形に触れる川端の指先に目が吸い寄せられる。離すことが出来ない。
「不思議なもので、複製人間だからと言って、彼らはオリジナルとは違うんですよ。今、複製人間は法律で一つのオリジナルから、一つしか作ってはならないと決められています。彼らは……、公武は作られて、そうしてまずは登記されます。ニジンスキーの複製としてね。だから、彼以外には、ニジンスキーの踊りを再現できる者はいないわけだ。」
「今……、たくさんの複製人間がいらっしゃると聞きました。」
「五万に満たない。だから、地球中の一〇万人に一人です。とても少ないと言ってもいいですね。彼らの数は制限されていますから。だから、莫大な金額で取引されるわけです。」
(公武さんも、高かったの?)
自分の頭の中に浮かびあがった質問に、恵は不快感を覚えて、すぐにかぶりを振った。
「僕は踊りが好きで……、人形が好きで……。ここにはブロンズばかりだから、あまりお気に召さないかもしれないが、私の部屋にはたくさんの人形がありますよ。球体関節人形や、オートマトン。自動人形ですね。人を形作ったものが好きなんですよ。人形は、人体の最も美しい身体を顕そうと、美しい人間を模そうと、人形師が骨身を削るでしょう。彼らの作る、例えば四谷シモンや、ハンス・ベルメールの作る球体関節人形は、一見異形ですが、それらは魂すら、本質すら内包しているように見えます。たくさんのオルゴール人形たちもそうです。彼らは人形として、自我がないのに、その空洞に魂が潜んでいるような気がする。硝子玉で出来た眼球を覗き込むとね。それとも、僕の心が彼らの眼球に映り込んでいるのかもしれない。畏怖心がね。」
恵は、川端が何を言いたいのかわからなかった。ただただ、早く公武に来てもらいたいと思った。しかし、遠くから聞こえるのはシャワーの音だけで、時折、電車の走る音が聞こえる。
「そうして、踊りが好きなんですよ。踊りは、絵や、文字や、音楽以前の、原初の芸術で、野生の芸術に思える。人類が生まれ落ちてからも延々、踊りは様々に形を変えて、たくさんの人々がそれを顕してきたでしょう?そうして、それの行き着く先が、バレエに思えるんです。」
バレエという言葉と、野生の芸術という言葉が、恵の心に刺さって、はっとなった。公武は、川端からこのような話を聞かされて育ったのだろうか。
「バレエダンサーの身体は、美しいでしょう。生の喜びに溢れていて、自分がキャンパスになって、自分が絵筆になって、そうして文字や絵を描くでしょう。踊りはそのようなものですよ。原初から、踊りは言葉を仮託されている。バレエというのは、ただ観ていて美しいだけではなく、何か言葉を語っている。詩や歌と同じです。だから、バレエダンサーというのは、詩人のようなものです。」
「詩人ですか。」
川端は頷いた。そうして、
「それで、公武に戻るわけです。彼は美しいでしょう。彼は人形ですからね。そうして、ニジンスキーを限りなく受け継いでいて、新しいニジンスキーだ。最高のコレクションになると思ったんですよ。」
「公武さんはあなたの息子さんだわ。」
「ゼペットとピノキオのようなものですね。作られたものです。レプリカントのような。」
「おじ様は何が言いたいの?」
「君に聞きたいと思ったんです。」
「何を?」
「彼に、公武に、魂はあると思いますか?」
恵は思わず黙って、今一度川端の目を見つめた。夜のような目が、より鋭い剣になった。
「魂?」
「人形に、器に魂があるのか。ときどき、彼はどこか遠くを見ています。私が話しかけてもね。寂しいことだが、彼は私とは違う彼岸で生きているのかもしれないと、そう思うことがよくある。」
川端は、難しい言葉を並べ立てて、恵は混乱しそうだった。そうして、いつの間にか、シャワーの音が止んでいても、それには気付かずに、ただ公武の横顔が浮かぶのだった。
「彼が人形だっていうことですか?」
「作られたんですから、まぁ人形でしょうね。ただ、彼は君と踊るときに、どのような表情で踊っていますか?踊り手なら、相手の心もわかるものかと思ってね。僕は踊らないからわからないんですよ。」
踊っている時の公武。パ・ド・ドゥを舞うときに、恵は公武の顔を誰よりもよく見ている。そうして、公武は恵の目を誰よりも見ている。流星の炎めいた目が、恵の星空を射貫くのを思い出した。
「あるわ。ありますわ。彼は、心がありますわ。」
「感情はあるかもしれない。でも、それは作られたものかもしれない。」
恵は、恐怖は飛んで、怒りだけが満ちてきた。それは、雷の火となって、目色が山猫のそれになった。川端はその目を静かに受け流すように、微笑している。
 恵に、川端が考えていることがわからなかった。川端は、彼の言葉通りであるのならば、育ての親として公武を寵愛しているわけではなく、あくまでも人形としての彼を、愛しているのだろう。最高のコレクションという言葉を聞いて、恐ろしい愛情の麻痺だと思えた。
「正直、僕は科学者ではないからね。だから、本当にわからないんですよ。彼の言葉が本当に彼を通して飛び出た真実なのか、それともそうじゃないのかなんてことはね。予めプログラムされていたシステムが上手く機能して、そうして生活しているのかもしれない。それは、誰にもわからないことです。」
「あなたは、公武さんに心がないと?」
「彼の中にあるのがね、心かどうか、魂かどうかがわからないわけだ。僕にはね。精緻に作られた有機オートマトンなのか。それとも、神の入れた魂なのか。」
急に扉が開いて、公武が顔を出した。公武は夢見るような瞳で、恵を見ている。
「ここにいたのか。送るよ。」
シャツ一枚の姿で、全てが白いのだった。公武の身体は、昼日中の明かりの下よりも薄く透明に明るい、夜光虫のように発光しているように思える。
「帰りますわ。」
恵はほほを染めて、川端に一礼すると、公武の脇をさっと横切って、そのまま応接室の扉を閉めた。玄関に降りると、下駄箱にしまっていた革靴を取り出して、夜へと出ていく。


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