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甲斐庄楠音

「甲斐庄楠音」という日本画家がいた。明治二十七年に京都で生まれたひとだ。

「かいのしょう・ただおと」という名のこのひとの絵は一度みたら忘れられない。度肝を抜かれる。これが日本画かと。

調べてみると

「第5回国画創作協会展(東京展3月7-21日、大阪展3月28日-4月11日、京都展4月17日一21日)に《南の女》《歌妓》《裸婦》《女と風船》を出品するが、《女と風船》は土田麦僊から“きたない絵”として陳列を拒否される。」

という解説がある。

松岡正剛氏はこの画家は土田麦僊の言った「穢い絵」という言葉が終生忘れられなかったのではないか、と言っていた。

それ以後、甲斐庄楠音は「では」と戦いを挑むように、美しい女ではなく、生きた女の絵を描く。それはありのままの女の姿であり、決しておさまった美人画ではなかった。

「わしの絵が針で突いたら血のでる絵や。そばによったらおしろいの匂いがする」

と弟子に語っていたという。

生きた女の絵を描くためにこの画家は自ら女装し、花魁の姿になって化粧もして、そのこころもちになって描いた。傍からみていて気持ちのいい写真ではなかったが、そこまでして、という思いは伝わってくる。

甲斐庄楠音はバイセクシャルであったかもしれない、とセイゴウさんは言っていた。

のちのこのひとは映画界に身を投じる。日本画家としての着物選びのセンスを買われて衣装の仕事についた。女優の演技指導などもし、このひとの演技指導を受けた女優の演技は目に見えて色っぽくなったという。

溝口監督の「雨月物語」の衣装でアカデミー賞にノミネートもされている。この雨月物語に出てくる京マチ子の衣装、化粧のしかたなどはこのひとの仕事だ。なるほどぞくっとするほどの色気、妖気、が漂っていた。

「畜生塚」という未完の作品がある。屏風に描かれた大作だ。秀吉に根絶やしにされた豊臣秀次一族の女たちが描かれている。恐怖、不安、混乱、落胆、悲哀、狂気、さまざまな表情、ポーズの大勢の裸婦。宗教画のようにも響いてくる。

大正時代にこんな日本画家が活躍していた。ああ、驚いたことだった。知らないことが山ほどある。

このひとの絵を見ていると、なんだかおなかのなかに得体のしれないものがごろごろしてるようなそんな気分なのだけれど、それでもそれはそれでなんだかあっぱれで、一皮剥いてみればだれだって、という気分になり、いずれいとおしきおんなのすがたかなと思ったりする。


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