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映画館

思い出すと、ふふっとなることがある。あたしも今よりは少し若かった頃の話。

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都心の小さな映画館へ、そこでしか上映していない映画を見に行った。お子さまはご遠慮してくださいというちょっと大人の映画だった。

都心とはいえ、平日の昼間は空いていた。指定席ではないので席は自分が決める。いつものように真ん中あたりに座る。

同じ列のいくつか先の席に白いスーツを着た、中年を過ぎてしまったがそれをなかなか認められないという感じのご婦人がいた。高級品に身を包み。背筋がピンと伸びている感じのひとだった。

もうすぐ上映かという時間になって、そのご婦人は上等そうなバッグからコンパクトを取り出して化粧を直し始めた。

それが終わるとその小さな鏡を右へ左へと動かして、しきりと自分自身を点検するのだった。

これから始まるのは映画なのになあ、と不思議に思う。よほど登場する俳優にほれ込んでいるのか、と推測する。

じきに館内が暗くなるだろうというころに、そそくさとはいってきた男がいた。濃紺の小粋なブルゾンを着込んでいた。

濃い色のキャップを取ると白髪が目立った。年は60歳代後半か70歳過ぎか。一徹な感じのする顔立ちだった。

その男はわたしとご婦人の列までやってきて、わたしのひとつ置いた隣に座った。

やがて館内の明かりが落ち、暗がりが広がった。

と、やにわに男は席を移動してわたしの左隣に座った。そしてかさこそと音を立ててブルゾンを脱いだ。

あれっと思っているうちに映画が始まる。スペインの映画だ。話が進むうちに悪い神父さんが出てきて、なにやらあやしいことになる。

画面のなかの人物の息が荒くなっていく。

ほほーと思いながら眺めていると、組んだ左足の腿のあたりがなんだかへんな感じがした。

カリカリカリと引っかかれているような感じなのだ。

なんとなくそのあたりに手をやるとそこにわたしのではない手があった。

えっ?これはなんだ?と思う。しばらくして、隣りの男の手が伸びているのだとわかる。

こいつは痴漢だあ、と思うが、しかし相手は老人ではないか、という思いもわく。

体を右に移動させるとそれ以上は追ってこない。

映画は展開していく。かつての親友だと名乗った男は、その親友の弟だった、とわかっていく。

そうだったのかあ、と思いながら姿勢を元にもどした。同じ姿勢を長く続けていると腰がいたくなる。

話は進み、そうしてまた、主人公たちの息が荒くなる場面がくる。

するとまたなんだか手が伸びる気配がする。どきどきするというよりなんだか滑稽な気分になる。

痴漢にあうなんて何年ぶりのことだろう。

痴漢にあいたいなんて思ったことはまったくないのだが、自分とはもはや無縁だと思っていることが今ここで起こっているということがなんだか滑稽だった。

また体を右に寄せて空いたところにペットボトルを置いた。さすがにそれを越えてはやってこなかった。

わたしはその映画館に行ったのがはじめてだったから戸惑ったが、もしかしたら、そこはそういう場所なのかもしれないなと思ったりもした。

わたしがその列にいなければ、男は白いスーツのご婦人のそばに座ったかもしれなくて、そうしたら、ご婦人の化粧の謎もなんだかわかってくるような気もするからだ。

ここにはわたしよりおとなの人々が決めた暗闇のなかだけの暗黙のルールがあったりするのだろうか、とかまた勝手な想像をしていているうちに、映画では親友の謎が解けていく。

映画が終わってクレジットが流れる。予想通り、おとこは暗がりのなかを出て行った。

その後姿を見ながら、ひとはいくつまでそういう気分になるのだろうと自分に問い、たぶん灰になるまでかなどと他人事のように自答していた。

読んでくださってありがとうございます😊 また読んでいただければ、幸いです❣️