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エッセイ

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文學界noteに掲載されている、エッセイをまとめました。
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記事一覧

【エッセイ】吉村萬壱「ガザに思う」

 小学生の時、団地の社宅に住んでいた。私は詰まらない悪さをしては、母からしょっちゅう叩かれたり飯を抜かれたりする子供だった。団地の地下の真っ暗な物置に私を閉じ込め、扉の向こうから「ネズミに齧られるぞ!」と脅すような母だった。太い二の腕と巨大な脹脛を持つ母に太腿や頬を捻り上げられると、痛さの余り絶叫したが誰も助けてはくれず、翌朝同じ棟の小母ちゃんが、登校する私をベランダから哀れむような目で見送っていたりした。小学校時代を通してすっかりぺしゃんこになった自尊感情や自信を少しでも取

【エッセイ】ロバート キャンベル「戦争を言葉で記録する人々のこと」

 ロシア軍が東・南・北の三方向からウクライナに攻め入ってから二年が経ち、先月で三年目に入った。二〇二二年二月二四日の朝、戦車部隊の車列がウクライナ北東部の国境を越え、隣接するスーミ州のオフティルカという街を制圧しようとするが策戦は成功せず、翌日にロケットランチャーから街をめがけミサイルを降らせた。英紙The Independentによるとクラスター爆弾が使われたと見られ、その爆弾が落ちた保育・幼稚園では子どもは一人、大人二人が犠牲になったという(二月二八日配信)。直後にアムネ

【書評・倉本さおり】三木三奈『アイスネルワイゼン』――明滅する現実の死角

 どんなに十全に描かれているように見えても、小説を通じて提示される視界には限りがある。達者な書き手ほど読者にその不自由を感じさせずに作中の世界を同期させる仕事をやってのけているわけだが、そこに意図的に遮蔽物が持ちこまれている場合はまた別の問題がたちあがる。そうやって覆いがかけられることではじめて輪郭を得るものを通じ、読者自身がおのれの視界の欠けや偏りを検めていく必要があるからだ。  本書の表題は作中でも触れられているとおり、サラサーテの名曲「ツィゴイネルワイゼン」(「ロマの

【エッセイ】津野青嵐「ファット」な身体【新連載第1回】

「最近、太りの方はどうなの?」  祖母は時々、私の体型を見て心配そうに聞いてくる。その度にちょっとだけ腹が立つ。 「変わらないよ。ばあびもでしょ。」  ばあびというのは、私の祖母の呼び名だ。私はかなり太っているが、彼女もまたかなり太っている。50近く歳の差があるのに、周りから見たら私たちの身体の形はそっくりらしい。 「青嵐も私と同じ、渇きの病いなのかしら。困ったものね。」  時々こんなやり取りをしてお互いを少し心配し合うが、長続きしない。すぐにこれから何を食べようか

【エッセイ】山内マリコ「お前に軽井沢はまだ早い」

 東京の東側に引っ越してきて、今年で九年目になる。地方出身者の多くがそうであるように、それまではずっと西側に住んでいた。サブカルチャーと親和性の高い中央線に憧れ、二十代は吉祥寺と荻窪を渡り歩いた。  ところが三十歳を過ぎてから東側に惹かれるようになり、お試しのつもりで引っ越してみると、妙に居心地がいい。人口が少なく摩擦熱が低い。道のうねりや坂の勾配に、江戸や明治の匂いを感じる。越してすぐ、八百屋のにいちゃんと顔見知りになった。彼に「こんちわ」とがさつに挨拶するとき、わたしは

【エッセイ】山尾悠子「夢の扉が開くとき」

 マルセル・シュオッブについて思うことをまとめて上手く言うことは難しい。新しい読者がシュオッブを知りたければ、二〇一五年に国書刊行会から浩瀚な一巻本として発刊された『マルセル・シュオッブ全集』があるし、そしてこの度は、追補の如くに『夢の扉 マルセル・シュオッブ名作名訳集』なる一冊が同版元より出た。昔からシュオッブ作品のあれこれに関しては名だたる文学者たちによる多種の翻訳が存在するため、この『夢の扉』は、全集に収録できなかった異訳の数々の精華集ということになる。本家全集では大濱

【批評】江南亜美子「『わたし』はひとつのポータル」【新連載・第1回】

 地中海をはさんだヨーロッパ・ユーラシア大陸とアフリカ大陸の一帯には、みっつの大きな渡り鳥のルートがある。なかでも地形や気候の変化に富み、北部に湖と湿地帯が広がるイスラエルは、渡り鳥の大回廊と呼ばれるほど、さまざまな野鳥が飛来する世界有数の中継地となっている。その数、年間五億羽。バードウォッチングはひとつの観光資源であり、毎年三月と一〇月には世界中の愛鳥家を魅了するいくつものツアーが催行されてきた。いっぽうで、困った問題もおきる。いわば鳥と人間との制空権争いだ。  イスラエ

【特別エッセイ】九段理江「九段理江」

 第一七〇回芥川龍之介賞受賞会見での「五%AI使用発言」が世間を騒がせた九段理江。人工知能を用いて執筆された小説が権威ある文学賞の栄誉に選ばれたというこのニュースは、瞬く間に各国へと拡がり衝撃を与えた。  会見から一週間が経過した今日(二〇二四年一月二十五日)の時点で、少なくとも英語、フランス語、イタリア語の三言語のWikipediaに「Rie Kudan」のページが作成されている事実を筆者は確認したが、未だ外国語への翻訳作品が一件も存在しないアジア圏の作家としては、異例の

【批評】矢野利裕「近代社会でウケること――包摂と逸脱のあいだ」

現代のリベラル傾向  10年まえに笑えていたことがもう笑えなくなっている。いや、10年まえどころではない。ほんの数年まえに楽しんでいたはずのテレビやラジオの番組でさえ、久しぶりに観/聴きなおしたら、その不用意な発言や振る舞いに気持ちがざわついてしまう。ましてや、YouTubeで昭和のヴァラエティ番組なんか観たら、ジェンダーや人種といった問題に対してあまりに配慮のないことに驚いてしまう。ここ1〜2年、多くの人が少なからずそのような経験をしているだろう。  人権意識やハラスメ

【論考】真山仁「秘すれば花――玉三郎の言葉」

 二〇二三年六月一一日――。  その日、私は京都にいた。気温は東京より低いのだが、ひどく蒸し暑く、首筋からふき出る汗が止まらない。  学生時代を京都で過ごした私は、その不快さを懐かしく感じたものの、年を重ねた体には、苦行でもあった。  コロナ禍が落ち着き、京都のまちにも人が溢れている。  鴨川には川床が並び、京都は、夏本番の準備を整えつつある。  暫し木陰で休み、汗の引いたところで、京都南座に向かう。  歌舞伎発祥の地に建つこの殿堂で、『星降る夜に出掛けよう』のゲ

【論考】四方田犬彦「零落の賦」

  よしや   うらぶれて異土の乞食となるとても                犀星 1  一九七〇年代も半ばを過ぎたころのことだった。学位論文を執筆するため映画にも芝居にも出かけず、髪も髭も伸ばしっぱなしで、昼も夜も部屋に閉じこもり、案前に積み上げた英語の書物を相手に唸っていた時分のことである。  もうすぐロンドンに行くからちょっと出てこないと、元同級生の女性がわたしを誘った。親には一週間で帰るっていってあるのだけど、本当のことをいうと、もう二度と帰るつもりはないのよ

【批評】渡邉大輔「宮﨑駿に触れる――『君たちはどう生きるか』と「工作」の想像力」

1 眞人の弓矢と「工作的なもの」  スタジオジブリの宮﨑駿監督の一〇年ぶりとなる長編アニメーション映画『君たちはどう生きるか』(二〇二三年)は、八二歳となったこの巨匠による「自伝的ファンタジー(1)」である。実際に、前作『風立ちぬ』(二〇一三年)から引き続き、監督の宮﨑自身の幼少年期や家族の記憶が作中のディテールに濃密にこめられていることは、拙稿を含め、すでに多くのレビューでも触れられている(2)。  そのなかでも、とりわけ注目したいのが、物語の前半に登場する、あるシーン

【追悼 ミラン・クンデラ】沼野充義「ヨーロッパ文化への亡命者」

  ミラン・クンデラが七月十一日に九十四歳で亡くなった。亡くなったのはパリの自宅だが、生まれたのは一九二九年、現在のチェコ南部のブルノである。つまり彼はチェコ出身のチェコ人なのだが、フランスに亡命しフランスに帰化したという意味ではフランス作家でもある。彼を「チェコ出身のフランス作家」と見るべきなのか、「フランスに亡命したチェコ作家」と呼ぶべきなのか、いまだに批評家や研究者の間では揺れがある。  第二次世界大戦後から一九八〇年代にかけては政治的抑圧を逃れて旧ソ連・東欧圏から多

【論考】柿内正午「エッセイという演技」

 二〇一八年一一月から毎日の日記をインターネット上に公開している。この日記を紙に印刷して、現在に至るまでに商業で一冊、自主制作で三冊発表までしている。僕はひとまず日記を公開し、販売さえする個人である。そのくせ僕は近年の日記ひいては随筆まわりの読書熱に対してどこか懐疑的である。読み手としての日記への不信と、書き手としての日記の使用。この一見矛盾するような事態をへっちゃらな顔で放置できてしまっているのはなぜだろうか。個人的な理路を解きほぐしていくなかで、エッセイという茫漠とした文