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批評メランコリー

文芸批評時評・1月 中沢忠之

 二十年以上前に留学生として日本にやってきた研究者と久しぶりに電話で話す機会があった。向こうは日本ではない。私が同人誌を作っていると言うと、知っていたらしく、「岩波『文学』の後継誌かと思った」と、冗談とも本気ともつかない口ぶりで話してくれたので、とくに訂正もしなかった。

 樋口毅宏の『中野正彦の昭和九十二年』が版元のイースト・プレスによって発売直前に回収――いわゆる自主回収――された事件から始めよう。この事件はすでにいくつかのレスポンスがある。早くは、清義明『論座』「ネトウヨを主人公に据えた“ヘイト本”は、なぜ自主回収されたのか――実在の人物名も登場するディストピア小説『中野正彦の昭和九十二年』出版中止騒動」(2022年12月27日)を発表。今月に入って、石戸諭「〈正論〉に消された物語――小説『中野正彦の昭和九十二年』回収問題考」(『新潮』2月)栗原裕一郎「社会正義による「樋口毅宏の著作回収事件」を考える」(「文芸最前線に異状あり」、『週刊新潮』2月23日)が出ている。文芸誌の『新潮』がこの事件に紙面を割いたことは、身近な問題をスルーしがちな文学界隈にあって、少なくない意味があるだろう。新潮いいね! 『文学+』WEB版でも絓秀実に寄稿を依頼した。「リスクと「不気味なもの」――樋口毅宏著『中野正彦の昭和九十二年』(イースト・プレス)の発売中止問題に触れて」(2月17日)である。かつて筒井康隆「無人警察」をめぐる「言葉狩り」論争(1993年)などで論陣を張った絓がこの事件に何を考えるのか気になったのだ。資本がリスクヘッジする――自主回収もその一結果にすぎない――社会の「不気味なもの」に対する厄介な批評として読んでほしい。自主回収についてはイースト・プレスからの説明がリリースされているが、さすがにクリアな説明とは言えない。一方、大方の見方は、当該作におけるヘイト表現に自主回収の原因があるとしている。当該作は嫌韓嫌中的・女性蔑視的なヘイト表現にまみれているが、それはヘイトを意図したものではない。むしろヘイトが容認される現状への批判を明確に読み取ることができるが、文脈抜きにヘイト表現自体を問題視するPC的な立場からの批判に版元は屈したという見方だ。とくに石戸と栗原は、そのPC的な立場――キャンセルカルチャーに関わる「社会正義的検閲」――を強く批判している。異論はないが、この事件で私が考えたことは以下になる。①当該作を批判するPC的な解釈もありうる(単に誤読とは考えない)、②著者にとって不利益な契約ではないか(ただし実情は明確にはわからない)、③出版社から出せないなら自費出版などすればよいのに(ウェブにアップしちゃうとか?)、である。②以外はほぼ同意を得られないことくらいわかっている。なにより著者にとって望ましい形に収まることがベストではある。ただ、大方の見方に接していると、こと文学における言論の場所が出版社ー図書館の公共的(?)なゾーンしか想定されていないと感じる。たとえばマンガなどは、同人誌文化が相当なボリュームとして根付き、ポルノ批判(女性差別を助長する)のみならず、不健全図書指定などのレイティングにより法的・倫理的なグレーゾーンと長く付き合ってきた。いわばエロやバイオレンスをめぐり「社会正義的検閲」との抗争・騙し合い・馴れ合いなどが日々演じられてきたわけである。文学は良くも悪くもそういった火種から隔離されがちだった。子供――もしくは〇〇――が読んだらヤバいかもなんて考える必要などないものばかりなのだから(注1)。そもそも出版社ー図書館は公共的な性格をもつ以上少しでもリスクをカットして存続をはかるしかない。営利目的からもそうするだろう。昔からのことだが、SNSなどでの批判を拾いはじめればその傾向は強まるばかりである。解釈の多様性――最近話題になっている共感的な読書体験も含む――が可視化されれば(①)、出版社ー図書館の役割もより制限される(③)。だとすると、こういった事件のたびに、読者大衆なるものと出版社ー図書館ー書店がコラボする「社会正義的検閲」の被害者として自分たちを位置づけ、自慰するだけでよいのかという疑問も出てくる。いっそのことそれとは別の言論の場所を模索するのに賭けてみるのもよいのではないか。むろんこの先はユートピアではない。無責任きわまりない余談だが、かの大谷崎は戦中連載中止となった後も執念深く書き続けた『細雪』をまずは私家版として形にしている。

(注1)言論や表現の自由というテーマにおいては、文学は、『四畳半襖の下張』裁判(1972~80年)のさいに野坂昭如が好きで読んでいる読者は被害者ではないとみなした頃とさして変わっていないとも言える。被害者ポジションを取り、「文学」という名のもとに表現の加害性を不問に付す。野坂の頃の表現問題は、わいせつ物頒布罪が主流(わいせつか芸術か)で対権力から被害者ポジション(権力の横暴に抵抗する文学)を取らざるをえなかった面があるが、歴史が明らかにしている通りその後の表現問題は、活字媒体の文学からマンガ・映画に主戦場を移すことになる。表現の需要層は子供など広範囲に拡張し、表現が持つ加害性に配慮した対策(レイティングやゾーニング)を講じてきたのであるが、文学はどうだったか。差別表現と性表現を一様に論じることはできないが(たとえばリベラルは性表現に寛容だが、差別表現には不寛容)、他のジャンルと比べると、おおむねPCの要請に従順に来れたのではないか。むろんこれは私の一視点でしかないし、キャンセルを甘んじて受け入れろという話をしたいのでもない。

 先月には芥川賞の発表があったが、『中野正彦』問題とリンクして考えざるをえなかった。候補作のどれもが、当事者的な何者かの立場から生きづらさをかかえていることがテーマになっており、ある意味方向性に類似点があるからだ。『荒地の家族』は震災被害者、『この世の喜びよ』は子育てを終えた主婦、『グレイスレス』はAV女優のメイク師、『開墾地』は米国人留学生、『ジャクソンひとり』はブラックミックスのゲイ。一見多様性に富んでいるが、方向性は似ている。しょせん一文学賞にすぎないと言われればそれまでだが、それにしてもである。一文学賞の問題に限らず、上記したように出版社の自由が制限されるほどこの傾向は強まるだろう。『中野正彦の昭和九十二年』も生きづらさをかかえたネトウヨの視点によるが、共感的な読書体験を切断する意図――絓はそこに「不気味なもの」を読み取った――がある点で芥川賞の傾向とは真逆である。ただし、受賞作の『この世の喜びよ』と『ジャクソンひとり』には、当事者云々にはとどまらない、フィクションを楽しもう、あわよくばフィクションにさらわれてもよいとしている姿勢が伝わってきた。受賞作『この世の喜びよ』の二人称採用は、それにしても、うまく機能しているようには感じられなかった。二人称には、話者が作中にいる一般的なスタイルと、話者が作中にいない例外スタイルがある。二人称問題については以前ブログ「感情レヴュー」で書いたことがあるので参照してほしい(https://sz9.hatenadiary.org/entry/2020/09/20/152800)。『この世の喜びよ』は例外スタイルを採用している。この実験的とも言える二人称スタイルは、発話ー呼びかけ主体を(同じく話者が作中にいない三人称スタイルとは違って)強く意識させるにもかかわらず、どこから発話ー呼びかけがなされているのかが不確かであるがゆえに、読者は落ち着いて物語を読み進めることができない。二人称は呼びかけにより読者を当事者として巻き込むが、発話者が作中にいなければたえず読者に不信感を与え続ける。そこに批評性が宿るはずなのだが、その意図が最後まで私には見えなかったのだ(注2)。『ジャクソンひとり』は、日本では一人だと目立つブラックミックスが複数集まると匿名化する(当事者的個性を活かすことが結果的にその個性を奪うことになる)という表層的な特徴をフィクションに取り込んで鮮やかだった。いずれにせよ、今回の芥川賞は、候補作よりもよい作品、と言うとあれなので控えるにしても、全く違った方向性のアプローチによって書かれた作品も選択できたことはここに記しておきたい。

(注2)単行本の帯(「思い出すことは世界に出会い直すこと」)をはじめ当該作を――タイトルに引っ張られているのか――感動譚として紹介するものを目にする。しかし、共感を削ぐ例外スタイルの二人称話者といい、物語レベルでも少女に対する中年女性の距離の取り方といい、そこには不信感・不安感が残余として読み取れるはずで、そこをすっ飛ばした評価は本当に読んでいるのか疑わしいと感じるけれど、私が変なのか。
【以下は3月6日追加】
『文藝春秋』3月号にて選考委員の選評が出ている。当該作は、賞を受賞したので当然全体的に高評価だが、評価の仕方に大きなバラつきを確認できる。感動譚としての評価/ホラーとしての評価(感動譚が圧倒的多数だが)、二人称が視点人物のものだとする評価/第三者のものだとする評価など。これらは解釈の多様性で済むアングルではない。前者が立てば後者は誤読であろう。このことから、二人称の解釈が定まっていないと感じる。ちなみに著者本人のインタビューも掲載されており、著者は二人称採用を「見守り」のケア的な文脈から説明している。これは最近の(「ケア」が注目される)文脈に依拠した説明とも言える。10年前に同じく二人称採用で注目され、受賞した『爪と目』はホラー的に読まれた。もちろん二人称だけで感動かホラーかの判断ができるわけではない。ただし、形式上ホラー的な違和を与えやすい二人称が、むしろ共感的な読書体験として機能し、またそう解釈されたのだとすれば、形式面と文脈面をあわせた分析があらたに必要になると考える。

 デビット・ライス(ベンジャミン・クリッツァ―)がTwitterにて、批評に対する批判をしているのも上記の問題と無縁ではない。「批評、知らない人たちが知らない人たちを引用しながらどうでもよく聞こえる問題について無駄の多い文体でおもしろくない文章を書いてる、という印象を受けちゃった」(2月10日)。『文藝』(23年春季号)「批評」の特集を組んで文学界隈では話題になったが、その特集を読んでの感想である。批評の問題点をここまで凝縮して伝えきる文章を私は知らない。そうとう思うところがあったのだろう。いちおう批評の側から弁明しておくと、批評も他のジャンルと同じく習得に時間がかかる専門的な技術や概念を用いて自己言及するので、外から見るとそういう感想になるのは当然ではある。ただ批評が他のジャンルと違うところは、誰もが参入できるノンジャンル性を併せ持っている点(それはおそらく文学・文芸を出自とするところに由来する)で、ゆえになぜ自分は容易に参入できないのかという不満もあらわれる。他のジャンルではそんな不満は起こりようはずもない。とくに最近の文芸誌は様々な専門ジャンルから評論――便宜上「批評」と分ける――を採用するという新書化の傾向があり(だからベンジャミン・クリッツァーにも需要があるのでたぶん安心してほしい)、その傾向に乗っかって今号の『文藝』のような文芸批評を読むと食あたりを起こすはずである。批評は反専門知的なノンジャンル性と専門化・秘術化の間を揺れていると考えてよい。その意味で言えば、『文藝』の特集は、従来型の(男性的?)批評の在り方を批判する意図があったはずだが――このように自ジャンルに対してオープンにしようとする意図は反専門知的な批評の力学によるものと言える――、それ自体で秘術化しているという点を外から批判されたということができるかもしれない。個人的には、責任編集として批評家――瀬戸夏子水上文――に場所をコーディネートさせる試みは意味があると感じた。

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