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フィクションの感触を求めて(最終回)

ケンケン漁と道化の生 勝田悠紀


 おにぎりと酔い止めを胃に入れ、船に乗る。まだ日の昇る気配すらない海にまわる灯台の明かりと、ばらばらに、でも手を携えたように沖に向かう周囲の船に高揚を覚える。顔に風を受けしばらく月を眺めているが、寝不足に酔い止めの副作用がかぶさり、彼は操縦室の下で横になる。次に目を開けたとき、すでに空は明らみ、匠さんが最後の糸をおろしている。
 船の後方に目を凝らしたまましばらく経ち、ついに右端の糸を引くよう指示が下る。魚の感触が素手に伝わり、ふと手を切らないかと不安になる。影がすぐそこに迫って見えるが、どうしてよいかわからない。「上げろ!」という声が耳に入り、彼はしゃにむに体重をかけて引き上げる。鰹が舷門を越えて転がり込み、緊張の解けた体が腰から船底の突起に打ちつけられる。あまりの痛みにうずくまった彼の横で、鰹が背を青黒く輝かし、力強く船底を叩いている。 

1.「演劇的」に鰹を釣る?

  ひょんな出会いから機会を得て、和歌山県の田辺市に滞在した。世話してくれたのは漁具作りの職人、このところ魚にどはまりしている自分には願ってもない話だった。和歌山といえば、太平洋に突き出し三方向を海に囲まれた地形。黒潮に近く、古くから優れた漁業技術を有してきた土地だ。わけても有名なのが、鰹のケンケン漁である。まさかそれをこの身で体験できることになるとは……。何を隠そう数年前までイワシとアジの区別もつかなかった私である。釣り(もどき)の経験は数えるほどしかなく、魚を釣り上げた経験となるとまったくのゼロ。そんなわけで私が生まれて初めて釣った魚は、思いがけなくも、鰹、ということになった。
 それがどうしたと言われそうだが、このことがついに最終回となる本稿で取り上げたいテーマに関わる。「すこし基本的なことから考え直してみたい」と言ってこの連載を始めた。その「基本的なこと」を「フィクション」と見定め、考えてきた。もっともフィクションとは何かなんて、結局は掴みどころがない。外堀を埋めるように、本丸の周囲を旋回するように、フィクションに隣接するものをあれこれ手に取るようにして進めてきた。そうしたフィクションの関連領域の中で、どこかでと思いつつこれまで触れられなかったのが「演劇性」だ。ここまできてもまだつながりが見えないかもしれないが、個人的な体験として、この旅と漁とが、演劇性とフィクションについて改めて考える手がかりを与えてくれるように感じたのである。
 まずは基本事項をおさえておこう。(少なくとも西洋の)文学史を考えてみれば、演劇、劇場こそ、フィクションの中心的なあり方であり、空間であった。物語の歴史において演劇は小説などより遥かに古く、それは虚構を考える際のいわば範例のような役割を果たしてきた。だからこそ小説という形式が自前の理論を用意しようとしたとき、いかにして演劇の用語や発想から自立するかがひとつの焦点になったという経緯がある。私たちは広くフィクショナルな物事について考えるとき、依然として「役」とか「演じる」とか演劇にまつわる言葉を使わないわけにはいかないが、同時に近代は反演劇的な感性を基調とする時代でもあって、それは「芝居のような」という形容が帯びがちなネガティヴな意味合いひとつとっても察せられる。
 こちら側(客席)に現実があって、あちら側(舞台)に非現実としての虚構がある、その構図がどれだけ単純だとしてもやはり虚構に関する私たちの思考やイメージを規定しているから、フィクションと演劇的なものは切り離せないのだろう。そしてだからこそ、演劇性への問いにおいては、こちら側とあちら側、観者と演者の関係がひとつの焦点になる。前回までの「フィクション性」に続き今回も「演劇性」というぼんやりした言葉で恐縮だが、ひとまずはこれを客席と舞台、こちらとあちらの関わり方、その間に生じる諸々を問題にするための概念と受け取ってもらいたい(それゆえ以下で触れるフリードの用語よりは広い意味で使うことになる)。
 その捉え方のひとつに、見られることへの意識を中心に据えるという方法がある。美術批評家のマイケル・フリードは、自分が見られていること(観者の存在)への意識を「演劇性」と呼び、それとは逆に自分を見ている観者がいない状態を「没入」と呼んだ(注1)。批評家のイヴ・セジウィックはこれを踏まえつつ、演劇のイメージに満ちたヘンリー・ジェイムズの自作解説(いわゆる『ニューヨーク版』序文)に、没入と演劇性、内向性と外向性の間で揺れるジェイムズの遂行性(パフォーマティヴィティ)を見出す(注2)。セジウィックはこの両項の往還を「恥」の情動として読み解き、私はこの連載開始前に書いた論考で、それをさらにフィクション性への回路として読み替えた(注3)。
 しかし、村上春樹を論じたその論考の後半部では、私は演劇性というテーマそのものからは離れてしまった。それはそれでいいのだが、ここでは道を引き返し、改めて演劇性を考え直してみたいのである。さて、鰹釣りがどう私に演劇性再考を促したのかというと、実は単純な話で、端的にそのときの出来事が演劇的に感じられたのであった。何よりまず、目の前で起こっていることのすべてが芝居がかっていた。電気照明以後、暗い客席に座る観客は文字通り我を忘れるようにして舞台を一心不乱に見つめる。船頭のわざ、周囲の船、鰹の動きさえも――すべてが刺激的で注意を奪われ、現実ながら非現実のようで、ときに笑いが込み上げてくるほどだった。
 その意味で私は、客席で見る側、観者だったと言える。旅人と観客の類比が、まずは想定される。しかし実のところ、これは一方向の関係ではない。自分は「見られる側」でもあるからだ。いつもの海で、慣れた手つきで船を操縦する漁師たちのなかにあって、希少価値(?)があるのはむしろ私の方であった。「恥」という感情のもっともシンプルな捉えられ方もこれで、人は見られていることを意識するとき羞恥を感じるのだ、としばしば説明される。
 だが、この場での演劇性は、自分のぎこちない動きを見られたことから生じたものだろうか。その視線を意識することこそが羞恥を誘い、演劇的であったのだろうか。そういう面もないとは言わないが、しかし主観的に言えば、そのとき私はとにかく必死で(何しろ今にも生まれて初めて鰹を釣り上げようというのだから!)、つまり「没入」していた。演劇性を視線の行き来で記述することは、没入して内に沈潜しつつ、何らか外に向かって発散しもするというその両義性、あるいは客席と舞台の反転可能性を捉えきれないという難点にぶつかる。
 視線の交差の手前で、その場の演劇性の前提を用意していたものがあるように感じられる。それは船上のその場における、私の「無知」ではなかっただろうか。いっとき当地を訪れた旅人としての私は、そこにいる人々にとって当然のことを何も「知らない」人間であって、だからこそそこで起こることから異様な刺激が得られると同時に、周囲から注目を集める奇妙な動きをしてしまう。ただしここでいう「知」とは、鰹の産卵場所がどこかとか船の仕組みがどうとかいうことではなくて(そういうことはあんがい律儀に勉強してきた余所者の方が知っていたりする)、より習慣的、身体的なもの、口語で「わかっていない」と言われるところに近いものだ。
 山﨑正和の『演技する精神』は、主として現象学的な観点から「演技」の諸相を論じた書物である。「演技」なるもののあり方を「行動」や「意識」一般の中から取り出そうとする彼に一貫しているのは、典型的な「行動」や「意識」における端的な目的性や志向性(歯ブラシを入手するための買い物、というように)に対し、その目的性を下支えするレベル、「図と地」でいえば「地」の側に属する次元へのアクセスを演技の本質とみなす視点だ。具体的にはその「地」は、「動機(モチーフ)」や「リズム」として論じられる。印象的な例として、体を動かしたりメロディの欠片を口ずさみながら、過去に起こった、知っていた何かを思い出そうとするとき、「現実を動かすための行動ではなく、行動を知るための行動」であるその行動は、「演技としての条件を半ば満たしていると考へられる」(注4)。
 ごく日常的な行動から演技を分かつものを、いわば視界の周辺にある「地」や背景に見出し、それを動機やリズムと名指す山﨑の着眼は私の体験に対しても示唆をくれる。その上で、例えばギリシャ演劇の起源にコロス(合唱隊)がいたことへの注目を通じて、リズム=演技の調和的な側面、過去の自分や他人との何らかの共有を重視する山﨑に対し、私はリズムのずれこそが、演劇的な場を発生させるのではないかと言ってみたい。実際私は船の上で、明らかに波のリズムに乗れていなかったのだ。だから酔い止めも虚しくすっかり酔ってしまうのだし(朝胃に入れたおにぎりは残らず紀南の海にぶちまけられた)、挙句の果てに尻餅をついてしまうのである(ちなみにこのとき強打した腰はひたすら痛く、その後二週間ほどずっと腫れていた。相互にずれたリズムの接点にできた瘤――この瘤こそその場の演劇性の具現であった!)。
 こう言うこともできるかもしれない。演劇性とは、複数の人が同じ空間を共有しながらすこしずれた別の世界に居ること、異なる二つの世界がひとつの空間に同居し接触することではあるまいか。それは視線や意識の問題であるまえに、ある空間における世界の配置、その存在の次元に関わる事柄である。この意味でまた、旅と演劇はよく似ている。その土地で基本的に外様であるほかない旅人は、かりに身ひとつで現れたとしても、当地のそれとは異なるリズムに満ちたもうひとつの世界をまるごと持ち込むからだ。
 実はケンケン漁自体が、人の移動と共に作られてきた漁法である。ここで少しばかりその歴史を遡れば、いまや紀南を代表する伝統漁法の感すらあるケンケン漁は、元々和歌山で行われていた漁法ではなかった(注5)。ケンケン漁は、疑似餌を船で曳き、魚がかかったら糸を手繰って揚げる、いわゆる曳縄漁の一種。対して江戸時代からの長い歴史を持つのは、生き餌を撒いてナブラ(魚群)を引き寄せ、それを目がけて集まってきた鰹を多くの漁師が竿で吊り上げる一本釣り漁である。
 ケンケン漁は、ハワイから伝わった。明治二八(一八九五)年、串本町田並の漁民は、それまでの移民先だったオーストラリアから締め出しを受け、新たな出稼ぎ先としてハワイを選択する。ハワイへの移民というとサトウキビのプランテーションで働くのが常道だったが、ハワイに鰹が豊富だという知らせを受け、漁船や漁具をもってハワイに渡る漁師が出てくる。紀南の一本釣りは優秀で、それが現地のカツオ価格の暴落を招き、地元の漁師から暗殺されかかる事件まで起きたようだ。他方、現地人や中国人が行っていたのが、鉤に布片三枚を結びつけた疑似餌をカヌーで曳く漁だった。「ケンケン」はこの擬餌針を指した言葉であるらしく、なかでもこの針につけた羽の鳥の名だったという説が有力だと、串本の郷土史家の雑賀徹也は述べている(注6)。
 語源もさることながら、何をケンケン漁の本質とみなすかにも意外と幅がある。例えば、擬餌針の頭につける貝。その光沢で魚を寄せるための工夫なのだが、この擬似餌の改良には、オーストラリア移民時代からの貝の採取・加工技術が生かされている。あるいは船。ハワイ型の船を参考にして重心を安定させた「ケンケン船」は、やはり田並の船大工によって手がけられた。さらには、擬餌をやや深くに沈め、魚がかかったら浮き上がることでそれを知らせる、潜航板という道具。ケンケン漁の日本国内での広まりを研究する川島秀一によれば、いまやケンケンの代名詞の感もある潜航板は、実のところ一九五〇年代に対馬の漁師から教わったもので、以後これは東海岸沿いを北上して千葉、東北にまで伝わったのだという(注7)。
 こうした経緯を眺めていると、いささか奇妙であることは自覚しつつも、「ケンケン漁」というもの自体が演劇的なフィクションだと言ってみたい気になってくる。でもそれは、ケンケンが作られた伝統だとか、その起源が後から仮構されたものだとかいうことを暴いてやろうというのではない。いや、あるいはそういうことも含まれるのかもしれないのだが、念頭にあるのは、ハワイから田並に唯一最良の技術が伝達されたというのではなく、田並、ハワイ、オーストラリア、対馬、東北、それぞれの「知」と「無知」が驚き驚かされる接触をくりかえしたその総体がケンケンだという感覚、各々の「舞台」で何かが伝わったはずではあるものの、そのうちのどれがケンケンの実体だというのでもなく、そうした諸々の関係こそが本体だというケンケンのありかたである。
 ケンケン漁は「軽い」漁だ。伝統的な一本釣り漁の優秀さにも拘らずケンケンが田並に根付いたのは、この漁が大がかりな設備や餌を必要とせず、高齢の漁師が一人でもできる「ある種の手軽さがあった」からだと言われている(注8)。その軽さ――それはハワイから対馬まで各地を移動しさまざまなものを抱き込んで発展してきたこの漁法の足跡の身軽さにも呼応しているように感じられる。

2.滑稽な(無)知を生きる

 自宅に戻ってとある読書会(注9)に参加するためJ. M. クッツェーの『サマータイム』を読んでいると、次のような一節に目が留まった。 

家の補修ガイドから彼はコンクリート一メートルにつき砂が三袋、小石が五袋、セメントが一袋必要だと知る。家を包む厚さ十センチの皮膜を作るには、彼が計算したところ、砂が三十袋、小石が五十袋、セメントが十袋必要だ。つまり工務店の資材置き場まで行き、一トントラックに荷を満載して六往復だ。

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