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フーズ・ワールド・イズ・ディス?――ヒップホップと現代世界――

第四回 音響/アンビエンス/エコロジー 韻踏み夫

 政治のせいで貧困がいきわたり、犯罪が増加し、ポリシングには銃が用いられ、街にはパニックが。マーヴィン・ゲイ「Inner City Blues」は、そのようなゲットーの叫びを歌った。しかし同じアルバムにある「Mercy Mercy Me(Ecology)」と題された曲において、もはや物事はかつてのようではなくなったとして、吹き抜ける風が毒で汚染されていること、海に油が放出されていることなどを告発したことは、忘れられた一面であるかもしれない。都市と環境への感覚。この何度聞いてもため息をもらすほかない美しい本物のクラシックである『What’s Going On』のなかで、この二つの感覚はいかにして共存していたのだろうか。オーガニックな手触りとあまりにスムースなグルーヴに統一されながら……。

レコ屋の無い田舎者のDiggerは
自然とやさくれ向かうあるべき場所
Dig作業 考古学発掘作業 普通じゃ満足できない者の荒行
リサイクルショップa.k.aレコードの墓場
時代に見捨てられた音が辿り着く最後の砦(田我流「墓場のDigger」)

 さて、ここは過密で汚染され貧困層が押し込められるインナー・シティではない。田我流がレコードの箱を漁るのは、渋谷の名店などでもなく、平成の地方都市に乱立するリサイクルショップであり、つまりこの曲は郊外的な風景のただなかに「墓場のDigger」が徘徊する様子を描いている。実際、田我流のこのアルバムでの主題とは荒廃してゆく地方都市という問題であった。「この病んだ状況ここだけじゃねーら/地方の奴らそっちはどうだ?/孤立したエリア光がねーな/Stand upとっととこっからGet Out」(「ICE CITY」)。古びた捨て値のレコードの響きを創造的によみがえらせることと、荒廃してゆく地方都市でサヴァイブすること。
 前回見た、マイク・デイヴィスが予言的に描き出した惑星規模でのスラム化は、日本においては地方都市の荒廃という状況と密接に結びついているとするのは、篠原雅武『空間のために』(注1)である。たとえば都市部における再開発と裏腹に地方の郊外では「商店街のシャッター通り化」や、「錆びたフェンスや萎びたロープで囲われて売り地の看板が立てられていても再開発の予定もない」ような土地が目につくようになっている。デイヴィスのスラム化は主に第三世界を念頭に置いて言われたものだったが、それは日本とも無縁ではなく、むしろそのスラム化の日本における現象としてこうした「生活世界の荒廃」があるのではないかという見地に篠原は立っている。日本の空間論はこれまで、高度成長と均質化という枠組みに依拠していたが、いまや新自由主義と手を取るスラム化にあって、世界は二極化的な傾向に向かい、豊かで快適な均質化し閉じられた世界の外部に、荒廃し見捨てられた空間が広がり続けているのである。それを「モール」と「スラム」という二つの語彙で表すことができるだろう。「それは、モールとスラムは別々の外在的な関係に置かれているというのではなく、スラムこそ、ショッピングモールがみずからの内に秘めた地獄、没落への傾向性の帰結なのかもしれない、ということだ」。まさしく、ニューヨークやロサンゼルスが先駆的に体験したことであった。
 日本語ラップにおいても、モール的世界とスラム/ゲットー的世界の両面がつねに歌われてきた歴史があり、前者の系譜にスチャダラパー、tofubeats、Tohjiらが連なり、後者の系譜にはキングギドラ、ANARCHY、BAD HOPらが連なっていると、さしあたり要約しておくことができる。このとき、こうした生活世界の日本的荒廃のイメージを、詩的にも音響的にも最も見事に表現しえたのは、Tohji, Loota, Brodinski『KUUGA』であったろう。「腐りかけたモノが見える」──その近未来性にもかかわらずノスタルジックでもある廃墟の世界は郊外の未来であり、モール的郊外で生まれ育った者が直感した荒廃の感覚の表現なのだ。
 ところで、モールとスラムが絡み合い荒廃を進めてゆくのが現代の傾向であるとして、その緩やかなプロセスが一挙に集約して現れる例外的な出来事の局面が存在するはずで、その一つに災害という契機があるだろう。

My whole city underwater, some people still floating (Oh)
And they wonder why black people still voting (Ooh)
'Cause your president still choking (Oh yeah)
Take away the football team, the basketball team
Now all we got is me to represent New Orleans, shit (Yeah, yeah)
No governor, no help from the mayor(Lil Wayne「Tie My Hands」)

 町全体が浸水し、いまだ人々は水の上である。大統領は黒人を苦しめるだけなのに、なぜ投票などするのか。政治家はなにもしないから、彼がニューオーリンズをレペゼンするしかない。言うまでもなくこれは二〇〇五年の破局的な災害であったハリケーン・カトリーナに際して歌われたことである。車を持てる白人の金持ちたちは街を逃げ出し、人口の大部分を占める有色の貧しい者たちは取り残され、行政は堤防や防風壁の補強を怠ったので水害は酷いものになった。「階級や人種間の不平等についてブッシュは、当初、「ストームは差別しない」などと語ったが、後に彼はこの発言を撤回せざるを得なくなった。破局のあらゆる側面は階級的かつ人種的な不平等によって形づくられる」(注2)。家も食料もなく見捨てられた人々のあいだでは、実は暴動や略奪や強姦が頻発しているというスペクタクル的な報道が飛び交い、支援は遅らされた。資本主義とレイシズムの論理にのっとって、彼らは人々を見殺しにした。このことに関して、スラヴォイ・ジジェクは次のように分析している。「ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを直撃したあとの出来事は、こうした一連の「……と想定された主体」に新たな例をつけ加えた。略奪しレイプすると想定された主体である」(注3)。ジジェクが指摘するのは、報道にある無秩序が事実か否かということは問題ではないということだ。ラカンにしたがいつつ、言う。「たとえ暴力とレイプに関する報道が〈すべて〉事実だと判明しても、暴力とレイプをめぐって流布されたうわさ話は「病的」であり、人種差別的である」。ジジェクによれば、グローバリゼーションにおいて、「物」はますます自由に国境を越え行き交いするが、「人」の流通の管理は強化される。「つまり、人々を隔離すること、それが経済的グローバリゼーションの現実である」。そしてその構造がレイシズムと絡み合っている。

アメリカ内部には、富裕層とゲットーに押し込まれた黒人とを分断する内的な壁があり、ニューオーリンズはそうした特徴を色濃く持つ都市のひとつである。われわれが空想をいだくのは、この壁の向こう側にいるひとたちに対してである。彼らが住む場所は、ますます別世界に、われわれの恐れ、不安、ひそかな欲望を投影するスクリーンとして提供される空白ゾーンに、なってきている。「略奪しレイプすると想定された主体」は、壁の向こう側にいるのだ。

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