見出し画像

短編小説:幻を追いかけて

 朧月が浮かんでいた。月は、今にも消えてしまいそうに思える煙のような雲に覆われ、薄い白のレースを身に纏っているような霞んだ姿だった。月光が雲を照らし、虹色の輪が広がっていた。黒く澄んだ夜空に浮かぶその虹は、なんとも不思議で、幻想的で、美しかった。私は、ずっと、その月を見つめる。ただ、見つめる。月に吸い込まれてしまいそうだ。思えば、はっきりと冴え、黄金色に輝く月よりも、薄い雲に覆われた朧月の方が私はすきだった。冴えた月が放つ鋭い月光は、私には眩しすぎる。霞んでいる月のほうが、なんだか優しくて、幽玄で、私はすきだ。山もそうだ。近くで見る、緑が茂り、燃えるような自然を私に見せつけてくる山よりも、遠くにある、青白く霞んだ山のほうが私はすきだ。

 私は、そういった、なにかを隔ててものを見る、ということにこの上ない美しさを感じる。雨が降り、地面が濡れ、ぼやけたカラフルなネオンの光が浮かぶ地面の景色。池に映り、さざ波で揺れる空、木。電車の窓に反射で浮かぶ車内の景色。鏡で見る私の姿。そんな、幻のもの。そんな私は、「雪国」の冒頭がすきだ。

 厳しい冬の寒さが和らぎ、優しい春の訪れを感じさせる穏やかな夜だ。空気がふんわりと私を包んでくれるような、そんな夜。私は歩き続ける。歩く。歩く。歩く。雲の隙間から輝く青い星。黒い電線が朧月を切る。オレンジの街灯が寂しく光る。灰色の鉄塔が夜空に向かってそびえ立つ。通り過ぎる車のエンジン音が、すーっと、空に溶け、静寂が訪れる。私はこんな夜の世界で、ずっと歩いていたい。

 街灯は私の影を作る。私が歩くと、その影はだんだんと角度を変え、私の前にやってくる。そして、少しずつ薄くなってゆき、消えてゆく。その影を、また先にある街灯が作り出した、濃い黒い影が追う。私が道を歩く中で、影はその追いかけっこを続けていた。思えば、子供のころ、影はとても不思議だった。なぜ、ここだけが暗いのだろう。そして、私が動けば、この黒い私の姿も動く。私がもう一人いるかのようで、その影が生きているかのようで、私は不思議でたまらなかった。この影が、ひとりでに動き出すんじゃないのかと思っていた。私は、その子供のころを思い出しながら、消えて、また生まれてくる影を見つめていた。ずっと、その影を見つめながら、私は歩き続ける。影が消える。影が生まれる。私は歩く。私は消える。私は生まれる。影は歩く。私は影。影は私。街灯は私を作る。影は歩く。私は薄くなる。私は消える。私は生まれる。影は私を見つめる。影は追いかけっこをする私を見つめる。私は歩く。影は歩く。歩く。歩く。歩く。

 
 ここは、どこ?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?