見出し画像

ネコ時代小説『まねき猫 ─猫三郎の子守り歌─』

第一話 猫に鰹節



「おい、押すんじゃねえよ!」

「痛え、なにしやがる! 押してるのは、そっちのほうじゃねえか!!」

むせかえるような人いきれのなか、いくつもの怒声が飛びかっていた。

天保三年八月十九日(西暦一八三二年九月十三日)のこと──

暑さこそやわらいだものの、日中はまだ陽ざしが強かった。

ふだんから日本橋界隈は人通りが多く、行きかう者同士が肩をぶつけあうほどにぎわっていた。

そして今日は、いつにも増して人通りが多かった。

物凄い人出だった。

足の踏み場もないほどの大変な混雑ぶりである。

それもそのはず。

稀代の大泥棒こと鼠小僧次郎吉の市中引き廻しをひと目見ようと、凄まじい数の野次馬たちがこの日本橋に集まってきていた。

好奇心が人一倍旺盛なおいね(傍点)は、料理の師匠である猫三郎と一緒に人混みにまじって揉まれていた。

小柄なおいねは美少女と言ってもさしつかえのない顔だちをしているが、働き者なので肌は浅黒く日焼けして、たくしあげた袖からのぞく二の腕や裾から垣間見える素足は、こぶりながらも筋肉が盛りあがっていた。

おいねは下駄履きに鹿の子の小袖、それに襷がけをして腰には濃(こい)藍(あい)の前掛けを締めていた。

仕込みの最中であったが、師匠の猫三郎に頼みこんで連れだって見物に出かけてきたのである。

予想を遙かにうわまわる混みようであった。

(うえっ、なんだ、こりゃ?)

おいねは背筋がゾワッとした。

誰かが着物のうえから自分の尻に触っている。

おいねは腰を左右にねじって狼藉者(ろうぜきもの)の手から逃れようとした。

だが、皆が押しあいへしあいしているので思うように身動きできない。

不届き者は調子に乗って両方の手の平でおいねの尻を撫でまわしはじめた。

おいねはキッとなって顔をまわし、背後の男の顔をにらみつけた。

男は鼻のしたを伸ばしきって、おいねの尻に夢中になっている。

おいねが咳払いをすると、ようやく気がついた男は間のぬけた顔を持ちあげた。

おいねと眼が合うと、分厚い瞼(まぶた)がたれさがったキツネ目をギョッと見開いた。

おいねは周りからの圧力を全身で押しかえして、右手をぐいと滑りこませて背後にまわした。

しつこく尻に執着する男の片方の手を探りあて、手の平をそっと重ねる。

男の手の甲を包みこむようにして握り、艶(つや)っぽく微笑みかけた。

男は、おいねが卑劣なふるまいを喜んでいると勘違いしたらしい。
たるんだ顔をさらにデレッとゆるませた。

(なに勘違いしてんだよ、オッサン!)

おいねは男の手の甲を思いきり強く握りしめた。

ゴリゴリッと指の骨がきしむ手応えがする。

「ぎゃあっ!!」

男が悲鳴をあげた。

必死に手を引っこめようとするが、おいねががっちり握りこんでいるので微動だにしない。

おいねは、さらに力をこめて握りしめた。

「い、痛ぇ、ゆ、許してくれえ~」

男は情けない声をあげて懇願してきた。

おいねは哀れな男の泣き顔を見ながら思わず大声で笑った。

(相手が悪かったね。容赦なんかしてやるもんか。こちとら力士の手だって握りつぶしたことがあるんだからね。さあ、覚悟しな!)

仕上げとばかり息を吸いこんだところで、横から猫三郎の間のぬけた声がした。

「鼠小僧はまだ来ねえのかい。待ちくたびれたぜ」

唇を尖らせて、いらいらした口調で言った。

よく歌舞伎役者と見間違えられる容貌を曇らせている。

いますぐこの場を離れて店にもどってしまいそうである。

気をそがれておいねの手の力がゆるんだ刹那、男はさっと手を引きぬいた。

同時に人波をかき分けて、ほうほうの態で逃げ去ってしまった。

(ちっ、まあいいか。指の骨の二、三本は折ってやったはず)

おいねは知る人ぞ知る、子供のころから近隣で名の知れた力自慢の美少女なのであった。

可憐な顔だちからは想像もできないことであるが、腕相撲をすれば、どんな大男でもたちどころに引っくりかえさんばかりに打ち負かした。

相撲好きの親戚の隠居などは、おいねが男子でないことを返すがえす惜しんだものである。

おいねは師匠にむかって子供を諭すように声がけした。

「もうちょっと我慢しようよ。見逃したら一生悔いが残るからさ」

不届き者のことはさっさと忘れて猫三郎をたしなめた。

猫三郎は、駄々をこねる子供のように言いかえした。

「仕込みの途中なんだぜ。客に変な物食わせたら、それこそ一生悔いが残るってもんだぜ」

猫三郎は日本橋の裏通りにある、いま人気急上昇中の小料理屋『まねき猫』の料理人兼店主だった。

おいねは猫三郎の味に惚れこんで『まねき猫』を手伝いながら料理修業をしていた。

猫三郎はおいねより頭ふたつほど背が高い。

すらりとした体に格子柄の小袖をまとい、紺の紐を襷がけしている。

下駄をつっかけて、裾を膝うえまでからげていた。

『まねき猫』はすでに江戸の食通たちのあいだでは隠れた名店のひとつに数えられていた。

絶妙な味つけに加え、料理の素材を徹底的に吟味していた。

猫三郎が他の町の十倍を超える店賃を払ってまでして日本橋に店を構えたのは、新鮮な魚介や野菜がふんだんに手に入るからだった。

それだけに猫三郎は素材の鮮度にこだわると同時に、わずかな刻(とき)の経過にも気をつかっていた。

この日に限らず、いったん仕込みを始めた猫三郎を板場から引っぱりだすのは至難のわざだった。

そのあたりのことはとことん承知の助のおいねである。

今夜、医者の父親から伝授された鍼を猫三郎に打つ約束と引きかえに、なんとか連れだしたのであった。

肩凝りは猫三郎のいわゆる弁慶の泣き所であった。

「もう、本当に気が短いんだから。ほらほら、蹄の音が聞こえてきたじゃない。もうすぐよ」

おいねは子供をあやすように猫三郎に言い聞かせた。

「へっ、とんだ弟子を持っちまったもんだぜ。仕込みをそっちのけにして悪党見物かよぉ」

猫三郎はふてくされたように頬をふくらませた。

稀代の大泥棒こと鼠小僧は、武家屋敷ばかり狙って盗みをくりかえしてきた。

盗んだ金子を惜しみなく貧乏長屋にばらまいたので、町人たちからこれほど拍手喝采を浴びた盗っ人はいない。

あまねく世間に名の知れた大泥棒でありながら、次郎吉は隠れ家を転々とし、女房も次々に変えて、雲のごとく煙のごとく立ちまわったので、必死で捕縛しようとする町奉行所を尻目に十年もの長きにわたって逃れつづけたのであった。

しかし、どんな悪党にも年貢の納めどきというものがある。

次郎吉は、ある武家屋敷に忍びこんだ際、下手を打ってとうとう捕まり、こうしてお縄を頂戴することになったわけである。

江戸中の瓦版が鼠小僧の捕縛を取りあげ、吟味の場で明らかにされた罪状の数々を面白可笑しく書きたてた。

いまのところ江戸の町人たちの関心事は、まさに鼠小僧一色に染まっていると言っても過言ではない。

そんな江戸の町の空気のなかで迎えた、今日の引き廻しである。

野次馬たちの興奮ときたら並たいていのものではなかった。

小伝馬町の牢屋敷を出た引き廻しの罪人は、まず小船町(こぶなちょう)を経由して荒(あら)布(め)橋(ばし)、さらに江戸橋を渡る。

そこから江戸橋広小路をいったん西に進み、日本橋のたもとで反転して青物町へと向かう。

さらに八丁堀を通って京橋を渡り、あとは西へ西へと哀れ地獄道。

はるか品川の刑場まで連れられていくのである。

おいねは猫三郎と肩をならべて日本橋の高札場を背にして引き廻しの一行が現れるのを首を長くして待ちわびていた。

西から来た引き廻しの一行が、榛原(はいばら)元四日市町(もとよっかいちまち)の町屋を左回りに周回して、進む向きを東に変える場所である。

ひと所にいながらにして、鼠小僧の姿を正面と横からじっくり見物することができる。

言わば引き廻し見物の特等席と言ってよかった。

野次馬たちが集まってくるのも当然であった。

「おらおら、やってきやがったぜ」

野次馬たちの間にざわめきが広がっていく。

おいねはつま先立ちして江戸橋広小路の方角を見た。

だが野次馬たちの頭と背中に邪魔されて、秋晴れの空と蔵の屋根しか見えない。

「ぜんぜん見えないよぉ」

下唇を咬んで、すねてみせると、猫三郎は「しょうがねえなあ」とつぶやき、おいねをさっと抱きあげた。

そのまま軽々と持ちあげて肩車をする。

片方の下駄が脱げ、素足が指先からふくらはぎまで露わになった。

「ち、ちょっと……な、なにするのよぉ!」

周囲の視線が自然とおいねに集中する。

照れくささと恥ずかしさで頬が熱くなった。

「こうすりゃよく見えるだろう」

猫三郎が屈託のない声で笑った。

おいねは恥ずかしさを一瞬忘れて、うっとり猫三郎の声に聞き惚れる。

柔らかな艶のある、おいね好みの低い声だった。

声だけではない。

目元もおいねがうっとりするくらい涼しげで、非の打ちどころのない男前だった。

なによりもかによりも、いつでもおいねの気持ちを察してくれる優しさを持ちあわせていた。
 
無理やり押しかけて料理修業の弟子となって三日も経たぬうちに、おいねは猫三郎に対して自分でもどうしようもないほどの熱い恋心を抱くようになっていた。

それまで料理人として尊敬していた想いが、一気に恋心に転化してしまったのであった。

おいねは、ひとり勝手に気を昂ぶらせ、左右の腿で猫三郎の首をぎゅっと締めつけた。

片想いの少女は恋する男の肌の温もりを心ゆくまで味わっていたので、猫三郎の「ぐうっ……」と言う苦しそうな唸り声は耳に入らなかった。

おいねは猫三郎を我がものにした満足感にひたりながら周囲を見まわした。

眺望が一気に開けて、日本橋はもちろんのこと、堀を埋め尽くす船の影、さらには対岸の魚河岸までよく見渡せた。

むんむんとした人波の熱気からはぬけだせたが、こんどは魚介の臭気を濃くはらんだ風が顔に吹きつけてくる。

後ろを振りかえると、高札が近くに見えた。

そのしたには晒(さら)し場がある。

この日は心中しそこねた男女が晒されていたが、いまは人波に埋もれて見えない。

おいねは猫三郎の頭に声をかけた。

「鼠小僧は盗んだ金を長屋の貧乏人にばらまいていたんでしょ。だから本当は悪い人じゃないんだよね」

おいねが背を丸めた分、腿の締めつけがゆるむ。

猫三郎は「くふう……」とひと息吐いて答えた。

「さ、そいつぁどうかな。泥棒はしょせん泥棒さ。威張っている武家を懲らしめたと、大向こうにゃ大受けだったようだが、今日(きょうび)、武家だって暮らしむきは楽じゃねえ。本当は、金を唸るほど貯めこんでいる商人から盗みてえところだろうが、商人は武家と違って戸締まりをしっかりしてるし、日頃の用心も怠らない。要は盗みやすいから武家屋敷を狙っただけなのさ。だから俺はどうしても次郎吉を認めたくねえんだよなあ」

猫三郎の話はいつも筋が通っている。

『まねき猫』に出入りする客から聞いたところでは、猫三郎は以前、瓦版を書いていたらしい。

猫三郎本人はほとんど過去を語ろうとしないが、世相を斬る筆の鋭さには定評があったという。

たしかに、ときおりその片鱗らしきものを感じさせることがある。

例えば、このたびの鼠小僧騒ぎだ。

すべての瓦版が同じネタを書きたてるのが不満らしく「瓦版も地に落ちたもんだぜ」と言って苦々しい顔つきを見せていた。

猫三郎によれば、誰も気づいていない事実を探りだして露見させることこそ、瓦版を書く者の使命なのだそうだ。

ポクリ、ポクリ

蹄の音を響かせて、引き廻しの一行が近づいてきた。

先頭に立つ者が、処刑される罪人の名や年齢、出生地、罪状を記した札を両手で掲げている。

幅の広い幟(のぼり)を手にした者がこれに続いた。

その背後に鼠小僧を乗せた馬の口取りがいて、口取りの両側に槍持ちが控えている。

後ろ手に縛られた鼠小僧が馬から落ちぬよう、腰紐をつかんでいる者が馬の横を歩いている。

馬の背後には、捕物に使う刺(さす)股(また)と袖絡(そでがらみ)をかつぐ者が一人ずついた。

一番後ろに歩いているのは町奉行所の同心だった。

馬上の鼠小僧のいでたちを見た野次馬たちのあいだから「おおーっ!」と言う大きなどよめきが起こった。

つづく

浮世絵:歌川国芳

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?