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鞆の浦(とものうら)


朝が早い。既に五時には目が覚める。敦は、1時に起きて、スマホやiPadを触り始める。ツインの部屋に泊まっているが、さすがに、電気をつけるのは酷だ。あかりが漏れないようにするのも難しい。普段は、仕事部屋と別々なので、こんな苦労をしないが、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」では無いが、ホテルの小部屋では、仕事が出来ないものだ。こっそりと、スマホで、音声をオフにしてネットサーフィンしていた。

朝から散歩に行こうと敦が瑠璃子を誘った。ホテルの目の前にある24時間営業の「なか卯」で朝食を食べることにした。瑠璃子が蕎麦を頼み、敦が定食を頼んだ。美味いとか言うものでなく、腹を満たすためのものだった。7時半には、JR山陽本線に乗っていた。高校生の通学電車のように、高校生で溢れていた。備前赤坂、松永、東尾道、尾道の順に止まった。備前赤坂と尾道で高校生が一斉に降りた。「セーラー服と学生服が多いね。」
「昔の映画の『青い山脈』みたいだな」と吉永小百合を思い出して言った敦だが、瑠璃子には通じなかったようだ。

「青い山脈」は、吉永小百合、浜田光夫、芦川いづみなどが出演していた古い殻に閉ざされた城下町の女子高校を舞台に、若く明るい青春を描いた映画だった。敦は、特に芦川いづみが好きだった。

この街の高校生達は、教科書やノォトを見ながら勉学に勤しんでいた。敦はジーンと来るものを感じた。「全席ボックスシートがいいね」と瑠璃子が言った。関東のロングシートに慣れた者からするとレトロで味わいがある。しかも座り心地がすこぶる良い。

そうこうしている内に尾道に19分足らずで到着した。駅の改札を出ると海が見える。向島が目の前にあるの狭い海だ。「尾道水道と言うらしいよ」と下調べをしてきた瑠璃子が言った。確かに河くらいの狭さに船が行き交っている。「今でも渡し船銀座と言われるくらい、幅300メートルの尾道水道、別名しまなみ海道を渡って行く通勤、通学客が多いらしいよ。今は、サイクリング客や観光客の利用が多いらしいけど」
「大橋があるのにね。やっぱ、船の方が楽しいか」確かに、サイクリングをする人も多い。

サイクリングロード「瀬戸内しまなみ海道」の本州側起点が尾道だ。2014年に、尾道駅から海沿いの好立地に誕生した複合施設「ONOMICHI U2(オノミチユーツー)」がある。「海運倉庫をリノベーションしたオシャレでモダンな複合施設なのよ」

まだ8時だったが。宿泊客のためにレストランが開いていた。コーヒー付きのブラックファーストを頼んだ。倉庫の天井の高さや、レンガの厨房なども二人の趣味にぴったりマッチした。てきぱきと働く店員に「いつからやっているの?」と訊ねたら「もう6年になります」と応えた。創業から働いているのかオーナーなのかは分からないが、働きやすい職場であることは確かなようだった。奥の方では、開店前のべーカリーからパンを焼く香ばしい香りが漂ってきた。

「ニューヨークのピア21のような海をバックにロケーションの良さを利用した商業施設は、長続きすると思う」と敦が真面目に語った。それだけ、気に入ったということだった。尾道といえば坂道をイメージする。千光寺山頂まで歩いていた。数々のお寺があった。古寺めぐりをしている意識がない二人だが、矢印のまま進見ながら沢山のお寺さんを巡っていた。

特に光明寺は、800年代慈覚大師円仁の開基で第12代横綱陣幕久五郎夫妻の墓とその顕彰標,手形記念碑があるお寺さん。掃除をしていた人の良さそうなおじさんが、教えてくれた。実物大の手形に合わせて見ると倍以上の手形だった。わすれたが、600年代に建立されたお寺が競い合うように多い。

敦は、高校時代、尾道の女子高生と文通をしていた。当時は、学生運動や東大安田講堂事件などがあった時だから、お互いに過激の発言をしていた。女の子というより、論客のような女の子だったと当時を振り返る。坂が多いので、厳しいから、言動も過激になるのかなと思っていた。実際は、横に歩きながら、スイッチバック形式で登っていく感じがした。坂から尾道水道を眺めながら、カメラに収めて歩いていると頂上まで来てしまった。

野良猫だか地域猫だか判別できないが、人懐こい猫ばかりがいた。椅子に座っていると猫から近づいて来たのには、驚かされた。「こんなに人に慣れた猫見たことない」と黒猫の背中を撫ぜながら瑠璃子が敦に同意を求めていた。頂上の近くの小さなお堂のような建物から5〜6人の僧侶がお経を読んでいる声が聞こえた。

そのお堂をつき進むと千光寺がある。文学の小道を通って、頂上の展望台までたどり着いた。展望台に女子大生の5人組が楽しそうに尾道水道を眺めていた。写真をスマホで自撮りしようとしていたので、敦は、カメラマンを買って出た。向島を背景に女子大生を撮影した。早朝、ONOMICHI U2の前で、二人を撮ってくれた男子を見習った。

下山は足に負担もあるので、ロープウェイに乗ることにした。「たった3分で着いたよ。のぼりの苦労がなんだったんだろう」と思うが、苦労したからこその『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子の一言「カ・イ・カ・ン」だ。

終点に長江口から本通商店街を抜けて海岸通りにぶつかる。そこに古い中華そばの暖簾を掲げた「つたふじ」という店がある。11時を過ぎたばかりなのに、2〜3人が待っていた。すぐに10人くらい並んでしまった。他の店は、「尾道ラーメン」と大きく看板を掲げているのに、呑気に中華そばとだけ書いてある。よっぽどバカか、よっぽど味に自信があるかのどっちかだ。よくよく柱を見ると、ミシュラン2018年掲載店の赤いステッカーが貼ってあった。
「待つ価値があるよ」
「期待し過ぎない店だから、いいかも」と敦が心配半分、期待半分で言った。
こういう店は、頑固で気に入らないと客を追い出すような感じがした。
カウンターだけの店内は、ござっぱりしていた。最初に女将の発した言葉が、「並ですか、大ですか」の二択だった。「並で」と二人でハモってしまった。11席あるが、コロナの時代なので、二人づつのカップルが4組入っているだけだった。

手際良く老夫婦が、ご主人がラーメンを作り、常連の二人を女将が相手をしていた。胡椒入れが、レトロを通り越して、錆び付いている。「それも踏まえてのラーメンの味だよ」と敦は瑠璃子に言い切った。背脂がいつまでも熱々にさせるので、スープが飲めないほど熱い。いつもは、スープを飲み切る敦だが、流石に熱すぎて飲めない。


「なんか、クセになる味だった。徐々に、飲みたくなりスープだけど、残しちゃった」と悔しがる瑠璃子に、同じ思いをした敦だった。六百円とミシュランが起こりそうな廉価だ。「すべてに無理のない店は、人もレトロで、味も昔ながらの正当派なんだね」と尾道ラーメンを誰よりも楽しみにしていた敦は、敦なりに分析をした。


思ったより早く尾道観光を終えて、福山のホテルに戻ったふたりは、翌朝早く行こうとしていた、「鞆の浦」に夕方行こうと決めた。まだ1時を過ぎたばかりだった。


坂本龍馬が「いろは丸」という船で海運業務を行っていた際、瀬戸内海で紀州藩の軍艦に衝突されてしまった「いあは丸事件」があった。この事故でいろは丸は積み荷とともに沈没。事故現場から一番近くて大きい港が鞆の浦だったことから、事故の当事者たちは鞆の浦に上陸し、事故の損害賠償交渉を行ったという。身分を隠しながら数日間滞在した屋根裏の隠し部屋が現存している。

ちょうど、20名くらいの見学ツアーの人たちと遭遇したので、あまり見ることは出来なかったが、普通のこじんまりとした民家であった。「坂本龍馬が今でもいるような感じがする町だね」住人は違っても、江戸時代のままの佇まいに時間が止まったままのような感じだ。

福山駅のバス停を確認しながら、鞆の浦のシンボルである船の出入りを誘導する灯台の役目をした「常夜燈」に行ってみた。フォトジェニックとは良く言ったもので、この周辺の写真を撮るだけで、インスタ映えする風景になる場所だ。映画やドラマでも使われる場所だという。

「なんか町並みが、江戸時代みたいで綺麗」と瑠璃子が感動したようの敦も鳥肌が立つほど感動した。こんな町が残っているだけでも奇跡だ。
「水戸黄門」や「大岡越前」「暴れん坊将軍」「遠山の金さん」などの役者が全員出てきても可笑しくないような町だ。

「今夜、遠山の金さんが夢に出てきそうだわ」
「じゃ俺は、大岡越前で登場するよ」
「あんた、必殺仕置人に殺されないでね」
そんなバカっ話で弾んだ、鞆の浦の思い出だった。

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