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あの頃は若かった

謙也がアパレルに入社した頃は、大卒者それほど居なく、田舎の高校を卒業して、会社が借りた部屋を2、3人でシャアしていた時代であった。丁度、大量にと言っても6、7人大卒を採用した年であった。毎年、一人二人の大卒を採用していたので、人事の採用担当は、早稲田出身の五歳くらい上の男だったし、慶応出身の営業の課長は、親分肌の男だった。

その頃の流行は、企画畑の広告とか、宣伝とかクリエイティブな仕事だった。謙也ももちろん、そっち関係の仕事を探していたが、面接が苦手で最終まで残れないタイプであった。なんとなく、書類をアパレルにも出してみたら、面接があり、入る気もななかったので、緊張しないで対応したら受かってしまった。後から知ったのだが、本社が名古屋で、しかも子供服がメインの会社であった。

受かってから、なんとしても子供服は勘弁してくれと願った。婦人と紳士の事業部もあった。運よく、大卒組の6人のうち4人が婦人服に選ばれた。全員企画志望の4名だ。そんな中で、最初は全員営業部に配属が決まっていた。謙也もティーンエージャーの部署に配属された。6割が高卒で年下が半分の部署だった。一番難しいのが、名前の呼称だった。芸能界は1ヶ月も早く入ったら、年齢差に関係なく先輩として扱うが、こういう場合は、君かさんを付ける。いっそ、海外のように呼び捨てもある。

どうしたか忘れたが、年下は呼び捨てだった気がする。そんな中でも、担当地区や仕事が決まるとスムーズに仲間に入れた。実は、謙也は大学をヨーロッパ旅行で留年しているので、同期より1年上だった。同期でも2年浪人した増谷という男もいた。しかも、当時の流行りで学生結婚をしていた。

ボロボロの男だったが、この会社は、よく言えば実力主義的な合理的な社風があった。何しろ、企画室に入りたい一心で、もう勉強した。ニットが得意な部署で、「横
と丸が最初に飛び込んできた不思議ワードだった。ニットを横と呼び、カットソーやジャージを丸と呼ぶ。横編みと丸編みのことだった。「たてもあるんですか」と訊ねたら、縦編みもあった。ラッセル編みという特殊な機械で編む生地だ。

そんな基礎知識も半年も経てば、ほとんど覚えてしまう。もともと。アパレルの言葉の由来は、フランス語の「appreiller(適合させる)」で、服を着せるや着飾るという意味があり、アメリカで大量生産される衣料のことを「apparel」と称するようになったことから、現代では、布から作った既製服のことを「アパレル」と呼ぶようになったとサイトに書いてあった。

ファッション屋という方が手っ取り早いのかもしれない。そんなこんなで、謙也は横浜、湘南から静岡までのエリアを任された。一年たらずで辞めた前任者が仕事好きでなかったのも幸いして、担当地区のどの店からも高評価を受けた。定期的に巡回してお客とのコミニケーションを密にすれば、誰でもできることだった。ほとんど個店の100店舗弱を緩急使いながら、前日に家に会社の車を置いて、そこから出発するので、効率が良かった。

そんな中、横浜の元町に中国人経営の小さな婦人服のブティックがあった。店名は「ヨン」だったはずだ。この店のオーナーが、ブランド歴史を実物で見せてくれた。
洋服は、流行品であり消耗品だった時代に10年前の商品を宝物ように丁寧に扱ってショーケースに陳列したあった。こんな店は、日本中探してもどこにもない。モノの価値を見極め、流行に左右されず、売れるまで陳列するには、メンテナンスもだいじだ。

謙也は、商人の鏡だと思った。五十歳を過ぎているのに、上品で本人もいつも美しさを保っていると感心していた。尊敬の念さえ抱いていた女性だった。ニットでも編み込みと言うグラフィックな柄の入ったものは、ある意味、アート作品のようにも見えたこともあるかもしれない。

実は、そのマダムから娘を結婚相手に勧められた謙也であった。直球できた話でなく、一緒に娘と家族で食事でもしましょうかと言ったニュアンスのものだった。なんとなく、既婚者だと言いにくかったので、お茶を濁しながら、商売相手とした、接し続けた。とは言え、一年も立たないうちに、念願の企画室に転部した。だから、美人マダムの娘とは一度も面識がない。残念なことしたと今でも心残りの謙也だった。ただ、物を大事にすることを実践で覚えたことが今も繋がっていると謙也はしみじみ感じている。

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