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現代美術的写真作品(コンテンポラリー&フォトアート)の緊縛菩薩曼荼羅(しばられぼさつまんだら)をいかに販売するか

仏教画にして写真作品、かつそれが曼荼羅の掛軸になった作品を私はこの何年か制作している。いろんな異なるジャンルを大幅にまたいでいる作品だ。私が調べたところだが、たぶん今までの世界の美術史にも日本の美術史にも、写真史にも、仏教史にも存在していないはずの作品である。
普通の人が考える仏教画とは、仏さまや聖者、宗教家、開祖、悟りの境地などをいろいろなモチーフにして描き出す。

写真が仏教に近づくとすれば、土門拳の名作「古寺巡礼」や最近の立木義浩の作品のように、仏像を撮影するものが多い。その流れ上では、野にある石仏や地蔵菩薩、馬頭観音などを地道に撮影するローカルな路線になる。

ドキュメンタリー的になれば、宗教的な行事、法要や護摩会、僧侶や修験者の修行の様子を撮影するケースもある。

写真という表現様式は、目の前にある具体的なものを光学的、化学的(フィルム時代では)、電子的(デジタル時代)に記録するから、仏教をはじめとする宗教的な境地を表現するにはまことに不便な表現技法である。
それに私は今に生きている人なので、時代的に言えば同時代、コンテンポラリーの作家である。仏教画のコンテンポラリー作品は、最近だと村上隆が挑戦していたと記憶しているが、どうだったかなー?あれも五百羅漢図を村上風に描き直しただけの作品だったように思うけれど。

と、今までの作品をいろいろと論じているお前はどんな作品を作っているんだ?と読者の方々は疑問を持たれることだろう。まずは、ご覧ください。こんな作品です。

技術的には、デッサンなどに使われる木製の人体模型をヒモで縛り上げ、それを合掌させ、世の中のあちこちに置いて撮影しているものです。
題して「縛られ菩薩」としているのですが、縛るヒモは仏教的に言うならば個人個人がそれぞれに背負っているしがらみ、カルマ、因縁、苦しみのもとなのであります。
合掌する手は、祈りを象徴しています。しかしその背景は、街中だったり、自然の中だったり。決して超自然的な背景や、宇宙的な空間ではありません。
私たちが暮らしている日々の世界で、どこかでちょっと祈りの時間を持つことで、その人が抱えているカルマがほぐれていくはず。そんな願いを込めています。
そしてこの作品を販売するのに、悪戦苦闘する様子をご報告したいと思うのです。


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